『愛の誕生』 フィリップ・ガレル(監督) /

すごい映画は、さえない男に光をあてる。


この映画でいちばんすごいのは、カメラだ。このカメラマンが撮れば、どんな俳優でも、どんなストーリーでもいいんじゃないの? そんなふうに思ってしまうほどみずみずしいモノクロ映画。見えないほど真っ暗な黒と、まぶしいほど明るい白のコントラスト。「勝手にしやがれ」(1959)以来、ゴダールとトリュフォーの作品に欠かせない存在となったラウル・クタールが撮っている。センス全開!

主役のポールは、監督自身のように見える。家族と愛人の間をさまよい、どちらも思い通りにならず、苛立って妻や息子に怒鳴り散らす情けない男。赤ん坊が生まれても、愛人と寝ていても、居場所が定まらず、誰のことも幸せにできない中途半端な悪循環が、疲れた中年男をさらに疲れさせていく。それは、彼が目の前の状況を愛せないことの不幸だ。愛人にふられ、別の若い女の前で「これまでいろんな女と寝た」とか「はじめて(生理の)血がきれいだと思った」などと、妙にロマンチックな世界に入るポール。寒い!

だからといって、現実に充足しきっている中年というのも、たぶん、ものすごくつまらないはずで、男が美しく歳をとるのは大変だと思う。

「フィリップ・ガレルは息をするように映画をつくる」とゴダールは言ったそうだが、悩める自分を主役に託し、脇役の友人と対比させ、一緒にローマへ旅立つという設定はリリカル。友人を演じるのは「大人は判ってくれない」(1959)以来、ヌーヴェルヴァーグのアイドルとなったジャン=ピエール・レオーで、この映画では50歳近い年齢になっている。理屈っぽく自己中心的なせいで妻に逃げられてしまう作家という、ポールと同じくらい情けない役柄だが、妻に男ができたと知り、一途に嫉妬する姿はそれほど悪くない。さすが、いくつになってもジャン=ピエール・レオーはチャーミング!

土曜日はどうするのと息子にきかれ、わからないと答える水曜日のポール。家族の3日後も決められないそんな彼が、ラストシーンでは未来を語る。私を愛している証拠を見せてと若い女に言われ、子供を産んでもいいよと答えるのだ。が、その言葉はあまりにも軽すぎる。生まれたばかりの赤ん坊がいるくせに、なんということを言うんでしょうこの男は。「キスしてほしいだけなのに」ってあっさり言われてしまうポールは、目の前の状況を愛せと彼女に教えられたのだろう。幸せとは、過去でも未来でもないのだと。

とにかく、ひたすらさえない男の話だけれど、ポールが教会の前で友人を待ったり、海岸で見知らぬ女と会話したり、乳母車を押して街を歩いたり、そのほかにも、パジャマ姿の息子がパパと何度も叫ぶアパートの窓や、唐突にあらわれるイタリア国境の風景が、映画を見終わって時間がたてばたつほどに美しくよみがえり、私を痺れさせる。さえない男のさえない人生の、あちこちが光っていたことに気づくのだ。ストーリーも俳優もあっさり飛び越えてしまうなんて。まったく、映画を撮るってこういうことなの?

*1993年 フランス-スイス合作
*銀座テアトルシネマにて2/15までレイトショー上映中
2002-02-15

『肩ごしの恋人』 唯川 恵 / マガジンハウス

嘘っぽさが今っぽい。


るり子の3回目の結婚式に出席する、親友の萌。
るり子の夫となる男は、萌の元カレである。
萌は、結婚式が終わると、るり子の元カレ(既婚・初対面)とホテルに直行する。

萌とるり子は、こんなふうに平気で男を共有したり略奪しあったりするばかりか、互いにこう考えている。
「るり子が寝た男だと思うと、どこか安心するのだった」(萌)
「親友の恋人、というのはそれだけで十分に盛り上がる恋愛の要素を含んでいたし、何より信用できた」(るり子)

また、結婚に関しては、こう。
「今日から彼らは夫婦だ。これからは世間公認のセックスをするようになるわけだ。それはそれですごく恥ずかしいことだ」(萌)
「結婚式を済ますと、何だかみんなに『今日から大っぴらにセックスします』と宣言したような気分になり、急にしゅるしゅると体中から空気が抜けてぼんやりしてしまう」(るり子)

新宿2丁目を歩く時は、こんな感じ。
「男が自分のタイプだったりすると、ちょっと残念に思う。ああ、もったいない、女も悪くないのに」(萌)
「ここにいる男たちは、本当に、女の子よりも男が好きなんだろうか。それを思うと、もったいなくてため息が出てしまいそうだ」(るり子)

「肩ごしの恋人」は、双子のような萌とるり子の視点から交互に描かれる小説だが、驚くべきことに、2人は対照的なキャラということになっている。
「るり子はいつまでたってもわがままで傲慢で自惚れの固まりみたいな女だ」(萌)
「萌はいつだって律儀だ。小さい時からるり子と違って、自分の在り方にちゃんとルールを持とうとしている」(るり子)

しかし、いかに説明されようが、客観的に見れば「似たもの同士やん!」と突っ込みたくなる2人であることは間違いない。2人ともトウがたっていて、説教くさくて、世の中こんなもんだという諦めに似たステレオタイプな考え方をする。ストーリーは軽く、リアリティよりもネタ重視。どこかで聞いたことのあるような予定調和的なエピソードのサンプリングが延々と続く。

以上のようなことを差し引くと、この小説には何が残るのか? 最後まで楽しく読めた理由は、軽さとリアリティのなさが「今っぽい」と思えたから。自分の人生を、希薄なネタとしてドラマのように演じたり語ったりする彼女たちの姿は、どこか身近なものとして感じられる。実際、私自身が「信じられない!」と叫びたくなるようなリアリティのない行動をとる人間は、仲間うちにも、たくさんいるわけで。

そう、「仲間うち」というのがポイントだ。「私」と「リアリティのない人」の差は、決して大きなものではない。だって、それは「仲間うち」の話なのだから。萌とるり子みたいに、同じ穴のムジナであるに決まっている。そんなことを思い知らされるコワイ小説だ。

萌もるり子も、とっかえひっかえ男と寝る自由な女みたいに見えるけれど、ベースには漠然とした被害者意識がある。彼女たちは、相手との関係を深めるのがこわいのだ。男が好きなのに、つきあう目的は自分のプライドを満たすことでしかないから、結局は相手を遠ざけてしまう。まるで憂さ晴らしのような恋愛。

一方、男たちは、優柔不断で流されやすくて屈託がない。汚れないし傷つかないし悩まない。そんな彼らを、彼女たちは距離を置きながら肯定している。近づきながら否定するのでは決してなく、男を深く理解しようなんてヤボなこと、最初から考えないのだ。そんなことを始めたら、傷ついてしまうに決まっているから。

男に関しては手つかずの、少女小説なのだと思う。
2002-04-13

『インストール』 綿矢りさ / 河出書房新社

彼女が大人の女性にイラだつ理由。


携帯電話に届くジャンクメールを「迷惑メール」と呼ぶのは無神経だと思う。いったい何が誰にとって迷惑なのか? 迷惑とは受け手の感受性であり、あなたの迷惑と私の迷惑は違うのだ。歓迎する人がいるから送り手がいるのであり、結果的にそのシステムは儲かっている。儲かっているけれど非難の声が多く不都合も出てきたから「迷惑メール」という人類共通の敵を曖昧に想定して「戦います!」なんて宣言している。これは明らかにシステム自体の欠陥なのに。

大人は、かくも迷惑なシステムや、そのほかにもいろいろ残酷な落とし穴をつくっておきながら、そこに未成年がハマったりすると、鬼の首をとったように大騒ぎする。

・・・でも、それほど心配する必要ないかも。現役高校生によって書かれたこの小説に登場する未成年の真っ当さに、私はほっとした。

小学生のかずよしは、古いコンピュータを拾うが、その理由として「お金がどうとかじゃないです、なんていうのかなあジャンクのコンピューターを使って押入れでぼろもうけ、そういうのに憧れたからでしょうか」なんていう。かずよしと共謀し「押入れ」という情緒的なシェルターの中で風俗チャット業を始める女子高生の朝子もまた、豊かで退屈で不自由で希望のない未成年期を何とかやりすごすために四苦八苦している。結末は最初から見えているし、彼らにもわかっているが、他にやるべきことがないのだから仕方ない。大人から与えられた味気ない世界に、本能的に知る限りのわずかな情緒を加え、少しでもいいものに仕立てようとする切実な行為。そこから彼らは大切なことを学んじゃったりもするのだから泣けてくる。コンビニのお惣菜で味覚をきたえ、栄養を摂取するしかないっていうような。

高校時代というのは、大人が羨むほどいいものではないと私は思うし、高校生のときは、もっとそう思っていた。26歳の風俗嬢の代わりにチャットを体験する朝子は「やはり女子高生というのはブランドらしい」と自覚しながらもそれを喜ばず、26歳を「おばはん」という客に憤慨する。たとえ今が旬といわれても、未来に希望がもてなければ虚しいだけなのだ。

朝子は、会話が途切れた後の沈黙を恐れ、 自分の母の屈折したアプローチにびびり、かずよしの母の不器用さに露骨な嫌悪感を示す。ここまでナーバスに大人の女性を糾弾する理由は、自らの内面にも同種の要素が巣食っていることに気付きはじめているからだ。母親という人種に対する生理的違和感と、それを超えて幸せにならねばという焦りは、父親不在、恋人不在の現実をほのめかす。朝子が信頼するのは、母でもなく、母と離婚した父でもない。パソコンを買ってくれた亡き祖父と、仕事を紹介してくれたかずよしと、説教してくれる同級生の光一という実用的な3人だけである。

かずよしの母が立ち去った後、「お礼」として朝子が思いつくのは、鍋の中に中途半端に残っていたなめこ汁を食べ切ってあげるという、拍子抜けするほど素直なアプローチ。だが、冷えたお椀を手にベランダのコンクリートに座る朝子の姿は、普通のコミニュケーションを得ることの絶望的な難しさを予感させる。

興味津々だった風俗嬢も、実は普通の母親であり、特殊な人々で構成されているように見えた風俗チャットも、ふたを開ければ普通の人間の集まりだった。バーチャルな世界は、いつだってリアルな世界の合わせ鏡に過ぎないことを朝子は理解する。屈折のない人生なんて、不器用でない生き方なんて、本当はどこにも存在しないのだ。
2002-02-09

『神の道化師、フランチェスコ』 ロベルト・ロッセリーニ(監督) /

ロッセリーニはコントだ。


「イタリア映画大回顧」(東京国立近代美術館フィルムセンターで開催中)で上映された1950年の映画。13世紀の伝説の聖人フランチェスコと修道士たちの生活が、オムニバス形式で繰り広げられる。

お金をかけず、プロの俳優を使わず、啓蒙しようという意図すら感じられず、だからこそ永遠に古びないという見本のような作品。溝口健二の「雨月物語」(1953)も、パゾリーニの「奇跡の丘」(1964)も、トリュフォーの「恋愛日記」(1977)も、ぜーんぶこの中に入っている、と私は思った。粗末な家やシンプルな花鳥風月を背景に織りなされる日常の微笑ましさと、聖人を俗人として描いたカラバッジョのような過激さと・・・
つまり、どう解釈していいのかわからない混乱の心地よさ!

修道士の中で最も目立つのは、ちょっと間抜けな食事係の男。彼はある日、病に倒れた友のためにスープをつくるが、まずいといわれてしまう。「脂ののったトンソクが食いたい」と病人にリクエストされた彼は、「善行」と称して他人の飼育する豚の足を斬り、叱られる。当然のことながら、彼の「善行」を飼い主は許してくれないのだ。こんな他愛のない話が相当おもしろい。

同じ修道士が、あるとき自分も布教に行きたいと考え、皆の2週間分の食事を一度につくるという話も忘れられない。まずは大きな鍋を手に入れるのだが、彼は、その鍋を丘の上から転がして運ぶ。大鍋と競争するように丘を駆け下りてくる彼の姿とひたむきな表情は、おかしさを超えた新鮮な光景として脳裏に焼きつく。

そんな努力の甲斐あって、めでたく布教にいくことを許された彼は、遊牧民の村へ出向くが、散々こらしめられた末に殺されそうになる。ただし、「言葉より態度だ」という聖フランチェスコの教えを守り、ずっと馬鹿みたいなうす笑いを浮かべ続けていたおかげで助かるのだ。やったね!

修道士たちを束ねている聖フランチェスコは、もちろん「尊敬すべき人物」として描かれてはいるものの、何かというと、すぐ口を押さえて泣く。なぜ? 泣いてごまかしているとしか思えない動作で、そんなところにも私は笑ってしまった。ほとんどの人が、真剣に見ていたみたいだけど・・・

もっとも単純でインパクトのあるエピソードは、聖フランチェスコが林の中で、らい病の男と出会う話である。杖をつき、よたよたと歩く男を見かけたフランチェスコは、やはり口を押さえて泣き、男を必死に追いかける。フランチェスコは男を助けたいのだ。しかし、男はひたすら歩き続ける。やがて追いついたフランチェスコは、男の肩を抱き、頬ずりする。男はそれをことさらに拒むことはしないが、フランチェスコの体を振りほどくと、再び同じペースで歩き出す。

要するに、フランチェスコの行為は意味をなさないのである。男は、しばらく歩いてから一度だけフランチェスコを振り返り、「何なのこいつ?」というような目でギロっとにらむ。フランチェスコは絶望し、「おお神よ!」とか何とか叫びながら野原に倒れこむ。2人のやりとりは、最小限のセットの中で演じられるコントのようだ。

フランチェスコが倒れた野原を引き気味でとらえたカメラが、ゆっくりと上昇し、空をとらえる。フランチェスコは負けたのだ。聖人も無力だってことなのか。だが、フランチェスコの魂は、いつの日か天国にいくだろうということを、この映像が語ってもいる。

微笑ましくて過激。笑えるし泣ける。真剣に見る人もいればギャグとして見る奴もいる。
すぐれた作品は、時代を超えてさまざまな解釈を許してくれるのだ。おお神よ!
2002-02-08