『山椒大夫』 溝口健二(監督) /

世界で最もマネされた日本映画。


9月5日付の朝日新聞には、「溝口健二没後50年プロジェクト」のために来日したスペインのビクトル・エリセ監督が、兵役中だった1964年、マドリードで「山椒大夫」を見たときのエピソードが掲載されていた。最後まで見ることは門限を破ることだったが「映画は懲罰を要求しているかのようでした。おかげで映画史上で最も美しいフィナーレを見ることができたのです」と監督は語る。 門限破りの懲罰とは、一晩中じゃがいもの皮をむくこと。彼は、頭の中で映像を思い返しつつ「人生を凌駕する映画がある」と悟ったという。

私のイタリア語の先生はクレモナで生まれ、モーツァルトを愛し、大学で建築を教え、イタリアワインとバイクに目がないお洒落なエピキュリアンだが、日本に住むようになったきっかけは、なんと溝口健二の特集上映を見たことだという。先日、彼の手引きでシエナ派を代表する中世の世俗的な画家、ロレンツェッティのフレスコ画「よい政府とわるい政府の寓話(L’allegoria
del buono e cattivo governo)」を詳細に検証したのだが、そこにはまさに、映画「山椒大夫」の世界が展開されていた。

ジャン=マリ・ストローブはこの映画を「もっともマルクス主義的な映画」と言い、ジャン=リュック・ゴダールは、佐渡の海辺をパンするラストショットを自作に引用した。一体なぜ、これほどまでに外国人にウケるのか? 日本での人気ナンバーワン溝口映画は「雨月物語」のような気がするけど…。そう、「山椒大夫」はあまりにもマジすぎて、見る側にもつい力が入ってしまう。そのピュアな強度は、日本人の感性を通過してユニバーサルな領域に到達しているがゆえに「この映画がいちばん好き☆」だなんてビクトル・エリセ監督のように無邪気に言い放つことを難しくする。劇場では、水を打ったような静けさの中にすすり泣きの波紋が広がり、まさに安寿(香川京子)の美しい入水シーンそのものだ。パーフェクトに構築された演劇空間は、暗く悲しく残酷であるだけでなく、時にコメディの要素すら加わるのに、観客は笑うことができない。ジャンルを超越したすごいものを見ちゃったという気分になる。

説教でもなく、感動の押し売りでもなく、政治的なプロパガンダ映画でもない。北朝鮮の強制労働所のマル秘映像を見ているような極端な階級社会の描写が続くのに、これは、日本のエスノセントリズムを超えた世界のスタンダードになったのだ。溝口健二は、ひたすら美しい音楽を奏でるように、この映画を真剣に撮っている。楽しげなシーンがひとつだけあって、その変奏シーンがあとでもう一度出てくるのだが、見事な音楽的リフレインとしかいいようがない。

この映画のメッセージは2つある。「時間をかけること」と「血と信念をつらぬくこと」。環境にあわせてころころと器用に適応することが良しとされる今、圧倒的にたりないものかもしれない。


*「溝口健二の映画」連続上映中
*1954年 ヴェネチア映画祭 銀獅子賞受賞
2006-09-21

『Vintage '06 ヴィンテージ・シックス』 石田衣良,角田光代,重松清,篠田節子,藤田宜永,唯川恵 / 講談社

どのワインがいちばん美味しいか?


6人の直木賞作家が、ワインをテーマに短編小説を書いた。
各作家が選んだワインは以下の通りである。

石田衣良・・・岩の原ワイン
角田光代・・・トカイ・アスー・ヒツル1995・6プトニュス
重松清・・・シャトー・ベイシュヴェル1962
篠田節子・・・シュヴァリエ・モンラッシェ1990
藤田宜永・・・シャトー・オー・ブリオン1971
唯川恵・・・登美

いちばん美味しかったのは、角田光代だ。彼女の小説だけは、意味よりも前に味がある。他の人のワインは、意味ありきなのだ。この固定観念は何? ワインというのは格式があって気取ったものである、というようなイメージに縛られている。小説という自由な形式なのに、みんなワインが嫌いなんだろうか? まずはラベルがあって、うんちくや先入観があって、それから味がある。最初から結論がわかっているような感じで世界が広がらず、どこへも行けない。

角田光代の小説「トカイ行き」は、まず味があって、それから「トカイ」というラベルがあって、そこから物語が紡がれ、最終的に深い意味につながってゆく。想像力が無限に広がり、思いがけない地平に着地するのだ。要するに、彼女はお酒の魅力を知っている。たぶん酒好きで、酒飲みだ。ワインというテーマなど与えられたら、美味しそうなシチュエーションが無限に浮かぶのだろうし、その小説は、読者を別の場所へかっさらってくれる。これが小説だし、これがお酒だ。

「トカイ行き」の主人公である「私」は、8年つきあった新堂くんにふられ、仕事も辞めて出かけたハンガリー旅行で、神田均という日本人に出会う。

「なんとなく彼を好ましく思っている自分に気がついた。もちろんそれは恋ではないし、友だちになりたいという気持ちとも違う。うらやましい、というのがいちばん近かった。昨日会ったばかりの、どこへでも軽々と移動していくらしい男の子を、私はうらやましく思っていた。その軽々しい足取りを、ではなく、たぶん、彼の揺るぎなさみたいなものを」

ワインに接するときと同じだ。肩書きや名前や彼がなぜそこにいるかなどという理由は、あとからやってくる。こんな人と、旅先ですれちがって、うらやましく思えて、少しだけ自分の中にそれを分けてもらう。これ以上、素敵な体験があるだろうか?

旅とトカイ・アスーと神田均の魅力があいまって、甘い余韻にしびれてしまう。
2006-09-12

『サプリ(1~4)』 おかざき真里 / 祥伝社

月9広告代理店ドラマにおける伊東美咲と亀梨和也のリアリティ。


フジ月9ドラマ「サプリ」から目が離せない。
主役はCMプランナーの藤井(伊東美咲)とアルバイトのイシダ(亀梨和也)。ロケ地は東銀座のアサツーディ・ケイ本社。この手のオフィスラブものには以前から引っかかるものがあったが、うちの両親が出会ったのは、母が勤めていた丸の内の某社で、そのとき父は学生アルバイトだったのだと先日知った。マンマミア! 父のトレンディドラマ好きは、そういうことだったのか? 「サプリ」も見ているに違いないが、感想はこわくて聞けない。

「サプリ」には、外からの視点がある。イシダ(亀梨和也)は、アルバイトならではの、お気楽でちょっと鬱陶しくて、だけど新鮮な空気を運ぶ若者を好演しているし、フリーコピーライターの柚木(白石美帆)という個人的に見逃せないキャラも登場する。火花を飛ばしあう営業の田中(りょう)と制作の藤井(伊東美咲)の2ショットは<資生堂のモデル×2>にしか見えないけど、広告代理店にキャッチーな美女が多いのは事実。先日、電通本社で受付の女性たちを前にして、私と一緒にいたイシダ(亀梨和也)に似ていなくもないコピーライター志望のNは「全員エビちゃんに見える!」と叫んだくらいだ。

原作を読んだが、著者はかつて博報堂に勤めていたそう。このリアルは<広告代理店勤務>と<フリー>の両方を経験した<女>にしか描けないと思う。原作には、柚木が仕事を切られるシーンもある。「彼女、女の割に高いんだよねー料金。変にこだわるしさあ。使いづらいよなー」って。

仕事で疲弊して、毎日がいっぱいいっぱいで、考えること山積みで、それでも恋愛よりはラクで、とはいえ本当に大切なものが何かは年齢と共に問われていて、不倫や二股や三角関係や片思いやいろいろあるけど、救いというのは案外小さな部分にあって、どんなに忙しくてもそれだけは見落とさず、大事にしてつなげていくことが人生だっていう、そんなことを「サプリ」は気づかせてくれる。

「化粧品とか 服とか 流行とか おいしいものとか
武器はそろっているのに いっぱいあるのに
たったひとつ持ってないもの かわい気」

「このまま光速で働いたら 女以外の別の生き物になれそうな気がする
もしかしたら 私はそのために働いているんじゃないかしら」

「仕事がありがたいのは 他人とご飯が食べられることだ
あたり障りのない会話をする
おいしく食べるためにみんなで気を遣い合う
食事をキチンとエネルギーにする時間 大切なことだと思う」

「会社っていうのは『失敗を少なくする』というシステムだ
何事にもフォローする人がいてノウハウがある
その分個人の気持ちが置いていかれたとしたも
それが『みんなで仕事をする』ということです」

「仕事も私の一部なわけで
しかもそのウエイトがかなりの割合を占めている私は
それをはずされたとたんに途方にくれる」

「だって疲れた顔した女に仕事頼もうと思わないでしょ?
笑顔ひとつで仕事回るなら安いものよ」

藤井を見て思い出すのは、某広告代理店の先輩ディレクターS。彼女はいつも夜遅くまで会社にいるが、いきなり電話すると意外とあっさりつきあってくれる。で、限りなく飲める。理想のタイプはと聞くと「結婚してない人!」と即答する。運転しながら助手席の私と話しながら電話も受けながら資料をまさぐる彼女を見ていると、ひとつしか集中できない私は、組織のリーダーなんかには絶対なれなくて、だからフリーなんだなと納得したりする。Sは藤井に似ているけど、やっぱり違うから、私は今日も「私家版サプリ」を勝手に構築して、頭の中で楽しむのだった。
2006-8-21

『Isole(群島)』 アントニオ・タブッキ / Universale Economica

タブッキの海。


長かった梅雨が明け、小舟という名のオープンカーで海辺の町へ行った。
夏の陽射しは、サプリメントからは摂取できないヴィヴィッドな栄養素をチャージしてくれる。
ほてった肌をテラスで落ち着かせ、ジャコメッティの彫刻を思わせる細いグラスにビールを注ぐと、水平線の近くにキラキラと輝く島が見えた、ような気がした。
タブッキの短編をつれて行くだけで、そこはティレニア海になる。

「Isole」の主人公は、トスカーナの島で刑務所の看守をしている。その日は、年金生活前の最後の仕事の日。手術が必要な男の囚人を、本土の病院に連れていくのが彼の任務だ。彼にとっても囚人にとっても、別の意味で、これが最後の旅となるだろう。船の時間はゆっくりと流れ、彼はオレンジの皮をむく。北に住む娘に宛てて、心の中で手紙を書くのだった。

仕事とプライベート、過去と未来、現実と空想が自在に入り混じって、オレンジの皮とともに海面へ消えてゆく。娘のマリア・アッスンタとその夫ジャンアンドレアのこと、彼らのもとへ行くつもりはないこと、これまでの自分の人生のこと、亡くなった妻のこと、明日からの年金生活のこと、そして、目の前の囚人のこと。

彼の想像は具体的だ。チンチラウサギを飼う計画については、飼育方法にまで話が及ぶし、これから食べるランチについては、カッチュッコ(リヴォルノ地方の魚介スープ)から始まり、メバル、ズッキーニのフリット、マチェドニア、チェリー、コーヒーまでテーブルに並ぶ。

正午前に着いた港では、犬がけだるくしっぽを振り、Tシャツを着た4人の若者がジュークボックスのそばでふざけている。ラモーナという懐かしい歌がリバイバルし、トラットリアはまだ閉まっている。彼は、赤いニスが剥げかかったポストに、囚人から託された手紙を投函する。手紙の宛名はリーザとあるが、彼は囚人の名をおぼえていない。

それらすべてが、小さな点のような群島のイメージに結晶する。
強い陽射しが水平線をきらめかせ、島が見えなくなるとき、彼の孤独はくっきりとするのだ。
タブッキの真骨頂は、海の描写だと思う。
手紙、音楽、そして、おいしそうな食べものも欠かせない。


*Piccoli equivoci senza importanza (1985)に収録
2006-08-02

『わらの男』 ピエトロ・ジェルミ(監督) /

男には、愛人以前に友人が必要だ。


W杯の決勝で、マテラッツィはジダンに何と言ったのだろう?
「娼婦の息子!」(figlio di puttana)と中傷したという説があるが、この言葉の意味は伊和辞典を引いても「こんちくしょう」であり、単なる悪態にすぎない。ジダンは以前ユヴェントスに所属していたからイタリア語は堪能なはずだが、ユヴェの本拠地である北のピエモンテ州とマテラッツィの出身地である南のプーリア州では、言葉もカルチャーも雲泥の差。南イタリアには、トマト、黒オリーブ、ケッパー、アンチョビを使った「娼婦風スパゲッティ」(spaghetti alla puttanesca)というのがあるくらいだ。

しかし、マテラッツィが「わらの男!」(uomo di paglia)と言ったのだとしたら?
この言葉はT.S.エリオットの詩「The Hollow Men」(うつろな男たち・1925年)に出てくる「Headpiece filled with straw」(わらのつまった頭)に由来するそうで、英語でもフランス語でもイタリア語でも、わらの男といえば、中身のないつまらない男という意味である。男にとって、これほど致命的な中傷の言葉はないんじゃないだろうか。どこまで掘り下げても実態のないわらのイメージの恐ろしさに比べると、「娼婦の息子」という言い方は出自がはっきりしていて、ほめ言葉にすら感じられる。

「わらの男」(1957)は、結論がタイトルになっているような映画だが、本当に救いがない。監督自身が演じる主人公の男は、妻子が不在の期間に、同じアパートに住む美人だがちょっと影のある22歳の女に手を出してしまう。妻子が戻ってきたとき、彼は女と別れようとするが、女は取り乱し始める。こうして彼の生活は破滅へと突き進む。

もともと家庭を捨てる気などない「わらの男」の中に、女への「面倒だな」という気持ちが生まれるあたりが面白い。いかにもありがちな不倫ストーリーだが、1957年の映画であり、ディティールはあまりにみずみずしい。男のずるさ、女の未熟さ、妻の怖さ、口説いた側ではなく口説かれた側が壊れてしまうという理不尽さ。恋愛の残酷な本質がつまっていて、身につまされる。

諸悪の根源は「わらの男」にあるが、つきあう相手の選び方もまずかった。相手が成熟したものわかりのいい女なら、違う展開になっていたはず。でも、それじゃあ、ぜんぜん面白くない! わらの男は、自分がわらであることにすら気づかないだろう。この映画は、若く美しい女の未熟さによって、もう若くはない男のダメさを際立たせたことに意味がある。

「わらの男」に唯一救いがあるとすれば、それは男友達だ。彼は、わらの男を客観的に見ており、心配そうに不倫の協力をし、破綻したときも見捨てない。この友人のおかげで、わらの男は、かろうじて生き延びているのかも。そう、わらでできているような男は、互いに助け合わなければいけない。誰かの友達であるとき、男は、わらの男ではなくなるのだ。

イタリアでは同じ頃、もっとすごい破滅映画「さすらい」(1957)がミケランジェロ・アントニオーニによって撮られた。ソフトなタイトルと思いきや、原題は「叫び」。それこそ、元も子もない結論そのままのタイトルだ。破滅に向かって一直線のストーリーは鮮やかすぎる。
「さすらい」の主人公には男友達がいないから、それは、真の破滅となるのである。
2006-07-25

『ジダン-神が愛した男』 ダグラス・ゴードン&フィリップ・パレーノ(監督) /

サッカー × アート = 見たことのない肖像。


2005年4月23日のレアル・マドリード対ビジャレアル戦。
ヨーロッパで初めて使用される高解像度カメラを含む17台のカメラがジダンを追った。
監督は、現代美術の分野で活躍する2人の映像アーティスト。この映画をジャンル分けするなら、商業映画でもなく、スポーツドキュメンタリーでもなく、ファンのための映画でもない。まだ誰もやったことのないことに挑戦した実験映画だ。

準備に1年、製作に1年を費やし、カンヌ国際映画祭に出品。日本では話題になりそうもなかったのに、W杯決勝の「頭突き事件」がタイムリーなプロモーションとなった。この映画(試合)の結末も、たまたま「ジダンのレッドカード退場」だったのだから。

上映時間が95分で、終盤に退場ときいて、試合の流れをリアルタイムで撮ったドキュメンタリーを想像した。ジョナサン・デミがトーキング・ヘッズのライブを撮った「ストップ・メイキング・センス」のようなものを期待して劇場へ行ったのだ。仕事で映像制作を請け負うことになり、参考にしたかったということもある。

ジダン本人は、映画の話を最初は断ったものの「これまでに一度もこういう作品が作られた事が無い」ことに関心をもち、2人の監督に会ったという。完成後、ジダンはこう言っている。
「僕はあんな顔をしていたんだね。普段目にする写真やテレビでは、あの集中力や緊迫感までは感じられない」
「今言えるのは、これは衝撃的な映画だという事。誰もが気に入るかどうかは分からないけれど、それはすぐに分かる事だね。力強い作品だという事は確かだよ。重要なのは、聞いたこともない音を聞くことができて、見たこともない映像を見ることができる、という事。テレビで見慣れている試合など足下にも及ばないよ」

テレビのサッカー中継のわかりやすさというのは驚異的だ。この映画は、ボールを追わずジダンを追うから、試合の流れがよくわからない。ボールは何度もジダンのもとに来るし、彼は見事なパスを出す。ベッカムが彼に抱きつき、ロナウドや他のチームメートとのやりとりもある。レッドカードが突きつけられ、退場する時の観客の反応は、彼を英雄扱いしているみたい。だけど、ジダンが見ているものは、基本的に映し出されない。ジダンを見つめるカメラばかりなのだ。

そのことによって、そしてジダンの寡黙さや、身軽とはいえない彫像のような雰囲気も手伝って、内にこもった、スポーツらしからぬ「肖像映画」になっている。他のメンバーや観客を、流れる背景としてしかとらえないことで、チームプレーであるはずのサッカーが孤独な営みに見える。テレビの映像がゲームなら、この映画はサッカーそのものに肉薄したといっていい。

「美術手帖」8月号によると、2人の監督は「実生活を記録するベストな方法は、主観的な視点を無限に増やすことだ」というパゾリーニの言葉をヒントにしたという。17人のカメラマンが、ひとりのプレーヤーを主観的に追うことで「サッカー生活」の実像に近づいた。

主観的な視点を増やすことは、ドキュメンタリーから遠ざかることを意味するんじゃないだろうか? とても広告的な実験だと思う。編集にかけた時間と作り込みの凄さは、半端じゃないはず。ジダンの息遣いまで聞こえるような臨場感ある音づくりやナレーションもそうだし、ハーフタイムには、その日に起きた世界情勢の映像が流れる。音楽は、今年のフジロックにも出演するイギリスのロックバンド、モグワイの書き下ろしだ。


*2006年フランス=アイスランド
*シネカノン有楽町で上映中
2006-07-18

『F1ビジネス-もう一つの自動車戦争』 田中詔一 / 角川書店

カネと政治にまみれても、ピュアであり続ける方法。


昨年のアメリカGPでは、ミシュランタイヤを使用している7チームがレースを欠場し、ブリジストン3チーム、6台のみでレースがおこなわれた。観客の怒りはどれほどのものだったろう? そして、そこにはどんな政治的対立構造があったのか? 

HRD(ホンダ・レーシング・ディベロップメント)の社長として、1チーム100人が毎週のように海外出張し「超高額(高級とは限らない!)ホテルでの連泊」を繰り返す「F1サーカス」を仕切ってきた著者によって、カネと政治にまみれた究極のブランドビジネスの実像が明かされる。

著者は当初、コース裏のガレージで違和感を覚えたという。
「自チームの車が故障や事故でリタイヤすると、何十人ものスタッフが一斉に店じまいをはじめたのだ。レースはまだ戦われている最中なのに、である。彼らの仕事は、誰がこのレースで勝つかを見ることではない。自分達のドライバーをいかに速く走らせるかが、役割なのだ。だから受け持ちのドライバーがリタイヤしてしまえば、他チームの勝敗など関係ない」

今年のモナコGPでは、リタイヤしたキミ・ライコネンが、海岸線をとぼとぼ歩く姿が俯瞰で映し出された。それは映画のような光景だった。彼はピットまで歩くのだろうか? カメラはすぐにサーキットに戻り、次に彼が映し出されたのはヨットの中。レースはまだ戦われている最中なのにクルージングですか! しかし、北欧のアイスマンと呼ばれる彼の放心したような無表情は変わらぬまま。まるで「水の中のナイフ」(1962年byポランスキー)の1シーンみたいで、私は少しだけキミ・ライコネンのファンになった。

7月2日のアメリカGPでも、キミ・ライコネンはチームメイトに追突され、あっけなくリタイヤ。この事故は8台がからむ多重クラッシュとなり、ニック・ハイドフェルドのマシンなんてクルクルと宙を舞い、何度も横転。だけど無傷だってさ。すごい。私は、これを見るためにF1を見ている。いかに人間の能力は、スピードの限界に挑みつつ危険を克服できるのか? そこんとこを限りなく信じたいのだ。レース中に死傷事故を起こすようなクルマには、興味がない。

アメリカGPの結果は、フェラーリのワンツーフィニッシュに加え、フィジケラ(ルノー)、トゥルーリ(トヨタ)、リウィッツィ(トロ・ロッソ)という3人のイタリア人ドライバーがすべて入賞という「ビバ☆イタリア」状態であった。これはやはり、W杯でアズーリたちが、カテナチオにしてカッティーボな素晴らしすぎるプレイを披露し続けているせいにちがいない。

できれば、イタリア車にはイタリア人ドライバーに乗ってほしいものだが、なかなかそうはいかないのだろう。「トップ争いのできるドライバーは世界中でせいぜい10人程度しかおらず、有力チームがその少ないパイを奪い合う構図」なのだから。しかし、だからこそ、選ばれし者たちの戦いは面白い。カネと政治にまみれ、怒りにぶち切れることもしょっちゅうだろうが、ほとんどのドライバーは、サーキットを走るのがとにかく楽しくてたまらない、という顔をしているからだ。

ただしキミ・ライコネンだけは、いつも無表情!
昨日、公式HPで引退を表明したナカタと通じるものがあるかもしれない。F1ドライバーもサッカー選手も、ラテン系の人種ばかりではないのである。

「・・・それは、傷つけないようにと胸の奥に押し込めてきたサッカーへの思い。厚い壁を築くようにして守ってきた気持ちだった。これまでは、周りのいろんな状況からそれを守る為 ある時はまるで感情が無いかのように無機的に、またある時には敢えて無愛想に振舞った・・・」(nakata.netより)
2006-07-04