『悪い人も積もればお金となる -刑務所の民営化-』 大川興業 第26回本公演 /

テロリストの記憶。


ベタなタイトルは、いかにも大川興業って感じだけど、内容は、ドキドキするほどアグレッシブ。
私は、大川興業のキレイでホンキなところが好きなのだ。と、この際、言い切ってしまいたい。

その刑務所では、携帯電話の使用が許され、演劇や音楽活動が許されている。服役囚たちが陪審員となり、おちゃらけた裁判をおこなうシーンでは、一人ひとりが「エリートサラリーマン」「偏差値の低い学生」「親の金でアパート経営」といった卑近なキャラを演じ、「ホモレイプ」や「食い逃げ」など、彼らの誰かが実際に犯した罪について話し合う。

別の役を演じることの意味は、現実を別の視点からあぶりだすことだろう。プライベートと仕事を行き来する私たちの日常も、かなり演劇的な日々といえるのかもしれないな。本来は、ただひとつの役割に専心し、素の自分で居続けることこそが誠実な生き方とも思えるが、多くの人が、 他人との出会いや、別の自分に変身するチャンスを切望している。仕事も不倫もインターネットも、別の役割を演じることを許された聖域のよう。

「素」で生きるには、つらすぎる時代なのだろうか。 刑務所の中ですら演技しなくちゃいけない状況は、一見自由で楽しいが、実は相当に病んでいる。自分をはぐらかし、本質をはぐらかしながら生きていく人生は、一体どんな回り道をするのだろう。この作品は、よく似たシーンを繰り返したり、スポットライトを手動で運動させたりすることで、演じることの病的な側面と快楽的な側面を、両方アピールしているのが面白い。

刑務所内の演劇ごっこはエスカレートし、彼らの生い立ちや想像の世界が次々と演劇化される。中国から密航してきた謎の中国人(江頭2:50)によって日本が客観化され、慰安にくる漫才コンビによって笑いが客観化される。服役囚たちは悪い奴なのか、いい奴なのか。彼らは刑務所にいたいのか、いたくないのか。どこまでが劇中劇なのか。

大川総裁が舞台に現れることで、ここは刑務所の中なんだと思い出す。米国の同時多発テロ事件がネタになることで、現実を思い出す。総裁は、舞台上のできごとを「素」のままで客観視できる唯一の存在なのだ。よって、大川興業はハメをはずし切ることがない。公演中にどんな事件が起きたって、彼らは軽やかに時事問題をサンプリングし、放送禁止用語できっちり笑わせ、観客を安心して帰らせることだろう。

松本キック演じる爆弾テロリストは、総裁に「おまえ、何も考えてないじゃないか」「テロをやりたいだけじゃないのか」と罵倒され、論破されてしまうのだが、このシーンの総裁はホンキだし、爆弾テロリストが記憶を剥奪されるシーンのキレイさにも驚いた。 過去のイメージの断片が三重のスクリーンにぶれながら映し出され、断続的に流れ、消えていく。彼はその後、言葉を失ったテロリストの役を完璧に演じきるのだ。

今日、ネット上で、どこかの国の人のこんな意見を読んだ。
「アフガニスタンに爆弾を落とすのではなく、食べ物や衣服や新聞を入れた包みを落とすべき。アフガニスタンの人々は空腹と貧困と不満に喘いでいます。空腹を満たし、今何が進行しているのか教えたら、彼らは喜んでテロ防止に協力してくれることでしょう」

これもまた美しいイメージだ。大量のアフガン人が国内外へ避難を始めたため、支援物資の輸送手段が確保できず、数週間で約100万人の難民が飢餓の危機に直面しそうだというニュースが、今流れてきた。

*9/24まで 東京/本多劇場
10/3~7 大阪/近鉄小劇場
10/12~14 名古屋/愛知県芸術劇場小ホール
10/20~21 福岡/西鉄ホール
2001-09-23

『JMM(Japan Mail Media)9/18号(No.132 )』 村上龍(編集) /

対岸の火事。


結局のところ、家族や特別な人や自分自身が被害にあわない限り、それは対岸の火事である。
どこかで大震災があっても、歌舞伎町で火災があっても、近所で殺人事件があっても、そういう意味では同じなのだ。なのに、NYのテロ事件だけが、リアル?

非常に多くの人が、他人ごとではないというある種の親近感を込めながら、ハリウッド映画やトム・クランシーの小説や日々の生活に酷似した、あの事件を語っている。NYの友人が言う。「ビル崩壊後の映像には、SF的な美しさもあった。荒れ果てたパレスチナの映像とは何かが根本的に違っていた。単に見る方の感情移入の違いなのか」

悲惨さや理不尽さは、いつの瞬間も世界中にあふれているのに。どこの国の誰が被害者であっても同じはずなのに。今のところアメリカは強く、ハリウッド映画の動員数は膨大なのだ。

岸を隔てた議論は、切実さと決め手に欠ける。だが、事件についていろんなことを言い、好き勝手に考えることは、当事者ではない者のさしあたっての役割だろう。

「JMM」(http://jmm.cogen.co.jp/)の臨時増刊号は、ワシントンを中心とした海外のシンクタンクで働く日本人ネットワークPRANJらによる緊急レポートを掲載していた。

「対岸の火事」という見方は大きな間違いではないかと警告するのは、ESI経済戦略研究所の研究員、村上博美氏。
日本が中立の立場をとるならば、日米安保を解消し、G7から脱退するぐらいの決意をもたなくてはならないし、外交政策として現状維持をとるならば、テロリストのターゲットとなることを覚悟しなくてはならないのだ。日本の経済・社会機能が壊滅的なダメージを受けるであろうテロの例は3つ。
1「首都圏や福井県の密集した原発群への爆弾テロ」
2「化学兵器(サリン等)によるテロ」
3「生物兵器(細菌、ウイルス)によるテロ」
「軍事報復ということになれば、報復合戦の悪循環に陥り第3次世界大戦につき進む可能性があります。仮にテロリストからの再報復で国際条約で禁止されている生物兵器が使われ、生物兵器の報復合戦にでもなれば、第3次世界大戦の終結は人類の滅亡によってもたらされるかもしれません」

イスラム過激派は多様で、必ずしも「反米」がテロ行為の主目的とはみなされ得ないケースも多いと指摘するのは、CFR外交問題評議会の研究員、古川勝久氏。
パレスチナ過激派ハマスの場合、テロ攻撃の目的は、「反米」「反イスラエル」というよりも、むしろ「反資本主義」や「反グローバライゼーション」に近く、パレスチナ過激派がイスラエル国内で選んだ自爆テロのターゲットも、ショッピング・モール、洋風飲食店、ディスコなどが多く、ユダヤ教あるいはイスラエルのシンボルと見なされる場所が選定されたことは、ほとんどなかった。
「タリバン派の場合、国も文化も宗教も問わず、あらゆる国々に対して極めて広範囲にテロ攻撃を行ってきた。『反米主義』の立場を表明する中国、ロシア、そしてイスラム諸国のサウジアラビア、イラン、パキスタンなどさえもが、過激派によるテロ攻撃に長年悩まされ続けてきたのである」

「対岸の火事ではない」という説得は、岸を隔てた人間を「当事者」という新たな次元に連れていく。それは、大地震がいつ起きるかわからないし、人間なんていつ死ぬかわからないといった漠然とした不安とは明らかに異なる。阻止できる可能性がゼロではない事件の当事者になるという、重責をともなった危機だ。
2001-09-18

『心とは何か - 心的現象論入門』 吉本隆明 / 弓立社

助けてくれ!


アメリカの映画専門ケーブル局は、テロの当日こそニュースを放映していたが、2日目からは揃いも揃って戦争映画ばかり放映しているという。NYで仕事をしている友人は「行く先は不安だらけ」とショックを顕わにしながらも「現実から逃避したい」と言い、最近ビデオで見たらしい「バトル・ロワイアル」や「はなればなれに」の感想を楽しそうに語ってくれた。励まそうなどと不遜なことを考えていた私のほうが元気づけられるありさまだ。

今朝の朝日新聞に「公園で2歳の息子を遊ばせている間に、乳母車のポップコーンをホームレスに漁られた」というような投稿があった。「何十年か前、彼もだれかの大切な赤ちゃんだったのにと思うと、なぜか涙がこぼれた」という彼女は、ポップコーンの残りをホームレスに与えるのだが、その男、彼女の息子に比べて本当に不幸だといえるのか? 感傷に浸っている場合ではない。憂慮すべきは2歳の子供の将来だ!

こんなことを思ったのは、本書に収録された講演録のひとつ「異常の分散―母の物語」を読んだ直後だったから。個人の精神の発達史において、0歳から2歳までの乳児期と、幼児期をすぎて思春期にいたるまでの2つの期間が「不可解」であり、「この時期なしに精神の病はありえない」らしい。精神の病は、母親の物語と深く関わっており、授乳のしかたは乳児にとって決定的な意味をもつ。「本当は子どもを産みたくなかった」「夫が憎い」というような気持ちが深刻な形で続けば、実存的な影響が生涯にわたって及ぶというのである。

吉本隆明は、ジャン=ジャック・ルソー、三島由紀夫、太宰治、分裂病女児ジェーンの4人の生い立ちを例にとり、実存的な解釈を試みる。三島由紀夫は、ひどい育てられ方を意志の力で超えようとし、世界的な作家になったものの「老いにいたる前のところで、やっぱりじぶんで死んじゃうことになった」し、偉大な思想家であるルソーも「じぶんの生涯は不幸だった」と述懐する。彼らの功績は奇跡にすぎず、ほとんどの不幸はそれを超えることができないのだという記述は鋭く、「実存の不幸というものは、そんなことには代えられないほど重要なことのようにぼくにはおもわれます」と著者はいう。

人間は、母親の物語に深刻に追いつめられた場合、回避、常同、作為、妄想、幻覚といった「異常の分散」によって克服しようとするらしい。著者は、自身の語り方の中にある「異常の分散」のパターンについてこう語る。

「ぼくなんかも、今しゃべった話を速記か何かで見ると、なんてくどくどと同じことをいってんだっていうくらいうんざりする常同的振舞いや言葉があります。(中略)本音をいうと、どうやって振舞っていいのかとか、どういう言葉を使ったらいいのか判らないけど、本当は簡単で『助けてくれ』っていってるわけです。助けてくれといいたいんだけど、助けてくれという言葉はいえなくて、常同的な振る舞いとか、常同的な言葉をいっている。しかし、本当は何をいいたいのか。要するに、『助けてくれ』っていいたいんだ。あるいは、『もう地獄だよ』ってことをいいたいんだ。しかし、常同的な言葉や振る舞いでしかいえない。そういうばあいには、たぶん母親の物語の中に枠組みがなかったとはいえないまでも、枠組みがとても不安定だった。それがある期間持続した。そう物語的にいえば対応関係がつくようにぼくにはおもわれます」

助けてくれ、と皆が言っているような気がしてくる。私も毎日、それだけを言い続けているのかもしれない。
人間のあらゆる行為が「異常の分散」に見えてくる。
2001-09-15

『母は松田聖子、私は女優14歳』 SAYAKA / 文芸春秋10月号

14歳の文章に学ぶ。


日曜の深夜、セブンイレブンで月曜売りの文芸春秋を見つけた。 コンビニに文芸春秋? なんか、似合わない感じ。目次を見ると、松田聖子の一人娘、SAYAKAの文章が掲載されていた。

彼女が主演し、カンヌ映画祭で短編部門のパルムドールを受賞した「BEAN CAKE(おはぎ)」のこと、ロスの日本人学校のこと、オーディションを受けた理由、撮影中のエピソード、CMデビューの話などが7ページにわたって綴られる。母親については、超素敵で超カッコいい、何でも話せてわかりあえる親友のようなママであると大絶賛。オーディションの際も、親身に協力してくれた母だが、演技指導は一言もなかったという。

「私が松田聖子の娘として生きているぶん、母が作りあげた"SAYAKA"にしたくなかったのではないかと思う」
「母をただ外から眺めているだけでも、芸能界で仕事をしていくことの大変さが伝わってくる。外側から見える華やかさ、そして内側に秘めている地道に続けて来た数々の努力、沢山のつらいこと。何か少しでも動けば、それが全国の人に知れ渡ってしまうプライバシーのなさ」
「おそらく母は、芸能界に入って、普通に暮らしていればしなくても良い苦労や痛みを私に経験させたくなかったんだと思う。デビューした今、母に守られていると実感する」

この文が、純粋に彼女によって書かれたものであるなら、彼女は母親以上に周囲に気を遣い、愛想をふりまくことのできる天性の「ぶりっこ」なのかもしれない。文末にしばしば使われる(←笑)という記号にも、それが現れていると思った。 私は、メールなどで(笑)を使わないで済ませる方法をいつも考えているのだが、うまくいかない。代案として(←笑)はちょっと新鮮だ。矢印を入れることで、文章と距離ができるような気がする。しばらく(←笑)を使ってみようかな。そうすれば、(笑)もそのうち自然にやめられるかもしれない。


中学生の女の子が発する生の言葉といえば、「ラヴ&ファイト」(新潮社)だろう。雑誌「ニコラ」の読者ページに寄せられた手紙を編集した本で、「我マンしちゃ×だよ!!がんばれ→」というような勢いのある文章が並び、彼女たちの悩みの純粋さと、それに対する励ましの一途さが、ダイレクトに胸を打つ。

たとえば、クラスの男の子に更衣室で乱暴され、それを訴えた友人達にも裏切られ、親にもいえず、先生も聞いてくれないという14歳の「HELP ME」さんの悲痛な叫び。そして、それにこたえるいくつもの手紙がある。そのひとつである14歳の「ドラえもん」さんの言葉。

「ひどい!ひどすぎるよ。それにクラスの人もひどい事言うんですね!キズついたのは『HELP ME』さんでしょ?だったらなぐさめたり、もし知ってても知らないフリをしてあげるべきだと思います。でも、死んじゃだめ!私も昔何度も思った。でも悪いのは、あなたじゃない!E君でしょ!!だからだめ!それからその学校の先生!相談に乗ってあげてよ!なんで聞いてあげないの?それでも先生なんですか?もうこうなったらきちんと親に話して、校長先生やPTAの人などにうったえて、なんとかしてもらおう!このままじゃなにも変わらないと思うよ!Fight!!」


SAYAKAに学び、ドラえもんに励まされる。いろんな14歳がいるなと思う。
2001-09-11