『TEAM ROCK』 くるり /

ゆるくてタイトな日本のロック1


くるりの「ばらの花」という曲をきくたびに、これは何だろうって思ってた。ジャンルがよくわからなかった。分類できないものは、妙に気になってしまう。ここ1か月というものJ-waveでばんばん流れているし、HMVにいけば、いつだって、私の短い滞在時間の間に1回はかかる。

この曲のイントロが始まると、なぜだか調子が狂う。おもちゃの時計みたいなリズムに、さりげなく、つかまれてしまう。雨とか朝とかジンジャエールとかバスとか、脱力系の言葉の世界が、サビの部分で1度だけエモーショナルに盛り上がるはずだから、それを聴きのがすまいっていう気持ちになる。

アルバムを聴いてみて、端正なリズムとテクニカルなサウンド、そして力の抜けたボーカルのマッチングが面白いんだなと思った。歌いたいことを等身大の日本語で歌い、やりたい音楽をタイトに実現してる。音楽性の高さにつられて、日本語の価値が上がるみたいな気がして嬉しい。

日本語と英語を絶妙に溶け込ませたラブ サイケデリコは、「日本語もこんなにかっこよく歌えるんだ」と感動させてくれるけど、くるりは、「ゆるーい日本語もこんなにかっこいいじゃん」って応援したくなる。
2001-02-23

『ユリイカ (EUREKA)』 青山真治(監督) /

静かだから、伝わるもの。


現代を描いた映画なのに、どうしてモノクロなんだろう? 「ユリイカ」を見た後、ゴダールとジガ・ヴェルトフ集団による映画「東風」(1969年、カラー)をたまたま見て、答えに近づけたような気がした。

傷つけられた画面、肝心な部分で途切れる会話、ペンキを血に見立てた革命のパロディー・・・・・まるで教育ビデオのような「東風」という作品は、「映画らしい映画」に対する挑戦であり、資本化・技術化がもたらす結果としての「美しさ」や「本物っぽさ」や「物語」へのアンチテーゼだと思う。映画の中で流れる血は、すべて、ペンキやケチャップで十分なのかもしれない。スクリーンに映し出されるのは、本当の死じゃないし、本物の血であるはずがないのだから・・・・・

人間がどんなふうに死ぬのか、私は映画によって知っているような気がするし、戦争がどのようなものかさえ、わかっているような気がするけれど、それって怖い。 本物っぽくつくりこまれた映像や、意図的に切り取られた表現に慣れきっているせいで、私たちは、真実を理解しようとする意欲まで奪われているかもしれないのだ。

「ユリイカ」の中では、死や狂気や暴力が、ちっとも本物っぽく見えない(そのことを最初は不満に感じたほどだ)。モノクロであるために、血のようなものが出ても冷静に正視できるし、センセーショナルに感情を煽られることもない。この映画では、大切なものや、より際立たせたい部分を集中的に伝えるために、あえて情報量を抑えたモノクロという表現形式が選ばれたのだという気がする(最後にカラー画面が効果的に使われるが、その必要さえなかったと思う)。

新聞をにぎわすような大事件が起こるのに、画面は一貫して静かだ。事件の渦中にあっても、当事者の日常というものは、それほど騒がしいものではないのだろう。そのことが淡々と描かれていく。

主要人物は、バスジャック事件で「生き残ってしまった人々」。自分のバスで被害者を出してしまった運転手と、事件の二次被害によって家族を壊されてしまった兄と妹。悪人でもなく、ヒーローでもなく、直接的な被害者ですらない中途半端な3人だ。この映画は、そんな地味で中途半端な人生に光をあてた。その視点が、限りなくやさしい。ドラマチックでありえない3人は、淡々とむしばまれ、だからこそ淡々と回復していくしかない。

この映画で唯一リアルなのは、九州の風景と言葉だ。これらに圧倒的な敬意が払われており、物語は二次的なものとすらいえる。自然に対する謙虚さから、説得力が生まれ、その結果、3時間37分という必然的な長さが生まれた。ロードムービーの王道だと思う。

*カンヌ国際批評家連盟賞受賞/ロードショー上映中
2001-02-19

『溺れる魚』 堤幸彦(監督) /

クボヅカくんの、時代。


窪塚洋介が、キムタク以来といっていいほどのブームになっている。野島伸司脚本のドラマ「ストロベリー・オンザ・ショートケーキ」(金曜夜10時からTBSで放映中)の彼は、とりわけすごい。何がすごいのか? 窪塚くんがセリフを言うと、それは実在の言葉となる。窪塚くんが誰かを見つめると、それは実在の恋愛になる。

彼の魅力って一体なんだろう? セクシーにして清純、野島的デカダンスの最高の体現者であることは確かだと思うけど・・・・・ドラマの初回から、彼のことが気になって気になって気になって仕方なかった。

あまりにも気になったので、映画「溺れる魚」を見た。窪塚ブームの走りとなったドラマ「池袋ウエストゲートパーク」の堤幸彦監督による映画である。浅田彰氏は、2月13日付の「i-critique」(iモードサイト内のコラム)の中でこの映画の窪塚くんをこう評している。「ここまでヘナヘナな人間というのは世界的に見て新しいのではないかとすら思わせる、これはやはり監督の腕の差だろう」。

窪塚くんは、確かにヘナヘナだった。女装趣味でマゾの巡査という役柄であるからして、「ストロベリー・オンザ・ショートケーキ」のような正統派の恋愛シーンはない。要するにまったく違うキャラクター。だけど、スクリーンの中の窪塚くんは、やっぱり実在の人間なのだった。

「・・・・・この映画が繰り広げる、徹底して深みを欠いた混沌は、これこそ現代の日本そのものなのかもしれないと思わせる」と浅田彰氏は書いているが、窪塚くんの存在こそ、現代の日本なのだと思った。今っぽい気分を象徴する無数のアイテムや、超いい加減なセリフに満ちたはちゃめちゃな映画。その中心に窪塚くんがヘナヘナと立っている。ヘナヘナとは、言い換えれば、男女を超え、主義を超え、現実とフィクションを超え、その場の役になり切るしなやかさ。現代を生き抜くために必須の武器だろう。

ずっとこのままでいるのは、さすがにマズイのかもしれないけど、少なくとも今はこれしかないだろうっていう、そんな感じ。とりあえず、窪塚くんの時代なのだ。

*ロードショー上映中
2002-02-14

『バトル・ロワイアル』 高見広春 / 大田出版

誰かを愛することは、別の誰かを愛さないってこと。


先週、私が分身のように可愛がっていたマッキントッシュ パワーブックが盗まれた。大打撃なんてもんじゃない。日本の安全神話は崩れている―そんな言い古されたような言葉が、初めて実感を伴った。悔しいし、悲しいし、恐ろしいし、仕事になんないし、だけど、そんな状況に負けたくない…という気持ちが入り混じっている。「バトル・ロワイアル」にふさわしい戦闘的な気分である、といえるかもしれない。ほとんど投げやりですが。

(というわけで、インターネット書評コンテストでいただいたピカピカのWindowsが、いきなりメインマシンになった。使いやすくて快適! 不幸中の大幸い! なんてありがたいんだろう)

映画が「描写」なら、この原作は「解説」だ。殺し合いゲームに参加させられる生徒一人ひとりの足取りと葛藤、生まれ落ちた環境や家族、恋愛といった背景を詳細にたどってくれる。人物の内面に自在に入り込み、死ぬ間際の心境まで説明してくれたりもする。視点がばらばらという意味では散漫だし、かなりの長さでもあるが、「書きたいことを制約なく書いた」という作者の満足感のようなものが伝わってきて爽快だ。

たとえば、徹底的な特殊教育により、世界中のありとあらゆることを知っている桐山という生徒がいるのだが、そんな彼も、自分の奇妙な感覚の原因だけは知らなかったと説明される。母親の胎内にいたときの事故により、微細な神経細胞が破壊されたのだ。そういうこの世の「誰も知らない事実」が神の視点から語られる。

「ピーナッツのように左右半分ずつが上下にずれた顔。そしてその死体は、ほんのすぐそこに転がっている。ごらんください、世にも不思議なピーナッツ男です―」
「美少女二人が見つめ合ってるわけだ。アクセサリに、目をつぶされた男の死体。あらまあ、なんて美しいの」
「頭の右上から、何か、細長くデフォルメしたカエデの葉のような形の、赤いしぶきが、伸びていた」
「うわあ、それ、すごくいい方法じゃん!俺、これがパソコンゲームか何かだったら、絶対そうしちゃうな」

作者は明らかに、ふざけている。だが、このデフォルメしたゲーム感覚のノリこそが、現代のリアルなんだと思う。真剣勝負の時に限って、くだらないジョークを思いついてしまったり、悲劇的な状況の中ですら、それをネタにして友達を笑わせようと考えていたり…これが私たちの、どうしようもない日常であり、傷つかずに生きるためのしたたかな処方箋なのだから。

生徒の一人は「誰かを愛するっていうのは、別の誰かを愛さないっていうことだ」なんてセリフを吐く。この小説のテーマはここに尽きるだろう。私たちは、何かを選びとらなければならないのだ。まったく、勉強になるぜ。

私自身、嫌な事件があったおかげで、自分にとって大切なものは何か、最後に選びとるべきものは何か、ということが以前よりもクリアになってきた。少なくとも、モノやお金じゃないってことは確かだ。
2001-02-04