『阿修羅ガール』 舞城王太郎 / 新潮社

オトナには読めない、女のコの恋心。


「第16回三島由紀夫賞」を受賞したが、選評(新潮7月号)は賛否両論。
共感した順に星印をつけてみた。

宮本輝★
「他の四人の委員に、この小説のどこがいいのかと教えを請うたが、どの意見にも納得することができなかった。下品で不潔な文章と会話がだらだらつづき、ときおり大きな字体のページがあらわれる。そうすることにいったい何の意味があるのか、私にはさっぱりわからない。(中略)いったい何人のおとなが『阿修羅ガール』を最後まで読めるだろうか」

高樹のぶ子★★
「それでも私が×でなく△にしたのは、この作者の暴力感覚は、社会的あるいは道徳的な枠組みを越えて生命の本質的なところに潜在しているように見え(これは私を著しく不快にする)、その特異な体質が読後に一定の手触りを残している点を、無理やり自分に認めさせた結果である」

島田雅彦★★★★
「ブーイングを浴びることでいっそう輝いてしまう狡猾な作品なのだ。(中略)『ええかげんにせえや』といわれて、一番喜ぶのは舞城の方で、逆に彼を落胆させるには、『自意識の崩壊現象を緻密に描いている』などともっともらしい批評を加え、作者を赤面させればよい」

筒井康隆★★★
「長篇の大部分がこの女の子の一人称だから、作者には相当の自信があったのだろう。文章が今までになく躍如としていて、これは初めての成功例と言ってよく、ひとつの功績として残したい作品だ」

福田和也★★★★
「ページから、どんどん風が吹いてくる。レッド・ツェッペリンとかブラック・フラッグとかのLPをはじめて聞いたときの感じ。その感触が、まだ見ぬものへの畏れを喚起する楽しみ。これからである」


「阿呆な自分はついて回る。そっからはどうしたって逃げられない」
この小説のテーマは、このフレーズに尽きる。主人公のアイコは気付いてしまうのだ。阿呆な他人に突っ込みを入れても、自分の世界観が幼稚である限り、それらはそのまま自分に返ってくるのだということに。

宮本輝がわからないという「大きな字体」とは、ファンタジーのシーンで崖の壁面にリアルタイムで削られる巨大な文字だ。小説や目の前の現実よりも強い意味をもち、アイコを遠隔操作するメッセージ。つまりこれは、好きな人から届く携帯メールのようなもの。「阿修羅ガール」は、その儚さと残酷さと魔法のような力を文学的に描写した初めての小説だと思う。

アイコのような女のコは、たくさんいる。健康で頭の回転がよくてポジティブで人当たりがよくテレビをいっぱい見ているからタレントみたいな顔とスタイルをしていてリズム感があり要領がよくカッコよく勉強なんかしなくても大事なことがわかっていて皆に愛されリーダーシップがとれる。何かと傷ついちゃったりもするのだがソツのない自己突っ込みで器用に回復できちゃうし友達もいっぱいいて家族にも可愛がられているからなかなか前に進めなくて孤独に何かを追求したり徹底的に考えたりするチャンスも時間もない。せいぜいが愛のないセックスをして自尊心を減らす程度。暴力的な世の中にどっぷり浸っているものの絶望することなくけなげに状況を理解し適応しようとしている。

そういう女のコのリアルな自意識は、この小説の世界観の限界でもある。だから時々、女のコの感覚から完全にはみ出してしまうのが、この小説のパワフルで面白い点。アイコの世界観が説明されすぎて、説教くさくなってしまう部分が、ちょっと残念だけど。

救いは、アイコの行動の核になっている、シンプルな恋心。
宮本輝がいう「下品で不潔な文章と会話」を貫いているのは、普遍的な愛の物語なのだった。
2003-07-01

『開放区』 木村拓哉 / 集英社

TVがだらだらついているのは嫌、とキムタクは言う。


4月末の発売以来、2か月で50万部以上が売れたという。
タレント本としては、一昨年の「プラトニック・セックス」(飯島愛)に続き、100万部を突破する勢い。男性読者が2割強を占め、特に30~49歳の男性は1割近い。

本人のコメントは「買ってくれたみんなに感謝します。1人でも多くの人に読んでほしい」という月並みなものではなく「ぶっちゃけ、すっげー嬉しい。 まじでヤベーって感じ」というものでもなく、以下のようなものだった。

「出来上がった本を手にして、あらためて、『おれって、まだまだだな』と思った。この本を買ってくれた人がどんなふうに読んでくれるのか・・・食卓で読んだり、まくら元に置かれたり、あるいは本棚の片隅に収められるのかもしれない。そんなことも想像して楽しんだりもしています」

この発言には、彼がモテる理由のすべてが凝縮されている。つまり「自然体」「負けず嫌い」「想像力」の3点セット。ムカつくような前向きさや、うんざりするような屁理屈や、あきれるような鈍感さの対極にあるものだ。たったひとつのコメントにも、これらを注ぎ込めてしまう集中力の高さは、実にテレビ向き。この本の原料も、主としてこの3点セットだ。

「決別っていう言葉は好きじゃない。人は、一度出会ったら、きっと、そのあともずっとつながっていくものだと思うから。恋愛でも、たとえ別れても、すべて終わりじゃなくて、友達は無理かもしれないけど、新しい関係でいたい」

「このシート、もう少し倒れてくれないかなぁと思ったときに、『これ以上、倒れるわけねーだろ!?』って、口答えしてくるようなクルマがいい。(中略)最新式じゃないほうが贅沢な気がする。だって、そこには、会話が生まれるから」

「友だちに直接相談を持ちかけられたときは、できるだけ自分なりの答えを見つけ出そうとする。相手がどん底まで落ち込んでたら、話を聞きながら、自分もそこまでいっしょに降りていく。ふつうのテンションでいたら、ほんとの気持ちなんて、きっと理解できない」

彼は子供のころ、冷凍食品やインスタント食品はほとんど食べさせてもらえず、お小遣いももらえず、自転車を欲しいと思えば粗大ゴミ置き場のチャリンコを修理して乗り、だけど、あちこち連れていってもらったそう。まさに「モノより思い出」な育てられ方だ。

「俺、ふだんは、あんまり泣くガキじゃなかった。泣くと親父にひっぱたかれたから。それでまた泣くと、今度は『泣きやめ!』って、ひっぱたかれる」

「ガキのころ、繰り返し聞かされた『男と男の約束だからな』っていう親父の言葉は、子ども心にも、妙に重く感じた」

「そのころからずっと、デパートの食品売り場は好きになれないんだよね。なんでだろう・・・って思ってたんだけど、もうすでに食べられる状態に調理された匂いがダメなのかもしれない。そういう匂いは台所から生まれるものだっていうのが、感覚としてあるから」

「食の嗜好は、やっぱり育ってきた環境が大きいと思うよ。俺の場合はとくにそう。『おいしそうじゃないから食べない』っていうんじゃなくて、『自分にとってなじみがないから食べない』っていうことのほうが多い」

この保守的な感じ、新鮮。家族を大切にし、ルーツを大切にし、墓参りに行きたいという木村拓哉。彼の言葉を聞いていると、世の中の画一的な幻想や焦りや苛立ちから、しばし開放される。なじみがないものは食べないという自己のルーツに根ざした古風なモノサシは、わけのわからないプロパガンダが充満している今、とても重要なことのように思えてくるのだ。
2003-06-27

『プラダ青山東京』 ヘルツォーク&ド・ムーロン / プラダ財団

ショッピングより、建物ウォッチング。



東京の風景は、どんどん変わる。
カフェもレストランもブティックも美術館も、あっという間に消滅してしまう。いつも工事中だ。今度は何ができるんだろう?以前ここには何があったんだっけ?そんなことを考えることすら面倒になってくる。そのうち、多くを期待しないようになった。万が一愛着をもってしまったりしたら、裏切られたときに、悲しすぎるから。

表参道から根津美術館に向かう「みゆき通り」に、6月7日、プラダ青山店がオープンした。この建物は、建設中のときから面白かったし、既に記憶に残る建物となってしまった。周囲の建物に特別な思い入れをもたないようにしている私がそんなふうに思うのだから、世界中の人々がわざわざ見学に来たっておかしくない。
クリスタルのように透明で尖っているから?全体を覆うひし形の格子から中の様子がゆがんで見えるから?単に意表をついた建物だから?ひとついえるのは、ブランドショップにありがちな権威的な匂いが感じられないこと。四角四面な重厚さ、威圧感、閉鎖性の対極にある軽やかさを建物全体で実現してしまった。外壁なしに「インテリアのみ」で成立しているような印象だ。

この店で、今のところ最も売れている商品は、地下1階の写真集コーナーにあるこの本である。
というのは私の勝手な想像だが、設計を担当したスイスの建築事務所、ヘルツォーク&ド・ムーロンによる写真とドローイング集は、実際の建物よりも面白い。「プラダ青山東京」のプロジェクトがどのように進行したのか、その紆余曲折の経緯が赤裸々に書かれており、日本語訳も付いている。

建設予定地を見た彼らはこう思う。
「付近は多種多様な建物が共存していたので、周囲の環境に合うような建物を建てる必要性からわれわれは全く解放された」
「空き地は全くなかった。ありとあらゆる土地が角から角まで利用されていた」
そして、高くてスリムな目立つ建物にしたいと漠然と思う。
「付近の建物のような、ずんぐりとしゃがんだ格好で街にちょこんとすわっている感じのものは建てたくはなかった」・・・

この本には「プラダ青山東京」に関するあらゆるアイディアが詰まっており、当初のピュアな発想の断片が、どのように具現化したのかを見届けることができる。このプロセスこそが建築の面白さであるならば、完成した建物を見ることの面白さはその何分の一でしかない。

建物の中は実践的な売り場であるから、スタッフにとって使い勝手はいいのかなとか、白い壁やじゅうたんの汚れ対策は大変だろうなとか、建物全体にたちこめる独特の匂いが気になったりしてしまうのだ。まあ、それ以前に、商品に目を奪われてしまうわけだけど―

外の広場に出ると、プラダのロゴ入り紙袋を持った私に、フジテレビのクルーが声をかけてきた。プラダフリークを撮影しようという魂胆らしいが、私のお買い物はこの本だけ。しかも、彼らにとって都合の悪いことには、プラダ製品を1点も身につけていない。
どうして私に?と思って周囲を見回すと、紙袋を手に建物から出てくる人は、とっても少ないのであった。
2003-06-17

『むずかしい愛』 カルヴィーノ作・和田忠彦訳 / 岩波文庫

動揺する快楽。


新しい本を次々に読むことは、1冊の本を繰り返し読むことよりも幸せだろうか?
幸せだと思う、たぶん。
でも、その1冊がカルヴィーノだとしたら?

1950年代後半に書かれた12の短編集だ。
すべてに「冒険」というタイトルがついている。
冒険とは、自分が変わること。
体が変化し、心が動揺する瞬間。
それまでの緻密な記述が、意味を失う瞬間。
言葉で埋めつくそうとすればするほど、大切なものはこぼれ落ち、
饒舌になればなるほど、まだ話していないことが際立ってくる。

「ある兵士の冒険」
兵士が列車の中で女に痴漢をする。彼女は兵士の行為を受け入れるか?拒否するか?安易に結論を出すストーリーづくりの無意味さ、つまらなさが暴かれる。

「ある悪党の冒険」
売春婦とその夫。売春婦の家に逃げる男。彼を捕まえる男。悪党なんて、どこにもいないし、逃げ切ることと捕まることの間にも、たいした違いはない。

「ある海水浴客の冒険」
泳いでいる最中に水着をなくした女の羞恥心と孤独。そして、その後の希望。どちらもすぐに消えてしまう。旅って、むなしい。

「ある会社員の冒険」
夢のような一夜を過ごした会社員。女と別れた後、彼女に恋したことに気付く。だが、言葉に置きかえはじめたとき、それは絶望に変わる。

「ある写真家の冒険」
写真を撮りたがる人々を軽蔑し、反写真論を展開する男が、次第に写真にのめりこんでゆく。頭でものを考えながら、身体は別の変化を遂げるのだ。すべてを撮り、すべてを捨てようとしたギリギリの瞬間、彼は真実を悟る。この短編は、映画だ。

「ある旅行者の冒険」
愛する女のもとへ向かう男。旅のプロセスと夢のような時間との間に横たわる眩暈のような断絶。誰もが、こういう2つの時間を行き来しているのだろうか。だとしたら、おかしくならないほうが、どうかしている。

「ある読者の冒険」
海で女と出会い、読書の快楽を台無しにされる男。身体は知性と相性が悪く、現実はロマンを着実にむしばんでゆくのだ。

「ある近視男の冒険」
メガネをかけると風景が変わり、人生が変わる。でも、実は何も変わらない。それは、彼の人生で最後のときめきだった。何かのせいで人生がつまらないと考える男のつまらなさ。

「ある妻の冒険」
上流階級婦人の不倫。彼女の中の意識を変えたのは、一夜を過ごした相手ではなかった。彼女はそのことを、体で理解する。

「ある夫婦の冒険」
ある夫婦のすれちがい生活。満たされない日々の中にこそ、愛はあるのだ。愛ってむずかしい。

「ある詩人の冒険」
愛の言葉を書いたことのない詩人が、美しい恋人の肢体を見つめながら沈黙する。幸せは言葉にできないのだ。だが、苦悩を目にすれば、いくらでも言葉があふれ、世界は真っ黒に埋め尽くされる。

「あるスキーヤーの冒険」
奇跡とは、選ばれた人が、無限の選択肢の中から選びとったもの。だから、奇跡だけを目撃していればいい。
2003-06-06