『若かった日々』 レベッカ・ブラウン(著)柴田元幸(訳) / マガジンハウス

タバコは悪か?


禁煙化が進んでいる。
最先端のバリアフリービルでは、優雅に車椅子をすべらせる人の脇で、初老の愛煙家が血まなこになって喫煙コーナーを探している。ようやく見つけた唯一のカフェで貴重な灰皿を確保する彼に、隣席の客が眉をひそめる。「タバコ、遠慮していただけませんか?」
この言葉に拒否権はない。いまや禁煙=正義であり、喫煙者=人間失格なのだから。

一方、愛煙家が肩身のせまい思いをせずにすむ場所も、まだまだ多い。
彼は一応、目の前の知人にだけは断りを入れる。「タバコ、吸ってもいいですか?」
この言葉にも拒否権はない。波風を立てたくない知人は、喫煙という暴力に甘んじるしかないのである。
愛煙家と嫌煙家は、もはや一触即発の状況だ。

私は、愛煙家でも嫌煙家でもないが、本書に収められている「煙草を喫う人たち(The Smokers)」という短編には1票を投じたい。ここには、極端な二項対立の現実を凌駕する、ごく個人的な真実が描かれている。

喫煙者のいない家で育った私にとって、一家全員がタバコを喫うこの小説は新鮮だ。家じゅうに灰皿があり、たとえば外に置いてある灰皿や、母親のフォード・ステーションワゴンはこんな感じ。
「雨が降ったあとは、薄汚く泡立った、紅茶みたいに茶色い水がたまって、灰やフィルターやゴミが浮いていた」
「吸殻がぎっりしり詰まっていて、口紅のついた折れたフィルターが飛び出していて、それが床に落ちて…(中略)灰皿の蓋はどうやっても閉まらなかった」

美しいとは言い難い描写を軸に、家族の関係が浮き彫りになってゆく。対照的なタバコの喫い方をする父と母、彼らの不和、兄と姉と私の初めての喫煙、喫煙を軽蔑する祖母の家での母、インチキな父が3番目の妻についたウソ、父と母の死…。

「私」の両親は2人で3つのガンを経験し「直接の原因だったかどうかはともかく、喫煙がそれらに貢献したことは間違いないと思う」と述懐されるのだが「でもそれと同時に、喫煙が何年ものあいだ彼らの救いになっていたとも思う」と著者は振り返る。「つらい年月を両親が生き抜く上で何か助けがあったことをありがたく思う」と言い切るのだ。

レベッカ・ブラウンは、本当のことを静かに、ストレートに突きつける作家だ。彼女の小説を読んでいると、真実とは、定義できないものや見えない部分にこそ宿るのだとわかる。鋭利な少女的感性で切り取られる家族の物語は、読んでいるだけで疲労困憊してしまうほどだが、すべての過去を美化する潔さが、かろうじて疲れを消し去ってくれる。美化 ― それは、傷ついた人だけが行使することを許される癒しの能力なのかもしれない。

すべての短編を読み終えたあと、2ページに満たない冒頭の掌編「天国(heaven)」を読み返さずにはいられない。両親へのさまざまな思いをこんなふうに昇華できる。それが、天国という場所(=小説)なのだと思う。

「二人がそこにいるのを思い描けるような場所がどこかにあるんだと信じられたらいいのに」
彼女がそう書いているだけで、天国の存在を信じることができる。
すぐれた小説家の想像力は、灰にまみれた現実を、瞬時にぬりかえてしまう。
2005-01-07

『「美」と「若さ」をお金で買う方法-私が試しつくした“若返り医療”の真相』 佐藤真実 / 講談社

美容整形を思いとどまらせるのは誰?


「世界のどこかで新たな国の指導者が誕生しようが、内戦が勃発しようが、私にはさして重要ではない…。私にとって、いちばん重要なことは、顔からなかなか消えようとしないこのシワだ」

1962年生まれの著者は、35歳で挑戦したコラーゲン注射を皮切りに、あらゆる「若返り美容法」を試す。皮膚をメスで切るフェイスリフト、下まぶたの脂肪をとるレーザー手術、ケミカルピーリング、脂肪移植…何かひとつやるたびに、新たな症状や副作用が見つかり、手術依存症は次第にエスカレートする。

「短大を卒業して勤めた商社を二年で辞めて、イベントコンパニオン、DJという道を歩いてきた私だ。転職っていったって、三〇すぎていったい何ができるというのだろう? 当時の私にとっては、恋人より、家族より、友人より、何よりもDJという仕事が大切で、そのために何かを犠牲にすることもいとわなかった」

老化を恐れ、仕事を失うことを恐れる著者だが、その抵抗も空しく、2回にわたる脂肪移植が終わった頃、担当していた番組を降ろされてしまう。「美容」を仕事にしようと決意した後は、ホルモン補充療法、HGH(ヒト成長ホルモン)を使った若返り療法、プラセンター注射、運動、食事療法と、さらなる遍歴が続くのだった…。

「女はいつまでも美しくなくてはならない」という強迫観念に苛まされ続け、ついには薬の副作用でうつ病にまでなってしまう著者。そこには、「美容整形の女王」といわれる中村うさぎが「ネタ先行」であるのとは対照的な切実さがあると思う。著者がどんなに「私をまねしないで」とクギをさしても、共感し追随する人が絶えないだろう。

アメリカ暮らしの経験がある著者は「日本、とくに東京って街は、疲れるところだと思う」と述懐する。アメリカではラフな服装や化粧っけのない顔が当たり前でも、帰国すると「東京仕様」に戻していくしかない。このような悲劇を繰り返さないためには、もはや「東京仕様」から脱出するしかないのである。

私は、「整形手術のディアナ」といわれるフランスのアーティスト、オルランを思い出す-。

1947年生まれのオルランは、美術学校の教師でイコンの研究をしていたが、ある時、絵画上の5人の美女と自分の顔をコンピュータ上で合成する。「モナリザ」の額、「狩のディアナ」の目、「アモールとプシュケ」の鼻、「エウロペの略奪」の唇、「ヴィーナスの誕生」の顎…。

この顔を目指して整形手術をおこなったことから、オルランのアーティスト活動はスタートした。手術室は毎回、儀式的に飾りたてられ、医師はコスチュームをまとい、オルランは決まったテキストを読み上げる。手術中のパフォーマンス映像は衛星中継され、切り取られた肉を使ったオブジェがつくられるといったエグさだ。

手術後のポートレートとともに回復期の痛々しい写真を公開するオルランは、「私の芸術はゲームじゃないのよ」と言い放ち、「ホントの顔なんてとっくに忘れちゃったわ」とうそぶく。美しくなりたいという欲求など、とうに突き抜けているといえるだろう。

エキセントリックなアーティストの活動は、いつの時代も、眉をひそめられるものだ。が、オルランのような女性の存在は、「東京仕様」に疲れきった私たちを、いくらか癒してくれるんじゃないだろうか?
2004-12-21

『人のセックスを笑うな』 山崎ナオコーラ / 河出書房新社

田中康夫を嫉妬させ、高橋源一郎を楽しませた文藝賞受賞作。


「ユリは睫毛のかわいい女だ。それから目じりのシワもかわいい。なにせオレより二十歳年上なので、シワなんてものもあったのだ。あの、笑ったときにできるシワはかわいかったな。手を伸ばして触ると、指先に楽しさが移るようだった」

「恋してみると、形に好みなどないことがわかる。好きになると、その形に心が食い込む。そういうことだ」

一見美しくないものが、本当は美しかったりする ― というようなことは、恋愛をしてみなければわからないことだ。そう。どんな恋愛も美しくなんてない。不器用で見るに耐えない感じ。だけど、そのことを神の視点から「笑うな」とクギをさした小説があっただろうか。ひたすら長く続いた「(笑)」の時代がようやく終わり、「(笑うな)」の時代がやってきたのかもしれない。

女は、ある程度美しくなければ恋愛できないかのように思われているふしがあるが、実際に縁遠いのは、賢くてセンスのいい女に決まってる。

だって賢かったら、恋愛なんて怒りの連続だろうし、センスが研ぎ澄まされていたら、ふさわしい相手なんて見つからないだろう。だから女は、あか抜けない原石のうちに恋をするべきなのだ。

美術教師のユリは、いい年なのにトウがたっていない。「ほとんどの絵を褒めて、厳しい批評はしない。的確なアドバイスもしない」わけだし、肌の手入れもしないわけだし、家も散らかっているわけだし、自己中心的なわけだし。こういう女は、料理上手な夫を持ちながら、20歳も年下の「オレ」と恋におちる。いくつになっても少女のような恋愛ができてしまうのだ。

なのに、そんなユリがオレから離れていく。彼女もしたたかなのだ、という空気が悲しい。ユリのような女も、洗練されたり、向上したりしてしまうのだろうか。

一方の「オレ」は、誰のことも憎んだりしない。ユリの夫にも、友達の彼女にも、好意を抱く。つまり、あやふやなのだ。そして、そのあやふやな優しさゆえに、どんな女も受け入れ、愛することができるのだ。もしかすると、すべての男は「オレ」みたいな感じなんじゃないだろうか? この小説は、男を癒す小説だと思う。山崎ナオコーラは、わかっているのだ。女の残酷さと男の優しさという美しい構図が、世界を支配していることを。

ふざけたタイトルやペンネームとは裏腹の、生真面目な手ざわり。誰も憎まれず、誰もダメにはならないこの小説は、ただひたすら、微妙な痛みに貫かれている。つまりそれは、幸福な人生なのだと思う。

この手ざわりは、忘れられない。
2004-12-09

『フレデリック・ワイズマン映画祭2004』 アテネ・フランセ文化センター /

美化されないから、美しい。


飲み会で、外資系銀行に勤める女子が言う。「昨夜も飲みすぎて、今日は会社休んじゃったんだけど、ここへ来るまでに何人も会社の人とすれ違って、気まずかったよー」。
保証会社に勤める男子は言う。「実家が新潟の被災地の近くで、会社の人たちから見舞い金をもらっちゃってさ。休みを取ったら、帰るの?大変だねって言われて、イタリアに遊びに行くなんて言えなかったよー」。
実際はナーバスな状況なのだろうが、彼らが楽しそうに話すので、私も笑いながら聞いてしまう。

会社の話が面白いのは、そこが「建て前」で成り立っている場所だからだ。建て前は、時に美しい―。

個人的な演技を撮るには俳優や演出が必要だが、社会的演技(=建て前)はそのまま撮影すればいい。集団の中では、誰もが特定の役割を担っており、演技することが自然だからだ。フレデリック・ワイズマンは、ある集団における人々の描写に徹することで、建て前から真実をあぶりだしてしまう。

ワイズマンのドキュメンタリー映画は、さまざまな場所で撮影される。精神異常犯罪者を矯正するマサチューセッツの刑務所(「チチカット・フォーリーズ」1967)、ハーレムの大病院(「病院」1970)、NATOのヨーロッパ演習エリア(「軍事演習」1979)、ニューヨークのモデル事務所(「モデル」1980)、ダラスの高級百貨店(「ストア」1983)、アラバマの障害者技術訓練校(「適応と仕事」1986)、黒人ばかりが住むシカゴ郊外の公共住宅(「パブリック・ハウジング」1997)、フロリダのDV被害者保護施設(「DV」2001) などだ。

「これは○○な時代を生き抜いた××な男たちの物語である―」といった説明的なナレーションや大袈裟なBGMに慣れてしまうと、世の中は感動的なエピソードだらけのような気がしてくるが、ワイズマンの映画を見ると、そんなものは実はどこにもないことがわかってしまう。つまり、そこに描かれているのは、淡々とした等身大の日常そのもの。一面的な結論を捏造しないことで、多様な現実が見えてくる。

ワイズマンと好対照をなす2人の映画監督が思い浮かぶ。1人は、キッチュな映像とミスマッチなナレーション、ずたずたに切り刻んだ音楽などを組み合わせ、よりわかりやすく人々を啓蒙するジャン=リュック・ゴダール。もう1人は、独善的な視点から世の中の構造を単純化し、ニール・ヤングやルイ・アームストロングなどの曲をまぶすことで、よりわかりやすくエンターテインメント化するマイケル・ムーア。2人の監督が自分の存在を前面に押し出すのに対し、ワイズマンは自分の存在を徹底的に消す。観客へのサービス以前に、ひたすら興味の対象を注視することから生まれる純粋な映像は、ドキュメンタリーの原点というべきもので、心洗われる。視聴率の呪縛から逃れられないテレビの人が見れば、命の洗濯になるのではないだろうか。

とりわけ、仕事をテーマにした「モデル」「ストア」「適応と仕事」の3本は美しい。モデル事務所で面接を受けるモデルたちにも、百貨店で働く従業員たちにも、職業訓練をこなす障害者たちにも励まされるし、一人ひとりのモデルに短時間で的確なアドバイスをするモデル事務所のスタッフや、確固たる企業ポリシーを語るニーマン・マーカス百貨店の経営者、一人ひとりの障害者についてじっくり討議する技術訓練校のスタッフなど、組織側の人間の社会的演技(=建て前)にも救われる。

ワイズマンは美しいものばかりを選んで撮っているのだろうか? まさか!
手術、嘔吐、凶悪犯罪…胸が悪くなるような正視に堪えない映像が一方にあるからこそ、この3本の「普通の美しさ」が際立つのだ。
2004-11-29