『白夜(ニュープリント修復版)』 ルキーノ・ヴィスコンティ(監督) /

ミステリアスな男は、現実的な男よりカッコいいか?





1年後に戻ると約束した恋人を橋の上で待ち続けるナタリアと、そんな彼女に惹かれるマリオ(マルチェッロ・マストロヤンニ)。ドストエフスキー原作、3日間の物語だ。

運河の街を再現した幻想的なスタジオで繰り広げられるおとぎ話は、すべてが嘘っぽい。ナタリアとマリオの出会いからしてインチキくさいナンパだし。だが、「出会い方なんてどうだっていい」というマリオのセリフから、次第に映画はリアリティを獲得してゆく。セットのうそっぽさ、設定の不自然さ、男女の出会いの安直さに自らつっこみを入れ、乗り越えてしまうのだ。ヴィスコンティは言う。「この映画はリアリズムのある映画であり、しかし同時に、夢の中をさまようような可能性も残したかった」

ミニマムな制約の中での現実的なコミュニケーションが面白い。人はどのように他人に先入観を抱いたり、距離を縮めたり、理解しあったり、友達になったり、万が一には好きになっちゃったりするのか? 普通の女と娼婦を、男はどう区別するのか? ただすれちがうだけの他人とのコミュニケーションこそが大切なのだと、この映画は気付かせてくれる。日々すれちがう他人に対して無神経な人に、いい出会いなんてありえないのだ。これ、重要なことである。

おとぎ話度が最も強烈なのは、ナタリアと恋人の出会いと別れの回想シーン。彼女の話があまりに現実ばなれしていることから、マリオは「おとぎ話を信じるな。現実を見ろ」と言う。正論だ。だって彼女は、恋人の職業も知らないし、恋人が1年間、彼女を置いてどこかへ行かなければならない理由すらも聞いていないのだから。ナタリアが一目ぼれで恋に堕ちた理由は、彼がハンサムであるからという以外に思いつかない。そんな彼女にマリオは自らの願望をしのばせつつ「彼は戻らないよ。僕は男だからわかる」と言い切る。

3日目の夜になっても、恋人は橋の上に現れない。ナタリアは「1年間愛し続けた私を、彼はこんなふうに裏切ったんだわ」と強気のセリフを初めて口にし、マリオは狂喜乱舞。が、雪の中、夢みたいな夜を2人で過ごした後、彼女の恋人は現れる。そして、彼女はあっさりと彼の元へ舞い戻ってしまうのである。呆れてしまうようなこのエンディングは、今見ても斬新。

ミステリアスな男は有利である。映画を観ている私たちだって、ナタリアの恋人については、ほとんど何も知らないのだから。こんな男が1年後にちゃんと戻ってきたら、3日前に軽いナンパで出会った男が太刀打ちできるわけがない。マリオはといえば、下宿先で女主人に起こされる朝の風景から、橋の上の娼婦についていっちゃうシーンまで、スクリーン上で暴かれてしまっているのだから、もはやダメダメである。

しかし、言うまでもなく、マストロヤンニ演じるマリオは素晴らしい。「よくわからないけどかっこよさげな男」より、「すべてをさらけだしてあっさりふられちゃう男」のほうが、観客にとっては「いい男」に決まっているのだ。つまり、この映画は2つの意味でハッピーエンドである。ナタリアはわけのわからない恋人とうまくいった。そして、いい男が一人、まだスクリーン上に残っている。

娼婦(クララ・カラマイ)の存在感も忘れ難い。「私だって誰にも頼らないで生きてるんだよ」というセリフは目からうろこであった。ナタリアのような普通の女は男に頼って生き、橋の上の娼婦は男に頼らずに生きているのである。

*1957年 イタリア・フランス合作
*ヴェネツィア映画祭銀獅子賞受賞
*シネ・リーブル池袋で1月10日までモーニングショー上映中
2003-01-09

『どぶさらえ』 町田康 / 「文学界」2002年1月号

オトコ言葉は、世界を救えるか?


「先ほどから、『ビバ! カッパ!』という文言が気に入って、家の中をぐるぐる歩きまわりながら『ビバ!カッパ!』『ビバ!カッパ!』と叫んでいる」

冒頭からこれほど読者を脱力させる小説も珍しい。ここから何かを学んでやろうとか、あらさがしをしてやろうとかいう情熱はあらかじめ失われてしまう。北風と太陽の話を思い出すまでもなく町田康は太陽だ。相手を油断させ、指一本ふれずに裸にする。

私は日本経済新聞を読みながら笑うことは少ないが、町田康のエッセイがある木曜夕刊タウンビート面に限っては「ぶっ」と吉田戦車を読んでいるときのような吹き出し方をしてしまう。 私は、必要な記事があればハサミで切り抜くが、町田康のエッセイに限っては手でちぎってしまう。新鮮なうちに誰かに食べさせたいからだ。包丁を使うよりも手でちぎったほうがキュウリだって美味しい。

一方、タウンビート面に続く生活家庭面には、どことなく疎外感を受けてしまう。神聖な食べ物や神聖な病気や神聖な子育てをちゃかしたりするのは不謹慎であるというような空気に満ちているからだ。女の私でさえそう感じるのだから、男性にいたっては、家事に協力的なお父さん以外は入室禁止という感じ。しかし、町田康はそんな「生活家庭」という畏怖の聖域にタウンビート面から土足で踏み込み、「文学界」においても町内会の人間模様を斬り、どぶさらえという汚れ仕事をすっぱ抜く。しみったれたことを書けば書くほどかっこいいのはなぜだろうと熟考して気がついた。もしも町田康の文体がオカマ言葉であったら、こうはいかない。しみったれたフィールドで頑なにキープされている土足なオトコ言葉が、かっこよさを際立たせているのだ。「どぶぐらいさらえろっつんだよ、あほが」「え?ぜんぜんわかんねぇよ」「なんだよ、言えよ」

オトコ言葉の特長はシンプルなリズム感だ。 オンナ言葉はノリが悪い上に意味がありすぎて、くだらないことを言いにくいというハンディを背負っている。だから私は、生活の中になるべくオトコ言葉を取り入れるよう努めてみたい。たとえば「ごはん食べに行かない?」の代わりに「メシ食いに行こうぜ」と言ってみる。なんだかスマートに誘えそう。「静かにしてくださらない?」の代わりに「うっせーんだよ」と言ってみる。なんだか気持ちいい。デートの場所が気に入らない時には「えー、今日もアソコへ行くのお? 」とゴネて彼氏をうろたえさせる代わりに「またアソコかよ」とキメてみる。彼氏は即座に「悪いかよ」と返してくれるだろう。その後は楽しい会話になるはずだ。

だが、私は「ビバ!カッパ!」という言葉を取り入れることができるだろうか。だいたいこの小説を読んでいない人には意味が通じない。うーん、都合の悪いことをごまかすときに言ってみようかな。重要なのは意味よりもリズム感だ。町田康が指示するとおり「両の手を上に上げ、掌を太陽に向け、天を仰いで首を左右に振りつつ、若干内股で、腿をそんなにはあげないでリズミカルに前進して」言えばいいのである。「ばっかじゃないの」と言ってやりたい相手に「ビバ!カッパ!」と踊ってみせれば、逆に自分のほうが「ばっかじゃないの」と笑われることだろう。こんなふうに相手を優位に立たせることが肝腎なのだ。油断させ、指一本ふれずに裸にする。

「ビバ!カッパ!」は、泣きたいような歓喜の爆発。「俺」の具体的などぶさらえは、これにより、いつのまにか「抽象的などぶさらえ」へと移行していく。勢いのある言葉は、人を脱力させ、ものごとの本質をあばき、確実に状況を変えるのだ。
2002-12-29

『イタリアンばなな』 アレッサンドロ・G・ジェレヴィーニ+よしもとばなな / 生活人新書(NHK出版)

あまりに残酷な真実を暴くクリスマス。





林真理子の「20代に読みたい名作」(文藝春秋)には、古今東西54編の小説が紹介されている。
「この中の何冊を読んだ?」と20歳の女子大生A子とB子に聞いてみた。

「本はあまり読まない」というA子は、よしもとばななの「キッチン」のみ。「読書が好き」というB子は、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」、村上春樹の「ノルウェイの森」、向田邦子の「思い出トランプ」、山田詠美の「放課後の音符(キイノート)」、よしもとばななの「キッチン」の5冊をあげた。ちなみに2人とも、林真理子の小説は読んだことがないという。

おそるべし、よしもとばなな!
彼女の人気は国内だけではない。イタリアでは、1991年に「キッチン」が出版されたのを皮切りに11の作品が翻訳され、約250万部が売れたそう。ばなな作品を数多く翻訳しているアレッサンドロ・G・ジェレヴィーニ(以下アレちゃん)によると、本を読むというのは沈黙の中の行為であるから「僕たちイタリア人にはあまり向いていない」とのことだが、よしもとばななは、まさに日本人作家として前例のない成功をおさめたのだ。イタリアでの売れ行きに触発され、彼女の作品は今、34の国や地域で出版されている。

本書には、よしもとばななのエッセイ、アレちゃんのエッセイ、仲良しの2人の対談などが収録されている。

博士論文を再構成したアレちゃんの一文「よしもとばななの原点を読み解くキーワード『家族』『食』『身体』」は素晴らしい。ばなな作品をここまで理解し、美しい日本語にまとめることのできるイタリア人なら、彼女も安心して翻訳を任せられただろう。「つぐみ」の一部のイタリア語訳とそのポイントまで掲載されているのだから、イタリア語を勉強中の身としては、そそられる内容だ。

「イタリア語はどの国の言葉よりも、いちばんいい感じに乗る気がします。乗る可能性の高い言葉の組み合わせというか。もともと、美しさとか哲学を表現するためにラテン語から発達していった言葉だから、形容詞の数が圧倒的に違う」(byよしもとばなな)

「クリスマスの思い出」という日本初公開の彼女のエッセイも、日本語とイタリア語の両バージョンが収録されている。ここに描かれるイタリアのクリスマスの記憶は鮮烈だ。クリスマスなのに別れかよ?しかもこんなに美しく?少なくとも、日本のインチキなクリスマスにおいては、ここまで本当のことを突き詰めるシチュエーションなんて、ありえない!よしもとばなな特有の「一瞬にすべてを注ぎ込む大袈裟な感動の表現」は、イタリア語にこそふさわしいのかも。

インチキなクリスマスが終わり、凍えるような深夜、私が考えたいのは「キッチン」のことである。アレちゃんの論文では随所が引用されるが、私も、この小説の最も美しい一節を引かずにはいられない。

「ものすごく汚い台所だって、たまらなく好きだ。
床に野菜くずが散らかっていて、スリッパの裏が真っ黒になるくらい汚いそこは、異様に広いといい。ひと冬軽く越せるような食料が並ぶ巨大な冷蔵庫がそびえ立ち、その銀の扉に私はもたれかかる。油が飛び散ったガス台や、さびのついた包丁からふと目を上げると、窓の外には淋しく星が光る。
私と台所が残る。自分しかいないと思っているよりは、ほんの少しましな思想だと思う。」
2002-12-27

『方舟』 しりあがり寿 / 太田出版

笑顔で、手をふって、別れたい。


やまない雨の物語。
強い人も、弱い人も、前向きな人も、後ろ向きの人も、恋愛している人も、孫の顔を見るのが楽しい人も、みんな等しく水にとけてゆく。絶望的に美しい終末の物語。

「世界の終わりだから好きな人といたいのよ!!」と家を飛び出す女子高生と、そんな彼女の前にイカダで登場する男子高生。二人は「どこ行こうか」と楽しげに洪水の町を流されてゆく。

歯みがきメーカーは雨につけこんだ方舟キャンペーンを展開し、テレビはとんちんかんな報道をやめようとしない。さまざまな家族が崩壊し、おびただしい人が死に、雨はやむ気配がない。

やがて雨が上がり、イカダの上でうつぶせに寝ている二人。彼は、彼女が雨の間に1576回、雨が上がってから296回のタメ息をついたと言い、彼女は「うそー 数えてるはずないじゃない」と言う。彼は、彼女のサラサラの髪とスベスベの頬にふれるけれど、彼女にとって、自分の髪はゴワゴワだし、頬はベタベタだ。

彼 「もうダメみたい」
彼女「ダメなの?」
彼 「手足しびれちゃってるし 意識はモウロウとしてるし・・・」
彼女「じゃあしょうがないわね・・・」
彼 「じゃあね」
彼女「じゃあね」
笑顔で手をふりあう二人。彼は力尽きてイカダからすべり落ちる。彼女はタメ息をついてくすくす笑うが、それを数える人はもういない。彼女もやがて力尽き、水の中に落ちてゆく。

二人は最後まで、ちゃんとコミニュケーションできていないみたいだ。でも、これでいいのかな。仲よさそうだし。楽しそうだし。幸せそうだし。最後は手をふって別れ、一人ずつになって死ぬ。それが人間なのかも。これくらいで十分なのかも。人は幻想の上に幻想をぬりこめて、幻想の中に消えてゆく。

「『輝ける未来』が失われたのは、他の何のせいでもなく、あなたの、私の、人類そのものの脳みその、一つ一つの脳細胞の、想像力の、力不足のせいなのだ。ただそれだけなのだ。さあ、未来を失ったからには、せめてとびきり美しい『終末』を思い描こう。それは美しく静かで透きとおった『終わり』だ。もうなんだか全てのものが甘く、悲しいほど甘く、重たい水の中にとけてゆく『終わり』だ」 (あとがきより)
2002-12-20