『神の道化師、フランチェスコ』 ロベルト・ロッセリーニ(監督) /

ロッセリーニはコントだ。


「イタリア映画大回顧」(東京国立近代美術館フィルムセンターで開催中)で上映された1950年の映画。13世紀の伝説の聖人フランチェスコと修道士たちの生活が、オムニバス形式で繰り広げられる。

お金をかけず、プロの俳優を使わず、啓蒙しようという意図すら感じられず、だからこそ永遠に古びないという見本のような作品。溝口健二の「雨月物語」(1953)も、パゾリーニの「奇跡の丘」(1964)も、トリュフォーの「恋愛日記」(1977)も、ぜーんぶこの中に入っている、と私は思った。粗末な家やシンプルな花鳥風月を背景に織りなされる日常の微笑ましさと、聖人を俗人として描いたカラバッジョのような過激さと・・・
つまり、どう解釈していいのかわからない混乱の心地よさ!

修道士の中で最も目立つのは、ちょっと間抜けな食事係の男。彼はある日、病に倒れた友のためにスープをつくるが、まずいといわれてしまう。「脂ののったトンソクが食いたい」と病人にリクエストされた彼は、「善行」と称して他人の飼育する豚の足を斬り、叱られる。当然のことながら、彼の「善行」を飼い主は許してくれないのだ。こんな他愛のない話が相当おもしろい。

同じ修道士が、あるとき自分も布教に行きたいと考え、皆の2週間分の食事を一度につくるという話も忘れられない。まずは大きな鍋を手に入れるのだが、彼は、その鍋を丘の上から転がして運ぶ。大鍋と競争するように丘を駆け下りてくる彼の姿とひたむきな表情は、おかしさを超えた新鮮な光景として脳裏に焼きつく。

そんな努力の甲斐あって、めでたく布教にいくことを許された彼は、遊牧民の村へ出向くが、散々こらしめられた末に殺されそうになる。ただし、「言葉より態度だ」という聖フランチェスコの教えを守り、ずっと馬鹿みたいなうす笑いを浮かべ続けていたおかげで助かるのだ。やったね!

修道士たちを束ねている聖フランチェスコは、もちろん「尊敬すべき人物」として描かれてはいるものの、何かというと、すぐ口を押さえて泣く。なぜ? 泣いてごまかしているとしか思えない動作で、そんなところにも私は笑ってしまった。ほとんどの人が、真剣に見ていたみたいだけど・・・

もっとも単純でインパクトのあるエピソードは、聖フランチェスコが林の中で、らい病の男と出会う話である。杖をつき、よたよたと歩く男を見かけたフランチェスコは、やはり口を押さえて泣き、男を必死に追いかける。フランチェスコは男を助けたいのだ。しかし、男はひたすら歩き続ける。やがて追いついたフランチェスコは、男の肩を抱き、頬ずりする。男はそれをことさらに拒むことはしないが、フランチェスコの体を振りほどくと、再び同じペースで歩き出す。

要するに、フランチェスコの行為は意味をなさないのである。男は、しばらく歩いてから一度だけフランチェスコを振り返り、「何なのこいつ?」というような目でギロっとにらむ。フランチェスコは絶望し、「おお神よ!」とか何とか叫びながら野原に倒れこむ。2人のやりとりは、最小限のセットの中で演じられるコントのようだ。

フランチェスコが倒れた野原を引き気味でとらえたカメラが、ゆっくりと上昇し、空をとらえる。フランチェスコは負けたのだ。聖人も無力だってことなのか。だが、フランチェスコの魂は、いつの日か天国にいくだろうということを、この映像が語ってもいる。

微笑ましくて過激。笑えるし泣ける。真剣に見る人もいればギャグとして見る奴もいる。
すぐれた作品は、時代を超えてさまざまな解釈を許してくれるのだ。おお神よ!
2002-02-08

『息子の部屋』 ナンニ・モレッティ(監督) /

大切なものを失ったとき、もう一度こわすべきもの。


監督自身が演じる父親は、いささか「出すぎ」の感が否めない。だけど、彼がいかに妻と娘と息子を愛し、いかに幸せな家庭を守ろうとしているかが伝わるから好感度は高い。無駄なショットや大袈裟なショットもなく、自然なエピソードの積み重ねで、4人の関係がさらっと浮き彫りになる。子供たちにとっても、両親に鬱陶しさや反発を感じる一歩手前の時期なのだろう。これは、父親という役割の黄金期と、その終わり方を描いた映画だと思う。

良くも悪くもこの家族は理想的すぎる。夫婦仲もよく、娘と息子はとても素直で、私がイメージする普通の家族像、ティーンエイジャー像とはかけ離れている。息子の学校で起こる万引き騒動が家族を心配させるが、内容は牧歌的。だが、この事件が、息子の死という悲劇のイントロダクションとなる。

息子の死後、精神分析医の父親は「日曜の往診をやめていれば息子は生きていたかも」と後悔するが、家族で過ごす時間を増やせば悲劇を防げたのか? いや、むしろ、これまで過保護すぎたことが死の原因になったと考えたほうが自然ではないだろうか。遅かれ早かれ息子は独立していくのであり、彼は、彼自身の人間関係の中で死んだのだ。もしも私が彼の友達なら、彼の死は彼のせいだと思いたい。誰かのせいで死んだなんて思いたくない。自業自得!バカなやつ!と思っていたい。

実際、息子には家族の知らない秘密があった。息子のガールフレンドが訪ねてくるところから、この映画は動き出す。彼女は悲嘆にくれる家族に普通の空気を届けにくるのだ!といえば聞こえはいいが、要は、父親が築いてきた保守的な家族の幻想をくずしにくる役回りといっていい。息子の死によって幻想はいったんこわれるが、父親はその本当の意味に気付かない。だからもう一度、外部からこわしにくる人間が必要で、それが息子のガールフレンドなのである。つまり、この家族は2度こわれる。1度めは悲劇だが、2度めは希望だ。息子はいつまでも子供じゃない。

息子のガールフレンドは、両親にとっては規格外の「よその子」である。彼女は一緒に悲しんだりしないし、今日は家に泊まっていけという申し出に、ある種の肩透かしをくわせる。だけど、最終的には「いい子」と認識される。この家族は期せずして、息子の新しい物語とその先を垣間見ることができたのだ。

私自身も、男友達の死後、この映画によく似た理由とタイミングで彼の実家を訪ねたことがある。 東京から来た私を、ご両親は、予想よりもはるかに元気そうに迎えてくれた。息子と結婚するかもしれなかった女と思われたんだろうねと別の友人は言うが、もしそうなら、この映画と同様、私は彼らに肩透かしをくわせてしまったことになる。

そのことが、この映画のような希望につながったかどうかは全くわからないけれど、あの日、いつまでも手を振ってくれた彼のお母さんの姿が、ラストシーンに重なった。

*2001年 イタリア映画/全国で上映中
*カンヌ映画祭パルムドール賞受賞
2002-01-31

『インティマシー/親密』 パトリス・シェロー(監督) /

情事と恋愛のちがい。


クラッシュの「ロンドン・コーリング」が流れるアパートでセックスする2人。互いのことを何も知らないんだってことが、最小限の会話からわかる。水曜の午後、女が男のもとへセックスをしにくるのだ。そんな「割り切った関係」の均衡がどの辺から崩れていくのかを、この映画は描写する。

同じような性的願望をもち、毎週同じ日が空いており、都合のいい密会の場所がある。こういう男女が出会えば、理想的なセックスフレンドになれるはず。何度も執拗に描かれる絡みのシーンを見ていると、そんなふうに思えてくる。が、その内容は、愛のない殺伐とした行為のようにも見えるし、相性のいいリアルな交わりのようにも見える。どうなのよ、これ?

自由な解釈を許す描写の力。それはとても純粋なものだ。つまりこれは、セックスという行為そのものの意味に、最大限に肉迫することに成功した映画なのではないかと思う。

男が女を尾行することから、2人の不均衡は始まる。男は離婚して子供とも離れて暮らす身だが、女には夫がいたのだ。男は、夫にカマをかけ、彼女にはこう言う。「いつも悲しい顔をしているが本当は幸せじゃないか。子供がいて夫に愛されてる。芝居の仕事もある」。

「そんな男だったのね」と切り返す彼女。女は男に幻滅し、関係は破綻するようにも見えるが、私はこう解釈したい。2人は親密になってしまったのだと。なぜなら、本気で恋におちれば、誰もがふだんとは違う「そんな奴」になってしまうわけだし、相手にある種の思い入れを抱いているからこそ幻滅もするのである。これこそが恋愛で、ここへきてようやく幻想が崩壊し、現実の噛みあわない会話が始まったのだ! そう考えると、2人の何だかよくわからないけど純粋なセックスも、喧嘩ごしのやりとりも、すべてがいいものに思えてくる。それはたぶん、もっと親密になるためのプロセスのはずだから。

この映画の原作「ぼくは静かに揺れ動く」(角川書店)には、こんなことが書かれている。

「やがてぼくは新たな女性を知るたび、一からやり直せるものと思い込むようになった。過去などないのだ。新しく生まれ変われないとしても、当面は別の人間になれる。ぼくは女性たちを他人から自分を守るために利用するようにもなった。たとえ自分がどこにいようと、ぼくが欲しいと耳元で囁いてくれる女性と身を寄せ合っているかぎり、世間から逃れていることができた。ほかの女性たちを求めずに済んだ」

「残念ながら、ぼくらは嘘をつくことで何でもできるような気持ちになれる。同時にとんでもない寂しさも生み出される」

私たちは要するに、新しい恋愛によってやり直せるような気がし、少なくともリフレッシュくらいはできるのだ。新しい相手と出会うことは、新しい自分と出会うことなのだから。結局のところ、誰もが自分中心に生き、都合よく世界を構築し、嘘をつきながら他人を利用し、面倒な状況から逃れ、そのつど一からやり直していく。そして寂しいと嘆く。なんて身勝手でだらしないんだろう。

原作の最後の8行では、愛とは何かということが不確かな記憶のように語られる。簡単にいえば、それは「親密さ」の感触であり、私たちは、その奇跡を信じるしかないのだと思う。満ち足りた瞬間には、目の前の相手だけを見て、そこからすべての情報を受け取ることができる。そういう瞬間の人間は、あらゆる疑心暗鬼や裏切りや嫉妬と無縁でいることができるのだ。このことを考えるだけで、私は、救われた気持ちになる。

*2000年フランス映画/ベルリン映画祭 金熊賞受賞
*東京・宮城で上映中(2/2~北海道・大阪・兵庫 2/9~京都)
2002-01-26

『小説家になる!2(芥川賞・直木賞だって狙える12講)』 中条省平 / メタローグ

書くよりも大切なこと。


ある文学賞を受賞したとき、私の小説を読んでくれた知人が、登場人物になりきった手紙をくれた。別の知人は続編を考えてくれた。次は私の話を書いて!と言ってくれる人もいた。そして「自分も小説を書きたいんだ」と多くの人が言った。

私自身はひ弱な想像力で小さな嘘をまいたにすぎない。けれど、一人の嘘は一人では完結しない。私は他者を必要としており、それが小説を書く理由なんだと思った。多様な想像の可能性にふれ、打ちのめされ、別の場所へ行くこと。

小説だけじゃない。言葉はすべて嘘だ。真実に近づくための代替物にすぎない。私は日々、大切な人に向けて適当な言葉の断片を投げ続け、意外な言葉の数々を投げ返してもらう。たくさんの嘘で外堀が埋められ、いつか真実の輪郭が浮き彫りになることを信じて。


本書は、小説の書き方ではなく、想像力の磨き方を教えてくれる本だ。映画批評家および文芸・ジャズ・漫画評論家として知られる仏文学教授、中条省平氏の講義録。

パトリシア・ハイスミスの「妻を殺したかった男」、丸山健二の「夏の流れ」、三島由紀夫の「月」、室生犀星の「蜜のあわれ」、フロベールの「まごころ」などのテキストが引かれ、読み解かれる。中条氏の解釈は、ある意味で小説家を打ちのめすものだ。なぜならそれは、作家の意図とは関係のない、自立した想像力に基いているから。すぐれた批評には、批評対象を陵駕する面白さがある。ある作品を詳細に語りながら、作品に依存していない。思い入れの強度とはそういうものだ。

漫画評もすばらしい。楳図かずおの「わたしは真悟」と業田良家の「自虐の詩」の引用と解説の的確さはどうだ? 私は、原作を読んでいないのに泣かされてしまいました。

悪い例として酷評される「黒豹ダブルダウン」(門田泰明)の読み解きですら相当おもしろく、実は黒豹シリーズの売り上げに貢献しているのではと勘ぐってしまう。原文が順に引用され、コメントがこんなふうにつく。「信じがたいほど通俗的な直喩と数字のオブセッション」「一瞬たりとも自分の書きつけた言葉を反省しないのでしょうか」「そんなこと心配している場合か」「この言葉の薄っぺらさ、イメージの大仰さにはちょっとついていけない。ところが、これが何万部も売れる小説なわけです」「一巻を読み終わった時には、あまりにも疲れ、皆さんの添削用の小説を一年分読んだようなめまいに襲われて(笑)、七巻まで読むのは、彼が百巻書くのと同じくらいの労力がいるのではないかという気がしました」etc.

小説を熟知した中条氏が、小説を書かない理由については考えてみる価値がある。ここまで小説を読み込むことができれば、書く必要なんてない。批評のほうが楽しいに決まってる。この本は「批評家になる!」というタイトルのほうがふさわしいんじゃないかって思うほど。

「小説はこれ以上ない雑食的な芸術ジャンルです。そこには、いちおう決まった語り手はいますが、その語りのなかに、どんな階級や集団や職業や個人の考えでも放りこむことができます。また、世界中のあらゆる言葉や出来事を引用することも可能です。一人の作者が一人だけで作りだす世界として、これほど自由で、多様さにみちた芸術は他にないといってよいでしょう」

中条氏はそう定義しながら、小説というジャンルに潜むギリシア・ローマ以来の「知」の歴史的な厚みを示し、「天才ではないわれわれにとって、どんなことでも知らないよりは知っていた方がいいのです」とさらっと言う。そこをわかった上で「どうぞご自由に何でもやってください」とそそのかすのだ。とっても知的!
2002-01-15