『インディアナ、インディアナ』 レアード・ハント(著)柴田元幸(訳) / 朝日新聞社

映像のような言葉にまみれる快楽。


「インディアナはアメリカで最高の州だよ、とシャンクスは言い、いまこうしてるとそれほどよくも思えないけどなとノアは言って、どうしてそう思うのと訊いた。
どうしてインディアナがアメリカで最高の州か?
そう。
シャンクスは肩をすくめた。
さあなあ。故郷だからな。ここから出られるわけじゃなし。だいいち、いい名前じゃないか、そうだろ?
インディアナ、とノアは言った。
インディアナ、とシャンクスも言った。
焚き火が消え、また燃えた。コウモリだろうか、何かが木々のあいだを抜けていくのが見えた。そういえばこんなのあったな、とシャンクスは言って、髪にコウモリがいるインディアナの女性をめぐる歌を歌いだしたが、じきにやめた」
(「インディアナ、インディアナ」より)

そうなのだ。この本はタイトルがいい。インディアナというのはいい名前なのだ。さらに、柴田元幸が惚れ込み、ポール・オースターが絶賛しているというのだから、この本を読まずにすませる理由なんてない。

私が思い出した現実の光景がふたつある。
ひとつめは、病院から出てきた少女。彼女は声をふりしぼるように、同じようなことを繰り返しわめきちらしていた。「こいつらは私を殺そうとしてるんだよ!」 彼女の腕は、ふたりの女性によって両側から支えていた。おそらく母親と祖母だろう、彼女自身も逃げようとはしていなかった。3人はごく普通に歩いており、彼女のわめきだけが場違いだった。
ふたつめは、終電のまったりした静寂をつんざくように泣き出した乳児。母親に抱かれているのだろうが、いつまでも泣き止まない。疲れた大人ばかりに見える車内で、乳児の泣き声だけが場違いだった。

どちらも、忘れていたものを思い出させるような光景だった。現実と正反対の世界。つまり、現実にたりないもの。少女も乳児も、正直なんだと思った。たぶん、ものすごく不幸なわけではないのだが、わめきたいからわめき、泣きたいから泣いている。周囲の状況に配慮なんかせずに。

「インディアナ、インディアナ」も、そういう現実にたりないもので、できている。それは、ふだん目にすることのない世界だ。時間と空間が交錯し、記憶と夢と目の前の風景が一緒くたになっている。ピカソのようなダリのようなカフカのような。

そうだ、いちばん近いのは映画だ。ニルヴァーナのヴォーカル、カート・コバーンの自殺直前の姿を描写した「ラストデイズ」(2005)。
ガス・ヴァン・サントによって撮られたこの映画は、主人公(マイケル・ピット)が森をさまよい、川で泳ぐ野性的なシーンから始まり、家にやってくる友達やセールスマンやレコード会社の重役とのやりとりや一人での演奏シーン、そしてラストの死のシーンにいたるまで、あまりに趣味っぽい。こんな個人的な趣味のみで撮られたような映画は、いつまでもだらだら見ていたい。

「インディアナ、インディアナ」も同じような印象を残す。「ラストデイズ」が現実の死からインスパイアされた作品であるように、強烈な体験がもとになっているのだと思う。この手の強さと怖さと美しさは、単なる妄想の中からは、生まれない。

進歩とか成長とか老化とかいう、現実的な時間感覚とはかけ離れている。「インディアナ、インディアナ」は最初から「死のようなもの」と隣り合わせだからだ。それなのに「不幸」からは遠く、記憶の順序はばらばらで脈絡がない。要するに、この小説の言葉は、言葉などではなく、趣味的に写し撮られた映像なのだ。
2006-06-22

『夜よ、こんにちは』 マルコ・ベロッキオ(監督) /

少女漫画のように美しい政治映画。


何時に人とすれ違っても「こんにちは」と言ってしまう。
お昼前後には「おはよう」なのか「こんにちは」なのか、深夜から早朝にかけては「こんばんは」なのか「おはよう」なのか、とっさの判断が難しいからだ。馬鹿のひとつ覚えみたいに「こんにちは」と決めてしまえば悩む必要がない。
いずれにしても、深夜から早朝にかけては「おはようございます」または「こんばんは」と相手から返されて(直されて)恥ずかしい思いをするわけですが。

というわけで「夜よ、こんにちは(Buongiorno,Notte)」というタイトルに特別なものを感じなかった私だが、監督はエミリー・ディキンソンの詩“Good Morning-Midnight”にヒントを得たそうだ。どうせなら「夜よ、おはよう」にすればよかったのにと一瞬思ったが、この映画には「おはよう」は爽やかすぎて似合わないし、そもそもイタリア語には「おはよう」という言葉がない。朝から午後4時ごろまで“Buongiorno”で通せてしまうのだから、夢のような快適さだ。


「夜よ、こんにちは」は、1978年ローマで起きた「モロ元首相 誘拐暗殺事件」に新しい解釈を与える映画。人間の希望というのはパーソナルな部分にしかないのだという、イデオロギーを超越した「場所」を提示してくれる。それは想像力といってもいい。非力だが、無限の可能性をひらくかもしれない扉だ。

若く美しいのにお洒落もせず、図書館で地味に働くキアラ。彼女に向かって同僚の男は言う。「もっと服装を変えたらよくなるのに」「この仕事で満足してるの?」と。まるで少女漫画のような設定だ。キアラは極左武装集団のメンバーだが、ごく普通の生活者を装い、周囲の目を欺きながら仲間の男たちをサポートしている。

彼らが共同生活を営み、元首相を監禁するアジトは、新婚夫婦などが住むローマの素敵なアパート。その一室が改造され、監禁という仕事がおこなわれている。陰鬱な室内のシーンが多いが、光あふれるベランダ、ネコ、カナリア、上階に住む住人、その赤ん坊などが、外の空気を運び、キアラがメンバーと一緒に新婚夫婦を装って物件を下見するオープニングから、ある人物がそこから出ていくラストシーンまで目が離せない。

人質を監禁することは、ペットを飼うこととは違う。彼らは覆面をして人質と会話し、要求をきき、自分たちと同じ食べ物を与え、残せば自分たちが食べたりもする。人質のほうも、くつ下のたたみ方で、彼らの中に女がいることを理解する。元首相が監禁されたという大ニュースはテレビに映し出されるが、人質と共同生活する現場の人間は、淡々とした日々の中で、外の世界にはない何かをオリのように蓄積していく。生活とはそういうものだろう。そのオリをていねいにすくいとり、ピンク・フロイドとシューベルトを効かせながら結実させたラストが素晴らしい。

プロレタリア革命を目指す左翼組織の話なのに、左でも右でもない、ポジティブな前向きの力に貫かれている。
それは、映画という表現形式がもつ、美しい特性であるにちがいない。


*2003年 イタリア映画
*ユーロスペースで上映中
2006-06-02

『ブロークン・フラワーズ』 ジム・ジャームッシュ(監督) /

25年たっても変わらない男。


これは僕の物語の一部だ
僕のすべては説明できない
物語というものは点と点を結んで
最後に何かが現れる絵のようなもので
僕の物語もそれだ
僕という人間がひとつの点から別の点へ移る
だが何も大して変わるわけじゃない
(「パーマネント・バケーション」より)

ジム・ジャームッシュの最高傑作といったら、彼がニューヨーク大学大学院映画学科の卒業製作として撮った「パーマネント・バケーション」(1980)に決まってる。と私は思うのだが、最新作「ブロークン・フラワーズ」(2005)を見て確信した。ジャームッシュの映画は、いまだにどこへも行けない。25年前のパーマネントバケーションのままだ。

中年男が身に覚えのない息子探しの旅に出る物語、という意味ではヴィム・ヴェンダースの「アメリカ、家族のいる風景」(2005)とそっくりだが、アプローチは似て非なるもの。「アメリカ、家族のいる風景」が男の夢やロマンを全部説明し、全員の気持ちに決着をつけ、元の場所へ戻っていくのに対し「ブロークン・フラワーズ」は何も決着をつけず、元の場所へも戻れない。

ビル・マーレイ演じる「ブロークン・フラワーズ」の主人公ドン・ジョンストンは「パーマネントバケーション」の主人公アリー(16歳)の40年後の姿かもしれない。どちらの男も一人身で、一緒に暮らしている女とも別れ、ちょっとだけおかしな人たちと場当たり的な交流をもつ。まったく進歩していない。

・・・
他人は結局 他人だ
今僕が語ってる物語は―
「そこ」から「ここ」
いや「ここ」から「ここ」への話だ
(「パーマネント・バケーション」より)

「ブロークン・フラワーズ」に登場する、ちょっとだけおかしな人たち。それが「20年前につきあった女たち」であることが唯一、主人公の成熟をうかがわせるわけだが、ジャームッシュの描写する女たちの姿は本当にリアルに面白く、現代のアメリカの最前線の病を写し取っている。

昔の女を訪ね歩くというギャグのような設定でありながら、いかにも自然で、音楽や小物のセンスも、相変わらず弾けている。たとえばドン・ジョンストンがこんな馬鹿げた旅に出ることを決めた心理は、彼の表情とシャンパンと音楽だけで表現されるのだった。

20年も昔の男から突然の訪問を受けたとき、女たちはどんな反応を示すのか? 次の家はどんな家で、どんな女で、どんな生活をしており、どんな扱いを受けるのか? 楽しみでたまらない。そして、ありがちな息子探しの物語を強烈に皮肉り、どこにも着地しないエンディング。

こんなお洒落な映画をいつまでも撮っている男って、かっこ悪すぎる。
そんな男を好きだと思ってしまう自分もまた、かっこ悪すぎるのだが。

・・・
去ると いた時より そこが懐かしく思える
いうなれば僕は旅人だ
僕の旅は ― 終わりのない休暇(permanent vacation)だ
(「パーマネント・バケーション」より)


*2005年アメリカ映画
*カンヌ映画祭 グランプリ受賞
2006-05-12

『文盲―アゴタ・クリストフ自伝』 アゴタ・クリストフ(著)/堀茂樹(訳) / 白水社

書くことは、戦うことだった。


なぜ、こんなシンプルな文体に力が宿るのか? 不気味なほど冷徹な意志はどこからくるのか? ハンガリーの作家、アゴタ・クリストフを世界的に有名にした「悪童日記」三部作を貫く感覚は、自分の身近からはどう転んでも生まれてきそうもない種類のものだった。

そして今、彼女の自伝ともいえる「文盲」によって、長年の疑問がとけた。

言葉を知り尽くし、美辞麗句を並べたてることは、想像力のじゃまにしかならない。作家に必要な資質とは、形容詞をたくさん知っていることでもないし、高等教育を受けていることでもない。「知らないこと」と「強いられること」が、彼女の意志を強固にし、読み書きへの熱意を切実にした。母語からドイツ語、ドイツ語からロシア語、ロシア語からフランス語へと、何度も言葉を捨てざるを得なかった運命が、真理を志向させたのだろう。彼女は、決してマスターすることのない「敵語」の違和感を永久に引き受けることを自らに課し「文盲者の挑戦」を続けようと決めたのだ。

彼女の生きるモチベーションは、戦いだ。したがって「革命と逃走の日々の高揚」を失った亡命先のスイスでの労働生活は、砂漠でしかない。言葉が通じないことが砂漠だったわけじゃなく、変化や驚きのない、判で押したような時計工場での労働生活そのものが砂漠だったのだと思う。彼女のアイデンティティは、読み書き以前に「歴史を画することになるかもしれない何かに参加しているのだという、そんな印象を抱き得た日々」だった。

アゴタ・クリストフのこのようなメンタリティは、同じハンガリー出身の女性監督、フェケテ・イボヤの映画に見い出すことができる。社会主義崩壊後、民族と言語と情報が交差する都市の熱狂を描いた「カフェ・ブタペスト」。あるいは、切実に何かを探し、移動し、サバイバルを繰り返す男のアイデンティティ・クライシスをテーマにした「チコ」。仲間のいなくなったかつての戦場を訪れるラストシーンは、まさに砂漠だ。

だが、もともと砂漠のような環境で生まれ育ち、その平穏さを愛している私は、アゴタ・クリストフの「敵語」という感覚を共有できない。平和と順応がスタンダードである私たちの日々は、革命と逃走をスタンダードとするアグレッシブな日常からはもっとも遠いのだ。「敵語」で書かれ、日本語で届けられた彼女の文章は衝撃的だが、それらが共感といえるようなヤワな次元に至ることはない。

アゴタ・クリストフは、世界的な作家になったことで、砂漠から脱出できたのだろうか?現代のフランス語圏での生活は「革命と逃走の日々の高揚」をますます遠ざけんじゃないだろうか? 彼女は今もフランス語を「敵語」と意識しているだろうか?

「悪童日記」三部作を凌駕する作品が、その後、ひとつも発表されていないという事実が、戦いという最大のモチベーションを失いつつある彼女の現状を、物語っているような気がしてならない。
2006-04-25