『フローズン・フィルム・フレームズ―静止した映画』 ジョナス・メカス(著)木下哲夫(訳) / 河出書房新社

800万枚の写真を撮った男。


ジョナス・メカス。リトアニア生まれの詩人。強制収容所、難民収容所を経て1949年ニューヨークに亡命。リトアニア語の詩を読める人がいないため中古の16ミリカメラで日記のような映画を撮り始め、アンディ・ウォーホール、ジョン・レノン、ロバート・フランク、ジョン・カサヴェテスらと交流。本書の対談では「生まれた土地にそのまま生きているだけでは、人はただの植物に過ぎません」なんてことも言っている。

最新作「歩みつつ垣間見た美しい時の数々」(2000年)を見た。彼自身の過去のフィルムから家族の風景を編集し直した作品で、12章から成る288分という長さからしてハリウッド的な商業映画の規範を逸脱している。コマ刻みで短く何度もシャッターを押す撮影手法のせいで、彼の映画は写真の印象に近い。ぶれ、ピンぼけ、ハレーション、多重露光、フィルムの損傷などが叙情的な効果として楽しめる。

本人と妻、2人の子供、猫たちが織り成す生活の断片が次々と現れるが、時間軸はばらばら。ニューヨークの四季、赤ん坊が初めて歩く瞬間、出産する妻の美しさなどの幸せな情景に、ピアノ演奏や、生の音や、編集作業の状況を語る本人のナレーションが重なる。彼は今、かつて気まぐれに撮影した「美しい時の数々」を、さらに気まぐれにつなぎ直しているところなのだ。

「幸福は美なり」「人生は続く」「この映画では何も起こらない」「これは政治的な映画である」などの文字が繰り返し登場するこの映画は、無自覚な幸せの垂れ流しではない。撮影当時の彼の心境を、本書の日記から推察することができる。

1971年4月8日
「自己防衛の手だてにわたしは映画を撮っている。わたしの日記は、ある側面を強調し、ある側面を見せずにおくことによって『都市』、『土地』を正す試みと見てもらってもよい。だから身のまわりのささいなことがらに目を向け、それを愛でようとわたしはくりかえすのだ」

1976年9月16日
「三十年も旅をしたあとで難民が、亡命者がなおどんな思いを抱いているかきみたちは知りたいか。ほんとうに知りたいか。それなら教えよう、聞くがいい。きみたちが憎い!きみたち大国が憎い!(中略)獣同然の暮らしにきみたちが追いやった人びとが絶望に駆られきみたちの飛行機を乗っ取り、爆弾できみたちを不具にし、きみたちが犯罪と呼び、無分別と呼ぶ行為を犯したからといって、かれらを責めるな。かれらにそれ以外の道をとることを許さなかったのは、きみたち自身なのだから。大国諸君よ。わたしたちはふるさとに帰りたい」

映画の中で幸せの象徴として描かれるセントラルパークの春の輝きを見るとき、私たちは、そこに映っていない事象について思いを馳せてみるべきなのだろう。「美しい時の数々」を彼がここまで鮮やかに切り取ることのできた理由について。

本書には、コマ撮りを生かした「フローズン・フィルム・フレームズ」(映画の中の連続した2,3コマを印画紙に焼き付けた作品)12点も収録されている。「写真のような映画」が「静止した映画」に行き着いたのは当然のことかもしれない。
ジョナス・メカスは言う。「私が撮った映画の一コマ一コマを写真作品として換算すると、この三十年間に私は八百万枚以上の写真を撮ったことになるのです(笑)」

*「歩みつつ垣間見た美しい時の数々」3月9日まで東京・御茶ノ水(アテネ・フランセ文化センター)で上映中
*「ジョナス・メカス展―版画と写真」3月16日まで東京・青山(ギャラリー・ときの忘れもの)で開催中
2002-03-08

『タフ&クール - Tokyo midnightレストランを創った男』 長谷川耕造(著)鹿島茂(プロデュース) / 日経BP社

「権八」で神戸牛を食べたブッシュ大統領。




「ディナーレストランが売っているのは空気です。それは一番危ない商売です。この中にどれだけ競争力をつけるかというと、同業者が来たときに戦意を喪失させるものがたくさんなければならない。すぐにパクられてしまうようではだめです」
長谷川耕造氏率いる「グローバルダイニング」が運営するのは、モンスーンカフェ、ラ・ボエム、ゼスト、タブローズ、ステラート、権八など30店舗以上。私が知る限りでは、これらの店は簡単にパクれるような代物ではない。西麻布の交差点に昨年オープンした蔵屋敷風の居酒屋「権八」の巨大な外観には驚きがあるし、スタッフの愛想のよさや料理の味を含めたお得感は他店の追随を許さない。先月18日、ここにブッシュ大統領と小泉首相らが来店して大騒ぎになったが、彼らが選んだのは単なる日本の居酒屋ではなく、アメリカナイズされた「グローバルダイニング」という企業なのだと思う。この会社が他社と一線を画すものは何なのか。本書を読むとわかる。

人気ドラマ「恋ノチカラ」は、恵比寿の「ゼスト」(の中にあることになっているデザイン事務所)が舞台だ。この店のインパクトも絶大で、本書によると「小物を含めたインテリアはすべて、テキサス郊外の荒野の真っ只中にある業者から、私が買ってきたものです。本物の一等品です。外装のさびた鉄板も全米中からインターネットで集めたんです」とのこと。やはり、目立ち方のスケールが違うのだ。うちの近所にも「ゼスト」があるが、店の前には明け方まで派手なアメ車が並び、夜型生活の私を妙にほっとさせてくれる。

暴力中学生が、死ぬほど嫌いな受験勉強を経て湘南高校に入り、早稲田大学を中退してヨーロッパを放浪し、起業し、上場企業となり、今も夢の途中という物語。失敗談や下ネタまでざっくばらんに語られるのは、この本をプロデュースした鹿島茂氏が高校時代の親友だから。肉体派の長谷川氏と知性派の鹿島氏の掛け合いは、金城一紀氏の小説「GO」にも似て面白い。熱愛で結ばれた前妻(スウェーデン美人!)、3人の娘と今の妻(アメリカ美人!)、旅仲間たち(ヒッピー!)など、お宝アルバム写真も満載だ。

鹿島氏は、仕事には以下の4つのパターンがあると分析する。
1 やりたいことをやって、お金を儲ける。
2 やりたいことをやるが、お金は儲からない。
3 やりたくないことをやるが、お金は儲かる。
4 やりたくないことをやって、お金も儲からない。
多くの人は1を理想としながら、現実には2か3かの選択を強いられ、結果的にどちらも4に移行しがち。だが、長谷川氏にはもともと1か2の選択肢しかなく、社員にも「会社に魂を売り渡さずに、やりたいことをやって金を儲けろ」と言うのである。反逆児を採用し、大リーグのような組織をつくり、年収2000万円の20代店長や時給3500円のアルバイトを抱える会社、それがグローバルダイニングだ。サービスのツボを心得たウエイターを愛し始めた客が「お代わりはいかがですか」と勧められれば、ノーとは絶対言えなくなる。

でも、と私は思う。優秀な人間が残るためのインセンティブ・システムをつくったところで、収入が増えれば増えるほど独立したくなるのが人情では? 自営業的な視点を獲得するほど「自分の店」を創りたくなるのでは? ただ、長谷川氏のような強烈なキャラには「この野郎!」(最も優秀な役員の肉声)と悪態をつきながらも、ついてくる人間が多いのは確かだろう。

長谷川氏の周りには、こうして次から次へとドラマが起こる。
こういう人間でなければ、夢を売るドラマチックなレストランなんて、創れないのだ。
2002-03-06

『ピアニスト』 ミヒャエル・ハネケ(監督) /

束縛はつらく、自由は痛い。


幼稚園から高校3年まで、クラシック・ピアノを習っていた。熱心な生徒ではなかった。「今日はレッスンなのに、ぜんぜん練習してない!どうしよう?」とあせる夢を今も見る。

大学では社会学を専攻し、マックス・ウェーバーのゼミをとった。熱心な学生ではなかった。が、西欧近代社会における音楽の合理化過程に着目した「音楽社会学」は眼からウロコ。美しいハーモニーをつくる純正律の代わりに、オクターブを12の音に均等に分けた平均律が選ばれた西欧では、精密な楽譜が発達し、作曲家と演奏家が分離し、調律を固定した鍵盤楽器が発展した。つまり、鍵盤楽器が奏でるのは、呪術性や神秘性が取り除かれた合理的な音楽なのだ。そんなこと、ピアノを習っていても知らなかった。

先生の選んだ曲を、楽譜に忠実に弾かなければならないという私のオブセッションは、この映画のモチーフである不自由さや束縛の象徴としてのピアノに通じる。私が今幸せなのは、ピアノを弾かなくていい生活をしているからかもしれません。

主役の中年女性エリカ(イザベル・ユペール )は、子供の頃から遊ぶことも許されず、徹底的な教育を受けたもののピアニストになれず、ウィーン国立音楽院でピアノ教授をしている。学生ワルター(ブノワ・マジメル)が、そんな彼女に恋をする。

途中までは、クラシカルな恋愛映画のよう。だが、エリカの「知られざる一面」が亀裂のように画面に侵入するにしたがい、映画自体の形式も壊れていく。このスリリングな同期性がすばらしい。映画は次第にピアノから離れ、平均律の呪縛から解き放たれたかのようなラストシーンは、無音だ。

アダルトショップ通い、のぞき行為、バスルームでの自傷行為など、歪んだセクシャリズムをほしいままにするエリカのプライベートタイム。未熟な嫉妬心、アブノーマルな要求など、恋愛においてもその異常性は遺憾なく発揮される。それらはあまりにも不器用で、目も当てられないほど。ただし、最後までエリカは美しい。長まわしに耐えうる驚異的な無表情が、観客を釘づけにする。

彼女の悲劇の原点は母親である。寂しさや嫉妬が入り組んだ老女の母性に、エリカはがんじがらめ。この母を監禁し、エリカから分離させたワルターは偉い。そう、この映画で、ただ一人健全な人間として描かれるワルターは、エリカのはちゃめちゃな性的願望に困惑しながらも、逃げることなく正面から彼女にぶつかっていくのだ。乱暴な初体験の後、「愛に傷ついても死ぬことはない」と言い残すワルター。自由とは、ときには死ぬ思いをしながら生きていかなくちゃならないってことなのだ。こんな残酷な真理を中年になってから学ぶなんて、エリカ、痛すぎ。だけど、この事件は、彼が言うように「お互いのせい」なのである。つまり、2人の間には恋愛コミニュケーショーンが成立しているってこと。ワルター、正しすぎ。

恋愛は、ちょっと間違えれば相手をこわしてしまう。そして、その力関係は、いつ逆転するかわからない。この映画もそうだ。この先、簡単じゃないだろうなってことは想像できるけれど、エリカは、とりあえず自由になったのだ。ピアノなんて、どうでもよくなっちゃったわけなのです。

監督は言う。「映画は気晴らしのための娯楽だと定義するつもりなら、私の映画は無意味です。私の映画は気晴らしも娯楽も与えませんから。もし娯楽映画として観るなら後味の悪さをのこすだけです」

*2001年 フランス=オーストリア合作
*カンヌ国際映画祭グランプリ受賞
*東京、神奈川で上映中。3月より札幌、京都、大阪、福岡で上映。
2002-02-28

『おしえてあげる-えっち作家になりたいアナタへ』 内藤みか / パラダイム

女は、飢えを満たすために、仕事する。


「昭和46年生まれ。性別、女。大学在学中に『愛液研究室』でデビュー。以来、一貫して官能小説を書き続けている。現在までに著書が十七冊。新聞、小説雑誌にも多数作品を発表中。インターネット絡みのエッチや、母乳の出るヒロインを描いた作品が得意…」これが著者の自己紹介だ。

子供が保育園に行っている間にエロイ小説を1日20枚から30枚も書き連ね、時たま深夜にホストクラブに遊びに行くこと以外は普通の主婦。周囲に官能作家とバレてしまうと、奥様達との語り合い(貴重な取材)ができなくなるため、メディアには極力顔を出さない。

彼女が量産しているのは、男性向けの官能小説。かなりマニアックな分野だが「父からの"虐待"が、私がこういう職業に就いた遠因ではないかと思っている」とクールに語る。彼女の体験談を読むと「性的虐待を受けた子は、自分がされたことは間違っていなかったのだと思いたいがために、自ら性的な世界に足を踏み入れやすい」との説が真実味を帯びてくる。

「文章を書く仕事は、たとえそれが官能小説を書くことであっても、マイナスの体験を役立てることができる仕事なのだ」と彼女は言い切る。幼い頃から「いやらしい」「醜い」という形容詞を繰り返し父に浴びせられた結果、顔を出さずに済むセックス絡みのバイトをするようになった彼女は、大失恋をきっかけに書いた官能小説が認められてお金になったとき「いいしれない安堵感」を得たという。「"いやらしく"て"醜い"女の生きる道として、これほど格好な仕事はなかったはず」と。

幸せな恋をしている時はネタが浮かばなくて苦労した彼女も、現在は離婚した夫と腐れ縁で再同居しており「精神的に渇望状態にある。そのおかげでいい作品は書けてはいるが、私生活と小説とが同時に満たされるのはムリなのかもしれないな、と最近はあきらめ気味」だそう。「一生、この冷淡な彼と暮らしていき、その不満を小説にぶつけていくのかもしれないな」だって。 主婦の毎日は、苦行にも似たところがあるそうで「私はなるべくその辛さを身体や心に刻むようにしている。どうしてイヤなのか、どうしてこんなに子育てでキレそうになるのか…。自問自答しながら、毎日を過ごしている。それこそが、最高の人生修行でもあり、作家修行のような気がするから」という。

自分や友人を冷静に眺めることで「壊れずに済んでいる」のは、彼女の資質だと思う。だが、冷淡な元夫と再同居し、ネタ元であるとはいえ苦行を淡々と受け入れるスタンスには、どこかマゾ的な匂いを感じる。自らを積極的な渇望状態に置く生き方は、おそらく彼女の幼少時代に由来するのだろう。幼い頃に刻印された記憶を、生涯にわたって引きずるのが人間だ。解決できない悩みは、その人の生き方そのものになる。私は、それを不幸なことだとは思わない。むしろ一生の財産として受け止めたい、とこの本を読んで思った。

ただし、ぼんやりとした日常の飢えだけではプロにはなれない。彼女が抱えているのは、切実な飢えなのだ。離婚したり、主婦業をやめてみたところで解決するものではないと、彼女自身わかっているのだと思う。そう。切実に飢えていないのであれば、現実を何とかすればいい。小説を書く必要なんてない。

デビューのしかた、ペンネームのつけかた、男受けする官能小説のコツ、どのくらい儲かりどんなセクハラを受けるのか、女流官能作家の未来はどうかなど、内容は具体的。えっち作家になりたい人はもちろん、すべての女性にとって、天職に出会うとはどういうことかがわかり、仕事選びの参考になる。

*著者からメッセージをいただきました。Thank you!
2002-02-23

『猛スピードで母は』 長嶋有 / 文芸春秋2002年3月号

かっこいい母の息子はマザコンか?


現在bk1ランキング1位の「世界がもし100人の村だったら」(マガジンハウス)の中に、こんな記述がある。

「もしもあなたが いやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに 信仰や信条、良心に従って なにかをし、ものが言えるなら そうではない48人より恵まれています」

誰かが、ほかの誰かよりも恵まれているなんて、第三者にどうやって決めることができるのだろう?
大雑把なたとえ話を断定形で語るのは、私たちに安っぽい優越感を与えてくれるため?
それとも、読み手にこれ以上考えることを止めさせるため?

「知識の民主化を装った大規模な思考破壊工作」という言葉を私は思い出す。蓮見重彦が以前「ソフィーの世界」(日本放送出版協会)を評し、そう書いていた。


芥川賞受賞作「猛スピードで母は」の主人公「慎」は、第三者にどう思われようが、恵まれている。そのことが主観的に書かれているからだ。母子家庭、いじめ、母の恋愛、失恋、祖母の死、祖父の看病など、ある意味でハードな経験を重ねる慎だが、男勝りでかっこよくて知的な母のもとに生まれたおかげで、ぜんぜん動じないよっていう話。控えめながら圧倒的な優越感に貫かれている。

状況への決定権や選択権のない不安定な小学生時代がナイーブに表現されるが、約20年前を回想するというスタイルだから、痛みは穏やかだし悪人も出てこない。安全圏から過去を反芻する気持ちのいい小説なのだ。どんなできごとも等質であり、水が流れるように淡々と描かれていく。

「母がサッカーゴールの前で両手を広げ立っている様を慎はなぜか想像した。PKの瞬間のゴールキーパーを。PKのルールはもとよりゴールキーパーには圧倒的に不利だ。想像の中の母は、慎がなにかの偶然や不運な事故で窓枠の手すりを滑り落ちてしまったとしても決して悔やむまいとはじめから決めているのだ」

慎の母親自慢は、こんなふうに、子離れできない現代の母親への批判にもなっている。この親子は考え方が似ており、慎自身も、母と母の恋人によって置き去りにされそうになったとき、状況をきちんと受け入れるのだ。ほどよい距離をクールに保つ母と息子の姿は、教育的で示唆に富んでいる。

この小説を村上龍はこう選評していた。
「状況をサバイバルしようと無自覚に努力する母と子を描いた」
「一人で子どもを産み、一人で子どもを育てている多くの女性が、この作品によって勇気を得るだろう」
「社会に必要とされる小説だ」

一方、石原慎太郎の選評は冷たい。
「こんな程度の作品を読んで誰がどう心を動かされるというのだろうか」

積極的に人の心をつかんで揺さぶっちゃうような小説ではなく、必要な人がそこから勝手に学んだり考えたりする、道徳の教科書のような作品なのだと思う。

ただ、いくら距離を保っているとはいえ、小学校高学年の息子が、自分の母親をこんなにも容認し、自慢し、かしずくっていうのはどうよ? マザコン度はかえって高いような気がするのだが。
慎は20年後(つまり現在)、母親の運転手にでもなっていそうで、ちょっとこわい。
2002-02-22

『愛の誕生』 フィリップ・ガレル(監督) /

すごい映画は、さえない男に光をあてる。


この映画でいちばんすごいのは、カメラだ。このカメラマンが撮れば、どんな俳優でも、どんなストーリーでもいいんじゃないの? そんなふうに思ってしまうほどみずみずしいモノクロ映画。見えないほど真っ暗な黒と、まぶしいほど明るい白のコントラスト。「勝手にしやがれ」(1959)以来、ゴダールとトリュフォーの作品に欠かせない存在となったラウル・クタールが撮っている。センス全開!

主役のポールは、監督自身のように見える。家族と愛人の間をさまよい、どちらも思い通りにならず、苛立って妻や息子に怒鳴り散らす情けない男。赤ん坊が生まれても、愛人と寝ていても、居場所が定まらず、誰のことも幸せにできない中途半端な悪循環が、疲れた中年男をさらに疲れさせていく。それは、彼が目の前の状況を愛せないことの不幸だ。愛人にふられ、別の若い女の前で「これまでいろんな女と寝た」とか「はじめて(生理の)血がきれいだと思った」などと、妙にロマンチックな世界に入るポール。寒い!

だからといって、現実に充足しきっている中年というのも、たぶん、ものすごくつまらないはずで、男が美しく歳をとるのは大変だと思う。

「フィリップ・ガレルは息をするように映画をつくる」とゴダールは言ったそうだが、悩める自分を主役に託し、脇役の友人と対比させ、一緒にローマへ旅立つという設定はリリカル。友人を演じるのは「大人は判ってくれない」(1959)以来、ヌーヴェルヴァーグのアイドルとなったジャン=ピエール・レオーで、この映画では50歳近い年齢になっている。理屈っぽく自己中心的なせいで妻に逃げられてしまう作家という、ポールと同じくらい情けない役柄だが、妻に男ができたと知り、一途に嫉妬する姿はそれほど悪くない。さすが、いくつになってもジャン=ピエール・レオーはチャーミング!

土曜日はどうするのと息子にきかれ、わからないと答える水曜日のポール。家族の3日後も決められないそんな彼が、ラストシーンでは未来を語る。私を愛している証拠を見せてと若い女に言われ、子供を産んでもいいよと答えるのだ。が、その言葉はあまりにも軽すぎる。生まれたばかりの赤ん坊がいるくせに、なんということを言うんでしょうこの男は。「キスしてほしいだけなのに」ってあっさり言われてしまうポールは、目の前の状況を愛せと彼女に教えられたのだろう。幸せとは、過去でも未来でもないのだと。

とにかく、ひたすらさえない男の話だけれど、ポールが教会の前で友人を待ったり、海岸で見知らぬ女と会話したり、乳母車を押して街を歩いたり、そのほかにも、パジャマ姿の息子がパパと何度も叫ぶアパートの窓や、唐突にあらわれるイタリア国境の風景が、映画を見終わって時間がたてばたつほどに美しくよみがえり、私を痺れさせる。さえない男のさえない人生の、あちこちが光っていたことに気づくのだ。ストーリーも俳優もあっさり飛び越えてしまうなんて。まったく、映画を撮るってこういうことなの?

*1993年 フランス-スイス合作
*銀座テアトルシネマにて2/15までレイトショー上映中
2002-02-15

『肩ごしの恋人』 唯川 恵 / マガジンハウス

嘘っぽさが今っぽい。


るり子の3回目の結婚式に出席する、親友の萌。
るり子の夫となる男は、萌の元カレである。
萌は、結婚式が終わると、るり子の元カレ(既婚・初対面)とホテルに直行する。

萌とるり子は、こんなふうに平気で男を共有したり略奪しあったりするばかりか、互いにこう考えている。
「るり子が寝た男だと思うと、どこか安心するのだった」(萌)
「親友の恋人、というのはそれだけで十分に盛り上がる恋愛の要素を含んでいたし、何より信用できた」(るり子)

また、結婚に関しては、こう。
「今日から彼らは夫婦だ。これからは世間公認のセックスをするようになるわけだ。それはそれですごく恥ずかしいことだ」(萌)
「結婚式を済ますと、何だかみんなに『今日から大っぴらにセックスします』と宣言したような気分になり、急にしゅるしゅると体中から空気が抜けてぼんやりしてしまう」(るり子)

新宿2丁目を歩く時は、こんな感じ。
「男が自分のタイプだったりすると、ちょっと残念に思う。ああ、もったいない、女も悪くないのに」(萌)
「ここにいる男たちは、本当に、女の子よりも男が好きなんだろうか。それを思うと、もったいなくてため息が出てしまいそうだ」(るり子)

「肩ごしの恋人」は、双子のような萌とるり子の視点から交互に描かれる小説だが、驚くべきことに、2人は対照的なキャラということになっている。
「るり子はいつまでたってもわがままで傲慢で自惚れの固まりみたいな女だ」(萌)
「萌はいつだって律儀だ。小さい時からるり子と違って、自分の在り方にちゃんとルールを持とうとしている」(るり子)

しかし、いかに説明されようが、客観的に見れば「似たもの同士やん!」と突っ込みたくなる2人であることは間違いない。2人ともトウがたっていて、説教くさくて、世の中こんなもんだという諦めに似たステレオタイプな考え方をする。ストーリーは軽く、リアリティよりもネタ重視。どこかで聞いたことのあるような予定調和的なエピソードのサンプリングが延々と続く。

以上のようなことを差し引くと、この小説には何が残るのか? 最後まで楽しく読めた理由は、軽さとリアリティのなさが「今っぽい」と思えたから。自分の人生を、希薄なネタとしてドラマのように演じたり語ったりする彼女たちの姿は、どこか身近なものとして感じられる。実際、私自身が「信じられない!」と叫びたくなるようなリアリティのない行動をとる人間は、仲間うちにも、たくさんいるわけで。

そう、「仲間うち」というのがポイントだ。「私」と「リアリティのない人」の差は、決して大きなものではない。だって、それは「仲間うち」の話なのだから。萌とるり子みたいに、同じ穴のムジナであるに決まっている。そんなことを思い知らされるコワイ小説だ。

萌もるり子も、とっかえひっかえ男と寝る自由な女みたいに見えるけれど、ベースには漠然とした被害者意識がある。彼女たちは、相手との関係を深めるのがこわいのだ。男が好きなのに、つきあう目的は自分のプライドを満たすことでしかないから、結局は相手を遠ざけてしまう。まるで憂さ晴らしのような恋愛。

一方、男たちは、優柔不断で流されやすくて屈託がない。汚れないし傷つかないし悩まない。そんな彼らを、彼女たちは距離を置きながら肯定している。近づきながら否定するのでは決してなく、男を深く理解しようなんてヤボなこと、最初から考えないのだ。そんなことを始めたら、傷ついてしまうに決まっているから。

男に関しては手つかずの、少女小説なのだと思う。
2002-04-13