『インターネットは儲からない!』 橘川幸夫 / 日経BP社

①儲かることは悪なのか。


「僕は自分のネタや企画を他人が使うことに無頓着である」
「自分の文章は読者に『使ってもらう言葉』という意識で書いてきた」
「現場で、いろんな人と企んだり交流できた方が儲からなくても楽しいと思う」

ネタや企画や文章は、もともと権利が発生しにくく、勝手に使われがちなものだ。儲かればそれに越したことはないが、無料で使われた場合には感謝され、感謝もされない場合にはネタ元であることを自慢したいというのが人情である。 人間関係を何よりも大切に考えているという著者は、こういうことに無頓着などではなく、むしろ意識的なのだろうと思う。

「個人として生きるとは、虚飾のスターになることでも、ふてくされた世捨て人になるのでもない。表と裏のギリギリのところで緊張感のバランスをとることなのだ」という人生哲学にはぐっとくるが、このような葛藤が、異なる人間への苛立ちにつながるようだ。著者は「過去の財産に食わせてもらおうとする根性」や「新しいものを創造するエネルギーを失ったミュージシャンやベンチャー経営者」を批判し、断筆宣言をした筒井康隆に対しては、なぜ自分で出版社をやらなかったのかと嘆く。脱サラ指向の人とは仲良くなりたくないといい、「近代産業社会の最前線にいた人は、その延長戦として、次の時代に向けてのパラダイムシフトを図って欲しい」と諭すのだ。キビしい!

これからの社会で必要なのは、即座に決断できる人材のみだという。「メールなどは、届いた時に返事をするのが理想」「時間をかけて書きしたため、時間をかけて配送し、時間をかけて読みなおす種類のものとは異質」とあるが、メールに時間をかけてしまう自分としては、ギクッ!である。私は文章を書くことが仕事なので、簡単に書けるふりをすることも多いけど、実際は馬鹿みたいにじっくり考えてしまうし、送るタイミングにも悩んでしまう。携帯メールだって同じだ。

著者はまた、広告代理店のマージンビジネスを批判し、制作料の高さが表現の熱意をすり替えることを危惧する。私は主に広告業界で仕事をしているが、制作費の余裕は熱意を奪うどころか、いいスタッフを集め、妥協しない仕事ができる点からも質の高さを生んでいる。むしろ、ギャラの低さがモラルを低下させることのほうが多いと感じる。

ネット上の表現の多くは、表現者が身銭を切ったものであり、原稿料なんて誰もアテにしていないと著者はいう。有名な作家がお金のために書いた原稿よりも、普通の高校生の日記に込められた想いこそがインターネット表現の本質であると。だが、インターネットだから純粋といえるだろうか。ネット上には、売名行為や他者誹謗や邪心も満ちている。有名な作家がお金のためでなく書いたり、普通の高校生がお金のために書いたりしているから面白い。

次世代ビジネスの鍵は、参加型社会のサポートであるというのが本書の主旨。代理店や大家的ビジネスとの違いは、動機が腐っていないということなのだろう。ちなみにレビュージャパンは「オンラインビジネスを行う企業のサポートシステム」であり、「書評から本の購読に結び付いたものはアフェリエイトで報酬をもらえるシステム」だそう。文学賞の選考方法については、一次選考通過作品をすべて出版するシステムを提案しているが、大衆に選考をゆだね「売れたものが良質」という判定をくだすことは、逆に、地味で良質な文学を駆逐することになるのではないだろうか。良質な文学を発掘し、なんとか売っていきたいというサポートの意味合いが残っているのが文学賞だと思う。

(つづく)
2001-06-25

『インターネットは儲からない!』 橘川幸夫 / 日経BP社

②使わないという選択肢。(つづき)


インターネットは「すごく便利」だと思うが「すごくいい」と思ったことは、まだない。すごくいいものは現実の世界にある。私たちは、携帯やパソコンなしで十分に楽しく生きていけるのだ。私はインターネットのおかげで本屋に行く回数が減り、ある友達とは会わなくなった。これは便利だが豊かだろうか。NTTの知人は大量に届く社内メールを通勤電車内で閲覧せねばならず、本が全く読めなくなったという。(本書を見せたら「買う!」とメモしていたけど読む時間があるのかな?)

この本は理想論だと思う。参加型社会とそれをサポートする企業。いい面に光をあてたインターネット社会とは、確かにこのようなものかもしれない。著者はロッキングオンにライターの連絡先を公開するような仕組みをつくり、最初の単行本から自分の連絡先を入れているという。70年代から既に同じことをやっていたのだ。地位や名声やお金がモチベーションの人はころころ変わるが、著者のモチベーションは「好きだから」なのだろう。愛の人はずっと愛なのだ。

だが、現状のインターネットは、個人の無限の自由というイメージとは程遠く、私たちは画一化されている。皆、同じような姿勢で、同じようなパソコンに向かい、同じようなOSを使い、同じようなプロバイダーを通してつながっている。携帯メールだって、決められた記号を使った8文字詰めの短文。頻繁にやりとりしてるのに彼の気持ちがわからないと友人がいう。当たり前だ。私も友人からのメールをジャンクメールと間違えて消しそうになった。外を歩けば、携帯の画面をみんなが見ている。私も見ている。ジャンクメールの受信にまで課金されているそうで、気がつけばドコモに毎月2万円以上も支払っている。小学校からパソコン教育がおこなわれ、同じような顔の子がふえている。既得権ビジネスは衰退した分野もあるが、新しく誕生した分野も多く、結局のところ、私たちはガチガチに取り込まれている。そんな中から抜け出したいという苛立ちが、暴力に結びつかないと言い切れるだろうか。

著者はいう。「研ぎ澄まされた孤高の表現よりも、とりとめのない雑談が好きだ。射貫くような理念の視線よりも、のんびりと柔らかい笑顔が好きだ。顔が見えて体温を感じられる範囲での関係を大事にしていきたい。僕のイメージする『参加型社会』というのは、そうしたミニコミ的な世界がミルクレープのように重なってできる世界である」。 私はどうだろう? とりとめのない雑談は大好きだし、体温を感じられる範囲での関係を大事にしたいと強く思う。だけど「研ぎ澄まされた孤高の表現」や「射貫くような理念の視線」も雑談や笑顔以上に愛している。「参加」という言葉に、つい拒否反応を示してしまうのは、世の中が一律になってほしくないから。インターネットという道具の使い方に関しては、使わないという選択肢も含めて自由でありたい。

1954年より、映画というジャンルを超越した独自の作品を孤高に撮り続けている「世界一ポップなアンチテーゼおやじ」ジャン=リュック・ゴダールは、今年のカンヌ映画祭でこんなことを言ったそう。
「インターネット文明なんて、全く信じていないし、僕には分からない。Eメールって、なんなのかも知らない。そんなのがどうして必要なのだろう? 暴力があふれている現代、僕は自分の映画『エロージュ・ドゥ・ラムール』の中で、こういう時代はなにかを外に向かって探しにいくより、自分の内面に問いかける方が重要なのだということを訴えたかった」
(FIGARO japan 7/5号より)


*著者からメッセージをいただきました。THANK YOU!
2001-06-25

『クレーヴの奥方』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

不倫とは、罪悪感のこと。


成人男女の約半数が「不倫を許容している」と元旦付けの朝日新聞が発表したのは98年のこと。今は一体どうなっているんだろう? お正月の紙面をにぎわすポピュラー感と「不倫」という言葉の間には、深い深い溝があるように感じたものだが、この映画を見て、今さらのように私は膝をたたいた。クレーヴの奥方のような生き方を不倫というのだ、と。私たちの周囲に満ちあふれている不倫は、その内容がいかにヘビーであろうとも、「遊び」とか「浮気」とか「本気」とか「家庭外恋愛」とか「たまたま結婚してるだけ」とか・・・とにかくそういう軽い感じの言葉が似合う。

17世紀のフランス文学を映画化した作品だが、宮廷世界を現代の上流階級に置きかえたところが面白い。オリヴェイラ監督は92歳にして挑戦的。 単なる古典的な映画ではないのだ。

キアラ・マストロヤンニ(カトリーヌ・ドヌーヴとマルチェッロ・マストロヤンニの娘)演じる「クレーヴの奥方」が恋する相手はロック・スター(ペドロ・アブルニョーザというポルトガルの現役ロック・アーティスト)。 二人が惹かれ合っているのは明らかだが、彼女は彼を避け続ける。 「人気スターならもうちょっとましなアプローチの方法があるんじゃないの?少なくともサングラスは外さなくちゃ。ちょっと笑わせてみせるとかさー」。 そんな客席の感慨をよそに、彼女の美しい表情はくずされぬまま、指一本ふれない恋愛が展開されていく。しかし、このもどかしさこそが重要で、ああ、これがまさしく不倫なのだと私は理解した。何もしていないのに罪悪感にさいなまれるほど、情熱を燃やすってこと。心の中であっさり許容、妥協してしまうような行為は、不倫とはいえないのかもしれない。

こんな思いを妻に打ち明けられたクレーヴ氏は病んでしまい、「そこら辺の男みたいに、だまされていたかった」みたいなことまで言う。それはそうだろう。行動的には彼女は潔白であり、「あなたよりも好きな人がいるけど何もしてない」と正直に告げただけなのだから、だまって浮気しちゃう女よりも、ある意味で残酷。夫は立派すぎる妻に苦悩するのだ。さらに、当のロック歌手や元恋人まで苦しめてしまうのだから、クレーヴの奥方は罪な女だ。

しかし、たとえ何人の男を犠牲にしようとも、二人の間に障害がなくなろうとも、過激なまでに自分の道を貫く彼女。傷ついたり、情熱的な愛が失われてしまうのを恐れているのである。もしも私が彼女の友達だったら、「好きになった人を追いかけないでどうすんのよ?」と肩を揺さぶっちゃうところだが、幸いなことに、彼女が唯一心を打ち明ける幼友達は、温厚な修道女。最初から火に油を注ぐような悪友はいないのである。

偶然が多く、死が多く、設定は不自然だし、ロック・スターもちょっと変。なのに、ため息が出るほど洗練された作品だ。ライブ・シーンを見て、ジョナサン・デミがトーキング・ヘッズを撮った「ストップ・メイキング・センス」を思い出した。あの映画のすごさは、ステージのすべてを撮り、それ以外を撮らなかったことにあると思うが、「クレーヴの奥方」は、主役ではない彼のステージで始まり、彼のステージで終わる。余計な説明や後日談がないところが、かっこいい。

ストーリーや時間の経過は字幕で流し、必要なシーンだけをていねいに描いていく手法。 印象的なカメラワーク、緩急のリズム感、軽快さと重厚さの絶妙なバランスが心地よく、熟成したビンテージ ポートワインのように味わった。

*1999年 ポルトガル=フランス=スペイン合作/銀座テアトルシネマで上映中
2001-06-19

『電車で殴り殺されないために』 花村萬月・大和田伸也・鬼澤慶一 / 「文芸春秋」7月号

戦闘教育が、必要なの?


理不尽な事件が多く、暗澹たる気分の時に「文芸春秋」のこんな見出しが目にとびこんだ。 「電車で殴り殺されないために ― 奴らの『狂気』は体験した者でないとわからない」。 理不尽な暴力の体験者である三人、花村萬月、大和田伸也、鬼澤慶一の対談である。

芸能レポーターの鬼澤氏は、昨年夏、電車の中で若者2人に「お願いをした」ところ壮絶な暴力行為を受け、今も右手中指の機能が失われ、体のあちこちが痛むという。俳優の大和田氏も若者に殴られた経験があり、水戸黄門の印籠を出すこともできずに血を流す。作家の花村氏は「被害者というより実は加害者」だったという話。何に腹がたち、どちらが先に手を出すかといった問題はきわめて微妙で、誰もが被害者にも加害者にもなりうるのだという事実を示唆する興味深い発言だ。 考え方、感じ方の尺度が異なる二人が接触し、火花が散ったなら、どちらに落ち度があるかなんて、もはや誰にも判断できないほど価値観は多様化しているのかもしれない。少なくとも、加害者を一方的に責めるのはナンセンスで、身を守ることが先決という段階に私たちは直面していると思う。

私は、夜道でいきなり男に飛びかかられ、唇を奪われたことがある。叫んだ瞬間に男は逃げたものの、後ろからタッタッタッと足音が次第に早くなり、ふりむきざまに襲われた恐怖は数年たった今も忘れない。 殺される、と思ったのだ。しばらくは、自分の背後を誰かが横切るだけで叫びそうになったし、今も足音が近づけば昼間でも心臓が音をたてる。 私に落ち度はなかったか? 服装は真冬の完全防寒体制だったし、比較的明るい道をわざわざ選んでもいた。 だが、一人で夜道を歩いていたこと自体が落ち度かもしれないし、足音が近づいた時点で即座に逃げるべきだったのかもしれない。 そもそも、そこに住んでいたことが間違いだったのかも。

この対談では、「成功したおやじ」からみた「何ももたない若者」、つまり世代間のギャップに着目しており、花村萬月氏は最後にこう結ぶ。 「これからは自分の身を守るためには、相手が銃を持っていると仮定しちゃった方が早いんじゃないか。いまの日本は共通言語をもたぬ世代間の内戦状態なんですから」。 三人は、ちやほやされているばかりで強制的な枠組みをもたない世代を憂い、彼らを軍隊のような「システム」に強制的に参加させてはどうかなどと提案している。

1968年に制作され、今年1月に日本初公開された「北緯17度」(ヨリス・イヴェンス監督・フランス映画)というドキュメンタリー映画がある。戦時下の北ヴェトナムの生活を記録したフィルムだが、ここに描かれている死と隣あわせの人々の生き生きとした暮らしぶりは驚異的。おそらく、闘うべき相手ややるべきことが明確だからだろう。今の私たちを取り巻く状況とは対照的だ。戦闘教育を受けた幼い子供たちは、小さな体で誰を守り、どこで誰と闘えばいいのかがわかっており、緊急時の祖母の助け方や武器の扱い方を饒舌に語る。 そこには何の迷いもなく甘えもない。 実際は、迷ったり甘えたりする余裕がないだけなのだろうが、そんな子供たちの姿は、痛ましいというよりは頼もしく見えた。

現代の日本において、何の前触れもなく、理不尽な暴力を目のあたりにした子供たちの未来はどうだろう。体験したことのない大人には、彼らの心を理解することなどできるはずがない。彼らは、実に大きなものを「学んでしまった」のだ。ならば、力強い未来を祈りたい。電車で殴り殺されないために、これからどうしたらいいのかは、より危機に直面しつつある子供たちのほうが、はるかによくわかるはずなのだ。
2001-06-12