『TOKYO!』 ミシェル・ゴンドリー/レオス・カラックス/ポン・ジュノ(監督) /

TOKYO!に逃げ場はある?


TOKYO!で暮らす人の感受性を、著しく傷つけるオムニバス映画。
私が石原慎太郎だったらカットしたいシーンが山ほどあるけど、私は石原慎太郎じゃない。TOKYO!にしか逃げ場がない私にとっては、悪夢としか思えない3本だ。
わかってる。TOKYO!にしか逃げ場がないなんていう生き方は間違ってる。世界は広いのだからフットワークは軽く。高城剛もそう言ってる。
見たくないものを次々と見せつけられる。日本人にはありえない視点で、TOKYO!に土足で踏み込んでくる。私たちは、口あたりのいいTVドラマばかり見ている場合じゃないのだ。
映像に比べ、HASYMO(by YMO)によるエンディングテーマ「Tokyo Town Page」は口あたりがいい。日本人が思い描きたいTOKYO!ポップカルチャーは、たぶんこんな感じ。でも、時代は変わった。もう少し聴きにくい音でおどかしてほしかった。

●1本目「インテリア・デザイン」
by ミシェル・ゴンドリー監督(fromニューヨーク)

藤谷文子と加勢亮が上京し、伊藤歩の家に居候しながら物件探しやバイト探しをする。難航する物件探しの中には銀座の中銀カプセルタワー(by黒川紀章)も!クルマはレッカー移動されるし、罰金高いし、家賃高いし、こんなに住みにくいとこなのかTOKYO!は?
映画監督の卵である加勢亮が、自作の上映会でスモークを発生させ「スクリーンと観客の境界をぶち破りたい。観客は安全圏にいてはいけない」みたいなことを言うあたりは笑えるけど、アイデンティティをなくした藤谷文子が**になってしまう後半は恐ろしくて正視に耐えない。自己表現できなければ**になるしかないなんて、本当のことを描きすぎている。
この映画の唯一の逃げ場は、大森南朋のライフスタイルで、ごく普通にTOKYO!で生活している描写にほっとする。いい表情の役者だ。

●2本目「メルド」
by レオス・カラックス監督(fromパリ)

日本の閉鎖性について、いちばん嫌な形で思い知らされる映画。突然マンホールから現れた怪人メルド(ドゥニ・ラヴァン)が、銀座や渋谷で暴行をはたらく。TOKYO!では最近、マンホール事故があったばかりだし、通り魔事件に至っては日常茶飯事。とてもフィクションとは思えない、現実と同時進行の映画なのだ。メルドに対する右翼と左翼の反応の違い(「メルドを死刑に!」「メルドに自由を!」)はステレオタイプだけど、よそものの象徴であるメルドは、私たちにとっての踏み絵なのだろう。
それにしてもメルド、日本人を悪く言いすぎ。ここまで末期症状なのかTOKYO!は? 音楽はコジラのテーマ。人間ぽいキャラがゴジラと同じことするだけで、こんなに怖いなんて。
メルドがタバコを吸い、花を食べるってとこが、ぎりぎりの逃げ場。

●3本目「シェイキングTOKYO!」
by ポン・ジュノ監督(fromソウル)

引きこもり生活11年の香川照之と、身体にスイッチボタンのついたピザ配達人、蒼井優。引きこもり男の生活なんて見たくないし、地震のシーンも見たくないけど、私は、引きこもりが外に出る、というこのシンプルな物語が好きだ。
蒼井優が「ここは完璧」と言うだけで、男の部屋も逃げ場になる。蒼井優は神様だ。しかし、やがて神様は引きこもり、香川照之は外に出る。11年ぶりの外出にあたっての神経症的なモノローグと、外の光のまぶしさ!
ホッパーの絵のような無人の山手通りを、代沢3丁目を目指して走る香川照之に、私は癒されてしまったのだった。俯瞰で撮られるTOKYO!のストリートは、世界へつながっている。きっと。

*8.16よりシネマライズ、シネ・リーブル池袋にて世界先行ロードショー!
2008-08-18

『テストトーン VOL.35』 さまざまなジャンルのアーティスト / 西麻布スーパーデラックス

先端は、無料です。


値上げの話題が多い中、心あるブランドは、無料の価値を知っている。

銀座メゾンエルメス10階のル・ステュディオでは、毎週土曜日に映画が上映され、予約さえすれば無料で見ることができる。現在の上映作品はロッセリーニの「インディア」(1959)で、イタリア語ではなくフランス語バージョンというのが残念だけど、お洒落して行く価値のあるプライベートシアターだ。

シャネルの「モバイルアート展」は、香港、東京が終わり、今後はNY、ロンドン、モスクワ、パリへとパビリオン(byザハ ハディド)が移動するが、シャネルバッグをテーマに20組のアーティスト(ブルー ノージズ、ダニエル ビュレン、デヴィット レヴィンソール、ファブリス イベール、レアンドロ エルリッヒ、イ ブル、ロリス チェッキーニ、マイケル リン、荒木経惟、ピエール&ジル、ソフィ カル、田尾創樹、スティーブン ショア、スボード グプタ、シルヴィ フルーリ、束芋、ヴィム デルヴォワイエ、楊 福東、オノ ヨーコ、Y.Z.カミ)が構築したインスタレーションツアーもまた無料。各自がヘッドフォンとMP3プレーヤーを装着し、ナレーションの指示と音楽に身を任せながら回遊するサウンドウォーク(byステファン クラスニャンスキ)は快適だけど、日本語のナレーションはやや鬱陶しかった。ただし、フランス語か英語を選べばジャンヌ・モローの声だったんだって! 彼女が終始耳もとでナビしてくれるのであれば、シャネルのバッグ1個くらい買ってもいい。

7月8日、西麻布のスーパーデラックスで「test tone vol.35―Festival of Alternate Tunings」というイベントが開かれた。これもまた無料。エルメスやシャネルのような予約も不要。ノーチケットで気まぐれに行けるライブっていい。飲み物は好きなだけ買えるわけだし。さまざまなアーティストが演奏する中、私はすごいバンドを見てしまった。いや、バンドじゃなくて、一夜限りのコラボレーション。

●山本達久 ・・・ノイズドラム
●L?K?O ・・・ターンテーブル
●大谷能生 ・・・サックス
●Cal Lyall ・・・ギター
●onnacodomo ・・・VJ

漢字と英語と記号とローマ字が混在する字面からして、全然バンドじゃないし、まとまってない。さて、この中で外国人は誰でしょう? 女性は誰でしょう? 電気系の楽器はいくつ? ドラムだけ「ノイズ」をつけてしまったけど、ほかのパートにも形容詞をつけたほうがいいかもしれない。音楽の最前線は、言葉が定まってなくて刺激的だ。

セッションは即興的だが緻密であり、調和していないが引きこもってもいなかった。楽器としてのパワーを感じるターンテーブルには新しい時代を確信したし、ドラムの爆発ぶりにもぶっとんだ。繊細にして大胆不敵なサックスは、アナログという言葉の語源が「自由」であることを思い出させた。と、思わずでたらめを書いてしまいたくなるほどだが、これらの音に一層ミスマッチなギターが加わり、奇跡的ともいえるキャッチーなノリの中に荒涼としたダイナミズムが生まれていたのである。いろんな素材が料理され、3面の壁いっぱいに映し出されるビジュアルパフォーマンスにもダイレクトなライブ感があり、風景が映るわけでもないのにロードムービーみたいだわと感動しているうちに演奏は終わってしまった。このセッションにはタイトルがなく、二度と聴くこともできない。書いておかないと忘れちゃうじゃん。

旅とロートレアモンの詩とサックスと物理学が荒削りにミックスされたジム・ジャームッシュの処女作「パーマネントバケーション」(1980)が最初に上映されたときも、こんな感じだったのだろうか? 
2008-07-13

『夜顔』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

サービスの純度。


「上品」は、どこからくるのだろう。たぶん、自然に生まれるものではなくて、どこかで誰かがつくるものなのだと思う。社会性にこだわり、外出着を選び、手にとるものを選び、口にする言葉を徹底的に選ぶ。そして、そんな上品が、別の上品を呼ぶ。

この映画には、ひとつの劇場と、ひとつのバーと、ふたつのホテルが登場する。主人公(ミシェル・ピコリ)が一人で演奏会を楽しんだり、バーマンと話しながら酒を飲んだり、コンシェルジュに女(ビュル・オジエ)のゆくえを尋ねたり、ギャルソンたちのサービスを受けながら女とフルコースの食事をしたりする。これらのシーンに登場するサービススタッフの上品さは、特筆すべきものだ。

バーマンは、店の常連である2人の娼婦を「天使」といい、若くない娼婦は若い娼婦を「いい友達」といい、ギャルソンたちは、トラブルを起こした客についても、陰でネガティブなことを言う代わりに「面白い」「不思議」「変わっている」というニュアンスの言葉で尊重する。

人だけじゃない。主人公が女を追跡するパリの夜の美しさは比類ないし、グラス、シャンパン、燭台、プレゼントなどの小物をはじめ、アル中の主人公が身につけている服、かつて背徳的な人妻であった女が身につけている服、娼婦たちが身につけている服の選びぬかれた上質感。ほとんど一発撮りのようであり、しかも完璧であるとしかいいようのない70分だ。こんな緊張感あふれる映画は70分間で十分だし、物語なんてなくたっていい。これほど美しく凝縮されたリアリティのある画面を構築できるのは、今年100歳になるというオリヴェイラ監督だけではないだろうか。

この映画はルイス・ブニュエルの「昼顔」(1967年)の続編といえるオマージュ作品だが、オリヴェイラ監督は言う。「ブニュエルは私的なことと映画を混同しない人だった。彼は背徳的なテーマを描いても、セックスシーンは撮らなかった。私的なことだからだ。私も彼の考えに賛同する一人だ」

人間には裏表があって実は下品なのである、という杓子定規的なトーンの映画を見ると、がっかりする。下品なのはあなただ、と監督を指さしたくなる。

オリヴェイラ監督は、相変わらず、精力的に映画を撮り続けているようだ。ひとつのことを長く続けることによって、頑固さとは別の純度を手に入れることができるのだとしたら、世の中はなんて希望に満ちているんだろう。

映画のあと、それぞれ別の知人がやっているレストランとバーへ行った。今まで深く考えたことがなかったけれど「夜顔」を見たあとでは、どちらの店のコンセプトもサービスも、驚くほどピュアであることに気がついた。なんだか映画の続きのような気分になって、ああ、私のまわりにも上品な人たちがいるんだわ、と嬉しくなった。私が映画館で買ってきた「夜顔」のポストカードを渡すと、レストランのオーナーはフランス語のタイトルについて、バーのオーナーは主演男優についてコメントしてくれた。

ネガティブなことをネガティブに考えればいろいろあるのだろうけど、とりあえず、日々、ポジティブなことだけで頭の中をいっぱいにすることができる状況は何よりも幸せで、その要には「上品でピュアな人」の存在があることを強く思う。万が一、身近にそういう人が一人もいなくなっちゃったとしても、私たちは、オリヴェイラ監督の映画を見ればいい。


*2006年/フランス+ポルトガル合作/70分
*銀座テアトルシネマで上映中
2008-01-07

『ワサップ!』 ラリー・クラーク(監督) /

プラダを着ない天使たち。


サロンボーイ系とお兄系とパンク系がニアミスしたって、東京では「それが何か?」って感じだ。ファッションの違いは趣味の違いと認識されるだけで、深刻な生存競争につながることはない。だけど、移民の多いロサンゼルスのような都市では、ファッションが肌の色と同じように判断され、階級意識を浮き彫りにする。

「ワサップ!」の主役は、ロサンゼルスのサウス・セントラルで暮らす7人のティーンエイジャーたち。全員がラティーノ(ラテンアメリカ系の移民)で、パンクで、スケボー好き。つまり、とっても目立つ存在だ。なぜなら、この街の主流は、黒人のヒップホッパーだから。タイトなジーンズとTシャツに身を包み、スケボーで登校する彼らは、ヒップホッパーたちに「ワサップ、ロッカーズ!」(ロッカーたち、元気か!)と絡まれ、「ちっちぇーTシャツ!」とバカにされるのである。

そう、この映画はファッション映画。地元でも仲間が殺されちゃったりする日々なのに、彼らはビバリーヒルズに足を伸ばす。さて、どうなるか? まずは警官に咎められ、一人が拉致される。次に、ビバリーヒルズ高校のお坊ちゃまたちに攻撃される。挙句の果てには、クリントイーストウッドみたいな映画監督に、銃を向けられる。

しかし、彼らを受け入れる人種もいる。ビバリーヒルズ高校の美人姉妹、有閑マダム、そして、彼女たちの使用人であるラティーノたち。女は、先入観なしで、男の「見た目の美しさ」を評価できるのである。とりわけ、ルックスのいいジョナサンとキコの二人はモテモテだ。

いちばん面白いのは、たまたま彼らが逃げる途中で紛れ込んだ中庭でのパーティーシーン。ジェレミー・スコット(実物)を始めとするセレブなファッションビープルたちもまた、彼らを一目で気に入る。ラティーノがスケボーでパンク。それだけで絵になるのである。浮いているのである。マイナーなのである。かっこいいのである。ラリー・クラークだって、そうやって、素人である彼らを街でスカウトしたのだろう。ファッションっていうのは、なんて危険なんだろう。それだけで、つかまったり、殺されたり、可愛がられたり、映画に出なきゃなんないはめになるのだから。

「ワサップ!」は、こうしてファッションの本質をえぐる。人種のるつぼの中でむきだしにされる、そのわかりやすい記号性と危険性を。肌の色と同じくらい自然で危険で面白いファッションに目をつけ、素人のティーンエイジャーに心を開かせ、リアルな演技をさせたラリー・クラークの手腕は、毎度のことながら、さすがなのだ。
2007-02-27