ごあいさつ

急激な変化はあまり得意ではないけれど、時間をかけて、少しずつ変わっていけることがあったらいいなと思います。この十数年、コピーライターの仕事に没頭するかたわら、ほかのジャンルのお仕事もいただけるようになったのは、うれしい変化でした。体験しきれないほどたくさんの映画や音楽や言葉が、いつも身近にある幸せを感じています。これまでの、そして明日の、かけがえのない出会いに乾杯!

2016年末 相川 藍

『マチネの終わりに』平野啓一郎

最高の現実逃避本。





哲学や芸術のもつ力が、政治経済やインターネットがもたらすグローバルな厄災に打ち勝つことが、全編を通して書かれていて、心地よい。その中心には「愛」がある。同質のテーマを孕む西加奈子のグローバル小説『i』の中心が、カタカナの「アイ」であることと対照的だ。

ゆるぎない信念を心に抱いていれば、どんな困難に見舞われても、その果てには必ず見晴らしのいい風景がひらけると、無邪気に信じたくなる。なんと口当たりのいい小説だろう。

こんな恋愛は、選ばれた人にしかできない。国際的に活躍する天才クラシックギタリスト(蒔野)と、ユーゴスラビア人の著名な映画監督を父にもつ通信社記者(洋子)という、憧れるのもおこがましい高スペックな男女の物語だ。序章に「私から見てさえ、二人はいかにも遠い存在なので、読者は、直接的な共感をあまり性急に求めすぎると、肩透かしを喰らうかもしれない」と書いてある。

「もし事実に忠実であるなら、幾つかの場面では、私自身も登場しなければならなかった。しかし、そういう人間は、この小説の中ではいなかったことになっている」とも書かれている。だけど、読み始めてみれば、平野啓一郎という作家の趣味嗜好が、あらゆる細部を覆い尽くしていることがわかる。

最低な行動を起こす人物ですら、そこには信念があるという赦しは、最強のスノビズムだ。災難は加害者一人のせいではない。それを受ける側の状況にも弱みがあることがサスペンスフルに指摘される。要するに「こうなるしかなかった」という美しい運命論。

神の視点を持った通俗的なメロドラマでありながら、目を見張るような高尚さなのだ。聖と俗に精通した作家ならではの豊かな語彙が、悲恋物語のパターンを特別なものに変える。

重い世界に耽溺した後、たった5年半しか経っていないことに驚く。5年半で人はこんなに変わるものか。リーマンショックと震災をはさんだ5年半だから? 蒔野が雑談時に披露する「気の利いた話」が、心なしかだんだんつまらなくなってくるのが悲しい。天才ギタリストも、おっさん化を免れないということか。

洋子の魅力は、最後まで損なわれない。女性の「外見と精神の美しさの一致」をここまで具体的に描写し、肯定し、崇拝することのできる男性作家は希有だと思う。ブラボー。


2016-12-29

『灼熱』 ダリボル・マタニッチ(監督)

「灼熱」と「逃げ恥」のあいだに。





ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』が話題だが、これはハンガリーのことわざ“Szégyen a futás, de hasznos”(=Running away is a shame, but it is useful)に由来するタイトルだという。その意味は“Choose your battles”7つの国と接し、海という逃げ場もないハンガリーにおいては「生きのびるために、戦い方を選べ」という生死に関わる教えなのだろう。

日本語でも「逃げるが勝ち」「負けるが勝ち」「君子危うきに近寄らず」など似た言葉があるが、無駄な力を使わずにすむ勝ち方や、戦わない美徳を説く精神論的なニュアンスが強い。

ハンガリーに興味を抱くきっかけになったのは『カフェ・ブタペスト』(1995)という映画だった。社会主義が崩壊し、民族と言語と情報が交差する都市の熱狂が描かれていた。しかし昨年、ハンガリーはEUが合意した難民割り当てを拒絶し、セルビアとの国境、そしてクロアチアとの国境を封鎖した。あらかじめトラブルの種を避ける「逃げ恥」戦略なのだろうか。

『灼熱』は、4つの国と接しているものの、国土が細長く、アドリア海に面してもいるクロアチアの映画だ。国内におけるクロアチア人とセルビア人の対立がテーマであり、国境を持たない日本人としても共感できる要素は多い。何よりクロアチアは親日国で、1992年に独立した際、日本がアメリカよりも早く承認したことを恩義に感じているのだという。

とはいえクロアチア人とセルビア人の憎しみ合いの歴史と心情は、簡単に理解できるものではない。1975年クロアチア生まれの監督だって、たぶんそうなのだろう。監督がこの映画を撮ったきっかけは、ガールフレンドの話をするたびに、愛情深い祖母が彼に放った冷酷な言葉「その娘が向こうの人間(=セルビア人)じゃなきゃいいよ」だったという。

3つの時代の、愛に関する物語だ。これはこの国で反復されてきた「引き裂かれた愛の形」であり「戦い方を選べ」という教訓でもある。戦時下の悲劇を描いた1991年の教訓は「理由なく撃つな」。戦時の記憶がまだ生々しい時期の葛藤を描いた2001年の教訓は「愛にタブーはない」。そして、後遺症の鈍い痛みを描いた2011年の教訓は「思いはいつか伝わる」。

理不尽な悲劇への憎しみを超えた慟哭、ままならない状況における性愛の爆発、そして、かつて逃げた男に対して最終的に女が開け放つ家のドア。いずれの愛も、成就するはずだったのに、一体どうしてくれるんだ? 同じ俳優によって演じられる、鋭利な刃物のようなそれらの表現は、ものすごくシンプルで、迷いがない。
                                                                      
時代が進むにつれ、希望が持てる状況になっているのだろう。しかしその先はどうか。ねじれにねじれて恋愛は困難さをきわめ、挙げ句の果てに「逃げ恥」的ドラマがヒットするような成熟国になるのだとしたら。それはそれで、とても大きな欠落のような気がしてならない。

2016-12-19

『母の残像 Louder Than Bombs』 ヨアキム・トリアー(監督)

あるがままの真摯さに、しびれる。





大好きな作家にインタビューする夢が叶い、彼女が、定型の面白さを注意深く排除することで、純粋に面白い作品を書いていることを知った。天の邪鬼ということではない。それこそが、世界をあるがままに受け止める素直さなのだ。

『アスファルト』(2015・サミュエル・ベンシェトリ監督)の世界から抜けられずにいる。何らかの喪失を抱え、心理的に迷子になった団地の住人たちについての映画だ。不時着したNASAの宇宙飛行士を、言葉も通じないのに息子のように世話する老女。隣に引越してきた《わけあり女優》を、ごく普通に助ける《美しい10代の青年》。団地の中で迷走し、外へ出ることで《運命の看護師》と出会う中年男性。伝わるはずがないという前提で、奇跡的にコミュニケーションが成立する瞬間が描かれていた。それは、自らの弱さを自覚し、率直に、対等に、いちばん大切なことを伝え合う、愛以前の美しい交流に見えた。

こんな世界に浸っていたくて、《運命の看護師》役のバレリア・ブルーニ・テデスキが重要な役を演じる『人間の値打ち』(2013)や、《美しい10代の青年》役のジュール・ベンシェトリの祖父が主演する『男と女』(1966)を見たが、その延長で、またまた凄い作品に出会ってしまった。《わけあり女優》役のイザベル・ユペールが、母であり女でもある戦場カメラマンを演じる『母の残像』(2015)だ。

ひとことでいえば、定型を排除した家族愛の映画。最初のシーンで、赤ん坊の小さな手が大人の人差し指をつかみ、その指が若い父親(ジョナ)のものであることがわかる。妻が出産したばかりの病院。心温まる誕生シーン? いや、そういう普通の物語じゃない。

誰もが内密の不安を抱えながら、大事な人を心配している。そこに上下関係はない。誰かが誰かに向けるまなざしのすべてが真摯であるという真っ当なことが、見たことのない表現方法で描かれている。見て見ぬふりをしながら、愛する人を、そっと見守っているのだ。見て見ぬふり、わかっているのにわかっていないふりが、この映画では愛になる。衝撃だった。

ジョナの母親は、3年前、57歳で亡くなった。クルマの事故ということになっているが、自殺のようでもある。ジョナは、母親の遺品の整理という名目で、父親と弟が暮らす実家に、妻子を連れずに戻ってくる。

母親の死の真相を知らない弟コンラッドは、何をしでかすかわからない、妄想まみれの危うい思春期を生きている。だがジョナは、馬鹿だと思っていたコンラッドの才能を見出すのだ。個性的な弟が、その芽を摘むことなく今を生き抜くための、兄の的確なアドバイスが泣ける。そして弟もまた、兄の不安を見抜いているという事実。

コンラッドが、叶う見込みのない恋の相手とパーティで話をし、彼女を家まで送るシーンは忘れられない。家に着くころには夜が明けている。一緒に歩いた魔法の時間を彼は忘れないだろう、ということを、あまりにも、あるがままに描き切った神聖な情景。その時間の美しい希望は、簡単に成就するわけではないが、記憶は永遠だ。真摯であるべきときに真摯であることによって、私たちは、かけがえのないギフトを受け取れるのだろう。

愛は永遠じゃない。形を変える。でも、その形を焼き付けることはできる。たとえばこの映画のように。

2016-11-29