村上春樹が読者の質問に答えて書いていた。「正直言いまして、ゴダールって若いときに見るべき映画ですね。そう思います」。そうなのか? 村上春樹としては、ゴダールの映画は成熟していないが僕の小説は成熟している、と言いたいのかもしれない。
たしかにゴダールの映画はいまだに成熟していない、と新作を見てよくわかった。一方、最近の村上春樹の小説はハードボイルドさが薄れ、理由を突き詰めているような気がする。
昨年出た村上春樹の短編集『女のいない男たち』は、浮気する女たちのせいで傷つく男たちがテーマになっていた。ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』のベースも人妻と独身男がおりなす物語ではあったが、女はなぜ簡単に二股をかけるのか?と糾弾する勢いの村上春樹に比べ、ゴダールはそんなことはどうでもよくて、大事なのは犬であるというのが結論だ。サルトルの『存在と無』、デリダの『動物ゆえに我あり』などが引用され、人間批判が展開される。
たとえば「登場人物って嫌い」と女が言う。
人は世の中に登場した瞬間から、他人に意味づけされる。その結果、他人の言葉はわかるが自分の言葉がわからない状態になる。登場人物とは、自分の言葉を失った人間のことなのだ。
たとえば「自由な生き物は干渉しあわない。手にした自由が互いを隔てるのだ」という言葉が愛犬ロクシ−の動画に重ねられる。
不自由な人間は、自由を求めて不毛に争い合うというわけだ。
たとえば、子供をつくろうと男に言われた女が「犬ならいいわ」と答える。
これほど未成熟な映画があるだろうか。ゴダールに理由なんてない。あるのはロクシ−への愛と3Dへの好奇心のみだ。
ゴダールの映画を3Dで見る日が来るとは思わなかった。しかも気分としては『勝手にしやがれ』を3Dで見ているような、3Dカメラが初めて街に出て自由に動き出した歴史的瞬間を目撃しているような。『Stand by me ドラえもん』によって昔のドラえもんの記憶までが3Dに塗り替えられてしまったように、84歳のゴダールは3Dと一気に仲良くなってしまった。
スムーズで見やすいわけではない。3Dが立体感をリアルに見せる技術だとすれば、ゴダールの3Dは真逆で、過剰な実験を繰り返す。左右のずらし方を極端にして見えづらくし、挙げ句の果てには、左右の眼に異なった画像を映し出す。奥行き表現への挑戦も半端ではなく、画面は絶えず斜めに切り取られ、ついにはシャワーをカメラに向かって吹きつける。3Dの意味がなさそうなものさえ、あえて撮ってしまうのも痛快。
面白そうなものは、とりあえずすべて撮ってみた感じ。裸のロクシ−、裸の男女、四季の水や自然の比類ない美しさ。そして暴かれたのは3Dの滑稽さで、もっともらしいものに対する強烈な一撃だ。要するに誰かがつくった3Dシステムを解体し、自分でゼロから試している。既成のシステムに無自覚に乗っかって作品を発信することは、まさに自分の言葉を失った、他人の物語の登場人物のような状態をさすのかもしれない。
69分という短さの理由は、ひとつは目が疲れるから。もうひとつは、左右2倍楽しめるから。音楽の耳あたりはよくて、不滅のアレグレットといわれる映画音楽の定番、ベートーヴェン交響曲第7番第2楽章やチャイコフスキーのスラブ行進曲のイントロ部分が繰り返し使われる。
『さらば、愛の言葉よ』はゴダールらし過ぎるタイトルなので、いっそのこと『こんにちは、ワンちゃん』とでもすれば、間違って見に来る人が殺到するかも。