『バカの壁』 養老孟司 / 新潮新書

脳は、高級じゃない。


自分の恋人は、自分の知らない場所で、どんなことをしているのか?
これを頭で考えはじめると、トラブルのもとになる。

浅野智彦氏(東京学芸大助教授・社会学)らがおこなった、16~29歳の意識と行動についての調査結果(朝日新聞5月7日)によると、10年前と比べ、ますます多くの若者が、複数の顔をもつ自己、一貫性のない多元的な自己を、違和感なく受け入れつつあるという。「場面によって出てくる自分は違う」と答えた人は、一定だと考える人に比べて、携帯やネットで知り合った人に会いに行くことが多い。「その場限りの顔」と「素顔」との差がリアルに感じられなくなってしまっているのだそう。

一貫性がない(ように見える)というのは、致命的なんじゃないだろうか? 言い訳をしてでも、ビシッと筋を通すのがマナーじゃないの?と私は思うけど、なんだか違うみたいだ。ということは、ある人の言動の重みや、それが素顔なのかその場限りの顔なのかは、本人にも、目の前の人にも判断できないってことだ。まじ?

「バカの壁」は、まさに、そのことを危惧した本。
「人間は変わるが、言葉は変わらない。情報は不変だから、約束は絶対の存在のはずです。しかし近年、約束というものが軽くなってしまった」

「大学生を見ていて、ここ二、三年で非常に目立つ現象があります。私が、一時間目の講義に行くと、既に机の上に突っ伏して寝ている学生が結構いるのです。放っておいて一時間半講義してもまだ寝ている。一度も目を覚まさない。これがなかなか理解できない。私が喋っているのを聞いて退屈だから寝たというのなら、残念ではあるもののよくわかる。しかし、彼らはもう最初から最後までひたすら寝ている」

わかるような気がする…。似たような光景も、よく目にする。会議の間ずっと、携帯で話をしているかと思うと、そのまま出て行って戻ってこない人がいる。会社にいる間ずっと、インターネットやメールをやっている人がいる。彼(彼女)は一体どこにいるのだろう?

机に突っ伏して寝ている大学生は起きないし、教授も彼を起こさない。彼(彼女)は、最初から、そこにはいないのだ。

いつからか、人は、その場にいないことを許されるようになった。携帯やメールですぐに連絡がとれるのだから、約束したり、無理に参加したりする必要がない。「いま」「ここ」の意味が希薄になっている。

著者が薬学部の学生に、イギリスBBC放送が制作した出産ドキュメンタリー番組を見せたところ、女子の感想は「新しい発見が沢山ありました」というのがほとんどで、男子の感想は「そんなの知ってましたよ」だったという。細部に目をつぶって「知ってましたよ」というのは、一種の思考停止状態で、自分が知りたくないことについて自主的に情報を遮断しているんだって。つまり、これが「バカの壁」。

脳は高級なものではなく、計算機にすぎないと著者はバッサリ。都合のいいように情報を受け入れたり拒否したりしている限り、自分と違う立場のことは永遠にわからないし、話も通じない。

「『個性』は脳ではなく身体に宿っている」
「知るということは、自分がガラッと変わることです」
「他人のことがわからなくて、生きられるわけがない」
「身体を動かさないと見えない風景は確実にある」

脳のスペシャリストが語る身体論だ。
「いま」「ここ」を感じることができなければ、いつ、どこで、何を見ても、何も感じないだろう。
遠い国のために奉仕活動をしても、目の前の大切な人を傷つけていたとしたら本末転倒。
大切なことを理解するのは、脳ではなく、身体なのだ。
2003-05-17

『殺人に関する短いフィルム/愛に関する短いフィルム』 クシシュトフ・キェシロフスキ(監督) /

恋愛と絶望の分岐点。


1987~1989年にかけてテレビシリーズとして企画された「デカローグ」。その第五話のロング・バージョンが「殺人に関する短いフィルム」(1987年/85分)で、第六話のロング・バージョンが「愛に関する短いフィルム」(1988年/87分)だ。2本とも、オリジナル・バージョンの完成度の高さを損なうことなく描写に深みが増しており、ポーランドという国の凍えるような空気感に魅了されずにはいられない。

「殺人に関する短いフィルム」には、無差別殺人と死刑という、救いようのない2つの殺人が描かれている。主役のヤツェクは当初「キレてる若者」に過ぎないが、死刑の直前、唯一自分のことを名前で呼んでくれた弁護士に、自分の物語を告白する。

この告白で思い出されたのが大阪の児童殺傷事件で、8人の命を奪った宅間被告は、裁判で「たまたま出会ったヤツに不愉快な思いを散々させられてきたから、関係のない人間を襲うのは自分の中では正論だ」 「自分(が被害者)ならば謝罪されても何とも思わない」と言い放った。

私はまた「女の部屋に侵入して強姦し、金品を奪って逃げる」というような、よくある事件を思い出した。金がある男なら金を払ってSEXをするはずだし、魅力のある男なら女を口説いてSEXするはずで、どちらも持たない男は、金と女を同時に奪っちゃったりするのである。目的はどっちなんだ?どっちかにしろよ!と長年の疑問だったのだが、ある人に質問したら「悪い奴は悪いことを全部やるのだ」という簡潔な答えが返ってきた。

無政府状態になれば、抑圧された人々は、往々にして略奪や暴力に走る。人は何かに飢えたとき、そこに規則がなければ、欲望のまま他人のモノを奪う動物なのだ。規則があったとしても、愛とコミュニケーションの手段を喪失してしまったら、それを守る意味は見出せなくなるだろう。

監督は言う。「私はモラルには興味がない。興味があるのは美と感情だ。しかし、もっとも大事なのは愛だと思う。愛を失ったら、生活は指の間からこぼれ落ちてしまう―」

それでは、どんなところに愛は生まれるのか。「愛に関する短いフィルム」の場合、向かいのマンションを望遠鏡で「のぞき見する少年」と、かなり年上の「のぞき見される女」との間に愛が生まれる。簡単にいえば「ストーカー」vs「悪い女」。犯罪的コミュニケーション以外は成立しそうにない関係だが、こんなところに、実はもっとも純度の高い恋愛コミュニケーションが宿るのだから、人生は希望に満ちている!

少年は、女にのぞきを告白し、軽蔑される。だが、女がそのことを自分の彼氏に告げ、激怒した彼氏が少年のマンションの前に立ち「どこのどいつだ、出て来い!」と叫ぶとき、少年はへろへろと階下に降りてゆき、ぼこぼこに殴られるのである。

一緒にアイスクリームを食べたいとしか要求していない少年を、女が自室に招き「世間で言われている愛の正体」を教えるシーンも忘れがたい。少年は傷つき、自殺未遂をはかるのだが、この事件により、2人のコミュニケーションはさらに加速する。

女に翻弄される少年のナイーブさはもちろん、少年の言動の意外性にそのつど心をうたれ、変化していく彼女がすばらしい。恋愛とは、格差や嗜好を超えて、互いに変化することなのだ。

*Bunkamuraル・シネマ「キェシロフスキ・コレクション」にて上映
2003-04-30

『チコ』 フェケテ・イボヤ(監督) /

グローバリズムよりオープンな、ローカリズム。


前作の「カフェ・ブタペスト」(1995)以来、この監督の次の作品を待っていた。こんな映画、見たことがなかったから。そして、監督の顔写真が、あまりにかっこよかったから。

「カフェ・ブタペスト」には、社会主義が崩壊し、熱狂するブタペストとそこを訪れる若者や情報屋やマフィアが描かれていた。民族と言語と情報が交差する中、ソ連を脱出して西へ向かうロシアのミュージシャン2人と、西から刺激を求めてやってきたイギリスとアメリカの女の子2人が、ハンガリー女性が経営する安宿で出会う。通じない言葉のかわりに吹かれるサックス。そして、4人の「旅先の恋」のゆくえ―
ある時代のある地域でのみ獲得できる越境的な視点。それは、いわゆるグローバリズムとは一線を画す「開かれたローカリズム」なのだった。

監督は、フェケテ・イボヤというハンガリーの女性。タバコに火をつけようとしている彼女のポートレートは、まるでエレン・フォン・アンワースが撮ったキャサリン・ハムネットの写真みたいだ。

そして、ようやく「チコ」(2001)がやってきた。今度は、女と恋愛の出番が少ない戦場映画。しかも「この映画はフィクションとドキュメンタリーが一緒になったフィクショナルフィルムである」などという人をくったようなクレジットが最初に流れる。

たしかに過去を回想するというフィクションの王道形式なのだが、主役のチコを演じるエドゥアルド・ロージャ・フロレスの生々しい存在感のせいで、彼自身の人生を取材したドキュメンタリー映画としか思えない。それとも、ハンガリーには、こんなすごい俳優がいるのか?

ネット上で見つけた監督のインタビューで、ある程度のことがわかった。彼が「カフェ・ブタペスト」の出演者の一人(ロシア人闇市場のチェチェン・マフィア)であったこと。アマチュアの俳優である彼のキャラクターに着目した監督が、その人生をフィクション化したのが「チコ」であること―
彼はスパニッシュ・ハンガリアンであり、カソリック教徒のユダヤ人であり、共産主義者になるための教育を受け、クロアチア戦争では武器を手にして戦った。この映画は、そんな彼の混沌としたアイデンティティ・クライシスをテーマにした「イデオロギーのアドベンチャー映画」なのだという。

映画の中の彼は、ボリビア人とユダヤ系ハンガリー人の間に生まれ、ボリビアの政変によりチリに移住し、軍事独裁が始まるとハンガリーに亡命し、ゲバラに憧れて青年共産党に入る。軍人を志望し情報部に配属されるが、権威主義にうんざりしてジャーナリストになり、遂には武器をとる―

切実に何かを探し、移動を続け、サバイバルを繰り返す人間が、最後に守るものは何か?多くのものを溜め込んでしまった人や国には、思い出すこともできない感覚だ。カルロス・ゴーンは「家族がいるところが我が家だ」と書いていたが、チコには子供もない。仲間のいなくなったかつての戦場を訪れるチコの姿に、「風が土をさらうだけ」という切ない歌詞が重なって映画は終わる。風と土。ザッツ・オール。すべてが失われた後の風景には、答えなんてない。

監督は、より本質に肉迫するためにフィクションという手法を選んだのだろう。本質への近道。それは、安易に答えを出したり説明したり誘導したりしないことに尽きると思う。

*2001年 ハンガリー
*4月6日ハンガリー映画祭にて上映
2003-04-14

『セザンヌの山/空の細道』 結城信一 / 講談社文芸文庫

美しさは、暗い思考の中に。


「今すぐ解決しなければならない税金の問題があったり、ラジオから戦争をやりたそうな政治家の声が流れてきたりして、心がざわざわ落ち着かない。でも、そんな時こそ詩集を開くと良いことが、荒川洋治の『空中の茱萸(ぐみ)』(思潮社、一九九九年)を読んでみて分かった」と多和田葉子が日経新聞(3/23)に書いていた。

「自分の中にとじこもって勉強する時間と、世間に出て無理解の壁にぶつかる時間との間の緊張感が失われると、ものが見えにくくなってくる。壁はあっていいのだ。良心的に努力すれば詩の力で戦争をとめられるだろうとか、うまく話せば誰にでも文学論を三分で理解してもらえるだろう、などという甘えを捨てて、まず壁があると認めてしまう。壁のこちら側でコツコツ勉強して、時々勇気を出して人間のいる場に飛び込んでいく。(中略)情報社会でも自然に流れ込んではこないことを調べるのが勉強ということなのだろう」(同上)

詩集を開くつもりで私がたまたま手にとったのは、結城信一作品選「セザンヌの山/空の細道」だったが、巻末の解説を荒川洋治が書いていた。つながっている!

結城信一(1916-1984)は寡作な人で、作品集が1冊の文庫にまとまるのは2002年のこの本が初めて。「萩すすき」という短編が、地味な創作姿勢を象徴している。

「二時間かかって、半枚しか進まないことが往々にある。その半枚を、直したり消したり、また書加えたりし、遂には二時間で一枚書ければ上等である、とさえ思うようにもなる。私は以前に、毎日少しずつ書いて、やがて五十枚で纏ったとき、何か鼻筋が通りでもしたように爽やかだったが、それをしばらく臥かせておいてから、改めて読返してみて、愕然とした。その作品が、あきらかに失敗していたのを、痛切に知ったからである。自分の書いたものはもとより、ひとの本を読むのも厭になった。ひとに会うことすら避けたい気分になった」

山小屋で暮らす作家のネガティブな思考が延々と続くが、彼は、20年前に亡くなった妹の遺稿集を編んでくれないかと友人に頼まれるのである。楽しげな恋人たちを眺めながら18歳で死んだ「慶子」への思いを綴る「蛍草―柿ノ木坂」も秀逸。

「あなたのことを思えば、私は、やはり一日延ばしにでも『死』を先へ先へとのばしておきたいのです。私が死んでしまえば、私たちの愛も終り、そのまま永久に消え失せてしまうでありましょう。あたかも、はじめからこの地上にはなかったもののように」
「こんなに消え入るように淋しくて悲しいのは、もうあなたから何ものを得ようとしても得られない虚しい焦慮からではありませんか。私はこの手応えのない焦慮の中に生きてゆくのでありましょうか。そしてこの苛立たしい思いだけが愛というものの姿なのでしょうか」

12編の中からひとつだけ選ぶなら、たった4ページで淡い夏の恋を鮮やかに切り取った「西瓜」。

「西瓜が好きだったから、家のあちらこちらに西瓜を置き、どこに行っても西瓜の顔が眺められるようにしておいた。ときどき私は、そのなめらかなまるい顔をなでてやり、友達のように話しかけてやった。その西瓜の数が少くなってゆくと、友達が一人減り二人減りしてしまったように淋しくなる。(中略)いっぺんに五つも六つも買込むのだ。なにしろ、西瓜はとてもやすかったから。(中略)私の友達は、海水浴の若者たちの中にはいなくて、小さな家の中や、井戸の中にいた」

やがて「私」は、西瓜売りのおばあさんが連れてきた少女の一人を好きになる。たいしたことは起きないけれど、そこから喚起されるイメージは、あまりに儚く美しい。
2003-03-31