『家路』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

ある日、視線は逆転する。


1908年ポルトガル生まれ。10代の頃から陸上選手やレーシングカー・ドライバーとして活躍するかたわら映画に取り組むが、資金不足や興業の失敗で何度も映画界を離れる。80代で撮った「アブラハム渓谷」(1993)が世界的に絶賛され、現在も2台のポルシェを猛スピードで操りながら、毎年、新作を撮り続ける恐るべき90代。

監督のこんな経歴を知ってしまうと、予告編では「老いというテーマを扱ったほのぼの映画」と感じられなくもなかったこの作品に関しても「そんなはずはないだろう!」と勘ぐってしまう。

視線がものをいう映画だ。カメラの設置ポイントに、いちいちこだわりがある。主役の老俳優ヴァランス(ミシェル・ピコリ)の心情を表現するのは、彼自身の顔や声だけではない。彼の履いている「靴」や、彼が見ている「街」や、彼を見ている「相手の表情」や、ウインドウ越しの「聞こえない会話」など、どこか一部分が削ぎ落とされた映像が圧倒的な効果をあげる。

ヴァランスは、妻と娘夫婦を事故で失うが、彼も、彼の孫も、周囲の人々も悲しんだりしない。というか、この映画は、誰かが大袈裟に悲しがるようなシーンを映したりしないのだ。回想シーンもないし、ヴァランスが毎朝眺めている(ように見える)家族の写真すら画面には映らない。本当の悲しみは表面に見えるものではないという当たり前のことが描写されるのみ。洗練されている。

テーマは「老い」でもなく「家族」でもなく「家路」だ。仕事と家の間にある家路は「街」と言い換えてもいい。俳優とは、いつまでも若々しくいられる仕事であり、そのことは、光り輝くパリの街を散歩するヴァランスの日常から推察できる。通俗的なテレビ映画への出演は断るなど仕事にポリシーをもっているからこそ、プライベートでは役を離れて自分らしく過ごせるのだ。 街でお洒落な靴を選び、ファンにサインを求められ、孫と一緒に遊び、若い共演女優に惚れられる。強盗に身ぐるみ剥がされた時ですら、惨めなのはどちらかというと強盗のほう。このとき、視線の主体はあくまでもヴァランスにあり、強盗は弱者なのだ。

彼の視線は、アメリカの監督(ジョン・マルコヴィッチ)の依頼による不本意な代役を引き受けてしまうことから、次第に輝きを失っていく。英語の作品である上に十分な稽古の時間がとれないため、彼はセリフを覚えられず、スランプに陥るのだ。与えられたのは年齢よりも若い役だが、メイクやカツラで若づくりをするほどに老け込んでいく鏡の前のシーンは凄まじい。それは、この役が彼に向いていないことの赤裸々な証しなのだ。

この映画のメッセージは、好きな仕事をやれってこと。 縁のない仕事、相性の悪い仕事はやらないほうがいい。そうすれば、いつまでも楽しく生きていけるだろう。だが、ちょっと油断すると、そうはいかなくなる。若者でも老人でも同じことだ。

ヴァランスは家へ帰る。彼には周囲を見る余裕がなくなり、彼をとりまく周囲の視線が主体となる。つまり視点が逆転するのだ。 彼が日々、温かい視線を注いできたパリの街や、一緒に街歩きを楽しんできた観客の私たちが、元気のなくなった彼を不安げに見守ってしまう。

視線というのは、それだけであたたかい。そう思えることがある。最後の最後に、この映画の主役は、本当にすりかわる。自分がつらいとき、誰かがこんなふうに心配しながらも頼もしい視線で包んでくれたらいいな。そんな視線に素直に甘えることができたら、幸せだと思う。

*2001年ポルトガル=フランス合作
*北海道、東京で上映中。大阪で近日上映。
2002-03-19

『匂いのエロティシズム』 鈴木隆 / 集英社新書

文学は、におう。


フランスのパティシエ「ピエール・エルメ」のケーキを初めて食べた感動は忘れられない。美味しい洋菓子の味と言ってしまえばそれまでだが、眠っている脳細胞をくすぐり、遠い記憶を呼び覚ますような「深い味」がした。

私はまだ、衝撃を受けるほど「深い匂い」には出会っていない。パフューマ-(調香師)である著者の「異性のにおい」体験を読んでそう思った。男子校に通っていた17歳の彼は、友人の家に遊びに行った時、友人の姉、弥生さんの部屋をのぞいてしまう。「若い女のにおいと言ってしまえばそれまでだが」と前置きしながら、彼はその部屋の匂いを描写する。

「シーツの上に投げだされたしなやかな肢体のような掛け布団の姿と肌触りのよさそうなパジャマから漂う肌のようなにおいと、シャンプーの香りなのか化粧品なのか、髪の毛のにおいのようでもあるなんとも女っぽい香りがまざりあった、心地よい、からだから力の抜けていきそうなにおいであった」

彼はその日から弥生さんに恋をするが、面識のない彼女への思いは胸にしまい込むよりほかなかったという。実際に会えたのはずっと後、友人の結婚式に呼ばれた時のこと。初対面の美しい人妻に彼は何を感じたか? これはもう短編小説の世界である。

以前ブームとなった「ブルセラ」についても、匂いのプロによる考察は深い。下着を売る女子高生とそれを買う男たちの間に横たわる「エロスと匂いをめぐる意識のズレ」が暴かれ、身体やセクシュアリティにおける匂いの位置づけの曖昧さが指摘される。匂いそのものが抑圧されてきた近代社会では「『芳香』を例外的にポジティブなものと設定しつつ、それ以外のあらゆるにおいを『悪臭』と一括して排除することで、思考の対象から外してきた」のだ。香料の起源は媚薬であり、媚薬の原型は体臭であるにもかかわらず、体臭を消すことに躍起になり、再び香料を振りかける矛盾に本書は切り込んでいく。

「色即是臭、臭即是色、すなわち、エロスは匂いであり、匂いはエロスである」という当たり前の事実に気づかせてくれるのが「匂いフェチ」「下着フェチ」「ラバリスト」たち。彼らの行為はフェティッシュと匂いが不可分の関係にあることを証明する。

匂いと香りの違いは大きいと私は思う。ワインやアロマテラピーでは、悪臭を含む「匂い」という言葉よりも、芳香のみを意味する「香り」という言葉が好まれる。匂いに執着するのは変態だが、香りに執着するのはお洒落なのだ!あからさまに匂いを嗅ぐことがマナー違反とされる社会において、心ゆくまで香りを堪能できる趣味が隆盛である事実は興味深い。赤ワインの「動物臭」や「なめし皮の香り」に凝り出したら、もはやフェチ以外の何者でもないと思うのだけど。

老人向けの売春宿を舞台にした川端康成の小説「眠れる美女」は、セラーで眠っているワインのように、睡眠薬を飲まされて眠っている若い女を嗅ぎ分ける話だ。本書では、この小説が詳細に読み解かれる。「エロスと匂いについて、ここまで透徹した小説を私は他に知らない」と著者は言うが、エロスと匂いについて、ここまで透徹した分析を私は他に知らない。

著者は、弥生さんの部屋の匂いを今も思い浮かべることができるという。
「そのにおいを嗅ぐことを想像するだけで、なんとも胸のうちがくすぐったくなるような切なさと同時に、今でははっきりとエロティックなものとわかるある種の心地よさを覚える。あのにおいは、そのとき引き起こした私の胸のうちのざわめきの記憶まで含めて、決して消え去ることはないのである」


*著者からメッセージをいただきました。Thank you!
2002-03-13

『フローズン・フィルム・フレームズ―静止した映画』 ジョナス・メカス(著)木下哲夫(訳) / 河出書房新社

800万枚の写真を撮った男。


ジョナス・メカス。リトアニア生まれの詩人。強制収容所、難民収容所を経て1949年ニューヨークに亡命。リトアニア語の詩を読める人がいないため中古の16ミリカメラで日記のような映画を撮り始め、アンディ・ウォーホール、ジョン・レノン、ロバート・フランク、ジョン・カサヴェテスらと交流。本書の対談では「生まれた土地にそのまま生きているだけでは、人はただの植物に過ぎません」なんてことも言っている。

最新作「歩みつつ垣間見た美しい時の数々」(2000年)を見た。彼自身の過去のフィルムから家族の風景を編集し直した作品で、12章から成る288分という長さからしてハリウッド的な商業映画の規範を逸脱している。コマ刻みで短く何度もシャッターを押す撮影手法のせいで、彼の映画は写真の印象に近い。ぶれ、ピンぼけ、ハレーション、多重露光、フィルムの損傷などが叙情的な効果として楽しめる。

本人と妻、2人の子供、猫たちが織り成す生活の断片が次々と現れるが、時間軸はばらばら。ニューヨークの四季、赤ん坊が初めて歩く瞬間、出産する妻の美しさなどの幸せな情景に、ピアノ演奏や、生の音や、編集作業の状況を語る本人のナレーションが重なる。彼は今、かつて気まぐれに撮影した「美しい時の数々」を、さらに気まぐれにつなぎ直しているところなのだ。

「幸福は美なり」「人生は続く」「この映画では何も起こらない」「これは政治的な映画である」などの文字が繰り返し登場するこの映画は、無自覚な幸せの垂れ流しではない。撮影当時の彼の心境を、本書の日記から推察することができる。

1971年4月8日
「自己防衛の手だてにわたしは映画を撮っている。わたしの日記は、ある側面を強調し、ある側面を見せずにおくことによって『都市』、『土地』を正す試みと見てもらってもよい。だから身のまわりのささいなことがらに目を向け、それを愛でようとわたしはくりかえすのだ」

1976年9月16日
「三十年も旅をしたあとで難民が、亡命者がなおどんな思いを抱いているかきみたちは知りたいか。ほんとうに知りたいか。それなら教えよう、聞くがいい。きみたちが憎い!きみたち大国が憎い!(中略)獣同然の暮らしにきみたちが追いやった人びとが絶望に駆られきみたちの飛行機を乗っ取り、爆弾できみたちを不具にし、きみたちが犯罪と呼び、無分別と呼ぶ行為を犯したからといって、かれらを責めるな。かれらにそれ以外の道をとることを許さなかったのは、きみたち自身なのだから。大国諸君よ。わたしたちはふるさとに帰りたい」

映画の中で幸せの象徴として描かれるセントラルパークの春の輝きを見るとき、私たちは、そこに映っていない事象について思いを馳せてみるべきなのだろう。「美しい時の数々」を彼がここまで鮮やかに切り取ることのできた理由について。

本書には、コマ撮りを生かした「フローズン・フィルム・フレームズ」(映画の中の連続した2,3コマを印画紙に焼き付けた作品)12点も収録されている。「写真のような映画」が「静止した映画」に行き着いたのは当然のことかもしれない。
ジョナス・メカスは言う。「私が撮った映画の一コマ一コマを写真作品として換算すると、この三十年間に私は八百万枚以上の写真を撮ったことになるのです(笑)」

*「歩みつつ垣間見た美しい時の数々」3月9日まで東京・御茶ノ水(アテネ・フランセ文化センター)で上映中
*「ジョナス・メカス展―版画と写真」3月16日まで東京・青山(ギャラリー・ときの忘れもの)で開催中
2002-03-08

『タフ&クール - Tokyo midnightレストランを創った男』 長谷川耕造(著)鹿島茂(プロデュース) / 日経BP社

「権八」で神戸牛を食べたブッシュ大統領。




「ディナーレストランが売っているのは空気です。それは一番危ない商売です。この中にどれだけ競争力をつけるかというと、同業者が来たときに戦意を喪失させるものがたくさんなければならない。すぐにパクられてしまうようではだめです」
長谷川耕造氏率いる「グローバルダイニング」が運営するのは、モンスーンカフェ、ラ・ボエム、ゼスト、タブローズ、ステラート、権八など30店舗以上。私が知る限りでは、これらの店は簡単にパクれるような代物ではない。西麻布の交差点に昨年オープンした蔵屋敷風の居酒屋「権八」の巨大な外観には驚きがあるし、スタッフの愛想のよさや料理の味を含めたお得感は他店の追随を許さない。先月18日、ここにブッシュ大統領と小泉首相らが来店して大騒ぎになったが、彼らが選んだのは単なる日本の居酒屋ではなく、アメリカナイズされた「グローバルダイニング」という企業なのだと思う。この会社が他社と一線を画すものは何なのか。本書を読むとわかる。

人気ドラマ「恋ノチカラ」は、恵比寿の「ゼスト」(の中にあることになっているデザイン事務所)が舞台だ。この店のインパクトも絶大で、本書によると「小物を含めたインテリアはすべて、テキサス郊外の荒野の真っ只中にある業者から、私が買ってきたものです。本物の一等品です。外装のさびた鉄板も全米中からインターネットで集めたんです」とのこと。やはり、目立ち方のスケールが違うのだ。うちの近所にも「ゼスト」があるが、店の前には明け方まで派手なアメ車が並び、夜型生活の私を妙にほっとさせてくれる。

暴力中学生が、死ぬほど嫌いな受験勉強を経て湘南高校に入り、早稲田大学を中退してヨーロッパを放浪し、起業し、上場企業となり、今も夢の途中という物語。失敗談や下ネタまでざっくばらんに語られるのは、この本をプロデュースした鹿島茂氏が高校時代の親友だから。肉体派の長谷川氏と知性派の鹿島氏の掛け合いは、金城一紀氏の小説「GO」にも似て面白い。熱愛で結ばれた前妻(スウェーデン美人!)、3人の娘と今の妻(アメリカ美人!)、旅仲間たち(ヒッピー!)など、お宝アルバム写真も満載だ。

鹿島氏は、仕事には以下の4つのパターンがあると分析する。
1 やりたいことをやって、お金を儲ける。
2 やりたいことをやるが、お金は儲からない。
3 やりたくないことをやるが、お金は儲かる。
4 やりたくないことをやって、お金も儲からない。
多くの人は1を理想としながら、現実には2か3かの選択を強いられ、結果的にどちらも4に移行しがち。だが、長谷川氏にはもともと1か2の選択肢しかなく、社員にも「会社に魂を売り渡さずに、やりたいことをやって金を儲けろ」と言うのである。反逆児を採用し、大リーグのような組織をつくり、年収2000万円の20代店長や時給3500円のアルバイトを抱える会社、それがグローバルダイニングだ。サービスのツボを心得たウエイターを愛し始めた客が「お代わりはいかがですか」と勧められれば、ノーとは絶対言えなくなる。

でも、と私は思う。優秀な人間が残るためのインセンティブ・システムをつくったところで、収入が増えれば増えるほど独立したくなるのが人情では? 自営業的な視点を獲得するほど「自分の店」を創りたくなるのでは? ただ、長谷川氏のような強烈なキャラには「この野郎!」(最も優秀な役員の肉声)と悪態をつきながらも、ついてくる人間が多いのは確かだろう。

長谷川氏の周りには、こうして次から次へとドラマが起こる。
こういう人間でなければ、夢を売るドラマチックなレストランなんて、創れないのだ。
2002-03-06

『ピアニスト』 ミヒャエル・ハネケ(監督) /

束縛はつらく、自由は痛い。


幼稚園から高校3年まで、クラシック・ピアノを習っていた。熱心な生徒ではなかった。「今日はレッスンなのに、ぜんぜん練習してない!どうしよう?」とあせる夢を今も見る。

大学では社会学を専攻し、マックス・ウェーバーのゼミをとった。熱心な学生ではなかった。が、西欧近代社会における音楽の合理化過程に着目した「音楽社会学」は眼からウロコ。美しいハーモニーをつくる純正律の代わりに、オクターブを12の音に均等に分けた平均律が選ばれた西欧では、精密な楽譜が発達し、作曲家と演奏家が分離し、調律を固定した鍵盤楽器が発展した。つまり、鍵盤楽器が奏でるのは、呪術性や神秘性が取り除かれた合理的な音楽なのだ。そんなこと、ピアノを習っていても知らなかった。

先生の選んだ曲を、楽譜に忠実に弾かなければならないという私のオブセッションは、この映画のモチーフである不自由さや束縛の象徴としてのピアノに通じる。私が今幸せなのは、ピアノを弾かなくていい生活をしているからかもしれません。

主役の中年女性エリカ(イザベル・ユペール )は、子供の頃から遊ぶことも許されず、徹底的な教育を受けたもののピアニストになれず、ウィーン国立音楽院でピアノ教授をしている。学生ワルター(ブノワ・マジメル)が、そんな彼女に恋をする。

途中までは、クラシカルな恋愛映画のよう。だが、エリカの「知られざる一面」が亀裂のように画面に侵入するにしたがい、映画自体の形式も壊れていく。このスリリングな同期性がすばらしい。映画は次第にピアノから離れ、平均律の呪縛から解き放たれたかのようなラストシーンは、無音だ。

アダルトショップ通い、のぞき行為、バスルームでの自傷行為など、歪んだセクシャリズムをほしいままにするエリカのプライベートタイム。未熟な嫉妬心、アブノーマルな要求など、恋愛においてもその異常性は遺憾なく発揮される。それらはあまりにも不器用で、目も当てられないほど。ただし、最後までエリカは美しい。長まわしに耐えうる驚異的な無表情が、観客を釘づけにする。

彼女の悲劇の原点は母親である。寂しさや嫉妬が入り組んだ老女の母性に、エリカはがんじがらめ。この母を監禁し、エリカから分離させたワルターは偉い。そう、この映画で、ただ一人健全な人間として描かれるワルターは、エリカのはちゃめちゃな性的願望に困惑しながらも、逃げることなく正面から彼女にぶつかっていくのだ。乱暴な初体験の後、「愛に傷ついても死ぬことはない」と言い残すワルター。自由とは、ときには死ぬ思いをしながら生きていかなくちゃならないってことなのだ。こんな残酷な真理を中年になってから学ぶなんて、エリカ、痛すぎ。だけど、この事件は、彼が言うように「お互いのせい」なのである。つまり、2人の間には恋愛コミニュケーショーンが成立しているってこと。ワルター、正しすぎ。

恋愛は、ちょっと間違えれば相手をこわしてしまう。そして、その力関係は、いつ逆転するかわからない。この映画もそうだ。この先、簡単じゃないだろうなってことは想像できるけれど、エリカは、とりあえず自由になったのだ。ピアノなんて、どうでもよくなっちゃったわけなのです。

監督は言う。「映画は気晴らしのための娯楽だと定義するつもりなら、私の映画は無意味です。私の映画は気晴らしも娯楽も与えませんから。もし娯楽映画として観るなら後味の悪さをのこすだけです」

*2001年 フランス=オーストリア合作
*カンヌ国際映画祭グランプリ受賞
*東京、神奈川で上映中。3月より札幌、京都、大阪、福岡で上映。
2002-02-28

『おしえてあげる-えっち作家になりたいアナタへ』 内藤みか / パラダイム

女は、飢えを満たすために、仕事する。


「昭和46年生まれ。性別、女。大学在学中に『愛液研究室』でデビュー。以来、一貫して官能小説を書き続けている。現在までに著書が十七冊。新聞、小説雑誌にも多数作品を発表中。インターネット絡みのエッチや、母乳の出るヒロインを描いた作品が得意…」これが著者の自己紹介だ。

子供が保育園に行っている間にエロイ小説を1日20枚から30枚も書き連ね、時たま深夜にホストクラブに遊びに行くこと以外は普通の主婦。周囲に官能作家とバレてしまうと、奥様達との語り合い(貴重な取材)ができなくなるため、メディアには極力顔を出さない。

彼女が量産しているのは、男性向けの官能小説。かなりマニアックな分野だが「父からの"虐待"が、私がこういう職業に就いた遠因ではないかと思っている」とクールに語る。彼女の体験談を読むと「性的虐待を受けた子は、自分がされたことは間違っていなかったのだと思いたいがために、自ら性的な世界に足を踏み入れやすい」との説が真実味を帯びてくる。

「文章を書く仕事は、たとえそれが官能小説を書くことであっても、マイナスの体験を役立てることができる仕事なのだ」と彼女は言い切る。幼い頃から「いやらしい」「醜い」という形容詞を繰り返し父に浴びせられた結果、顔を出さずに済むセックス絡みのバイトをするようになった彼女は、大失恋をきっかけに書いた官能小説が認められてお金になったとき「いいしれない安堵感」を得たという。「"いやらしく"て"醜い"女の生きる道として、これほど格好な仕事はなかったはず」と。

幸せな恋をしている時はネタが浮かばなくて苦労した彼女も、現在は離婚した夫と腐れ縁で再同居しており「精神的に渇望状態にある。そのおかげでいい作品は書けてはいるが、私生活と小説とが同時に満たされるのはムリなのかもしれないな、と最近はあきらめ気味」だそう。「一生、この冷淡な彼と暮らしていき、その不満を小説にぶつけていくのかもしれないな」だって。 主婦の毎日は、苦行にも似たところがあるそうで「私はなるべくその辛さを身体や心に刻むようにしている。どうしてイヤなのか、どうしてこんなに子育てでキレそうになるのか…。自問自答しながら、毎日を過ごしている。それこそが、最高の人生修行でもあり、作家修行のような気がするから」という。

自分や友人を冷静に眺めることで「壊れずに済んでいる」のは、彼女の資質だと思う。だが、冷淡な元夫と再同居し、ネタ元であるとはいえ苦行を淡々と受け入れるスタンスには、どこかマゾ的な匂いを感じる。自らを積極的な渇望状態に置く生き方は、おそらく彼女の幼少時代に由来するのだろう。幼い頃に刻印された記憶を、生涯にわたって引きずるのが人間だ。解決できない悩みは、その人の生き方そのものになる。私は、それを不幸なことだとは思わない。むしろ一生の財産として受け止めたい、とこの本を読んで思った。

ただし、ぼんやりとした日常の飢えだけではプロにはなれない。彼女が抱えているのは、切実な飢えなのだ。離婚したり、主婦業をやめてみたところで解決するものではないと、彼女自身わかっているのだと思う。そう。切実に飢えていないのであれば、現実を何とかすればいい。小説を書く必要なんてない。

デビューのしかた、ペンネームのつけかた、男受けする官能小説のコツ、どのくらい儲かりどんなセクハラを受けるのか、女流官能作家の未来はどうかなど、内容は具体的。えっち作家になりたい人はもちろん、すべての女性にとって、天職に出会うとはどういうことかがわかり、仕事選びの参考になる。

*著者からメッセージをいただきました。Thank you!
2002-02-23

『猛スピードで母は』 長嶋有 / 文芸春秋2002年3月号

かっこいい母の息子はマザコンか?


現在bk1ランキング1位の「世界がもし100人の村だったら」(マガジンハウス)の中に、こんな記述がある。

「もしもあなたが いやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに 信仰や信条、良心に従って なにかをし、ものが言えるなら そうではない48人より恵まれています」

誰かが、ほかの誰かよりも恵まれているなんて、第三者にどうやって決めることができるのだろう?
大雑把なたとえ話を断定形で語るのは、私たちに安っぽい優越感を与えてくれるため?
それとも、読み手にこれ以上考えることを止めさせるため?

「知識の民主化を装った大規模な思考破壊工作」という言葉を私は思い出す。蓮見重彦が以前「ソフィーの世界」(日本放送出版協会)を評し、そう書いていた。


芥川賞受賞作「猛スピードで母は」の主人公「慎」は、第三者にどう思われようが、恵まれている。そのことが主観的に書かれているからだ。母子家庭、いじめ、母の恋愛、失恋、祖母の死、祖父の看病など、ある意味でハードな経験を重ねる慎だが、男勝りでかっこよくて知的な母のもとに生まれたおかげで、ぜんぜん動じないよっていう話。控えめながら圧倒的な優越感に貫かれている。

状況への決定権や選択権のない不安定な小学生時代がナイーブに表現されるが、約20年前を回想するというスタイルだから、痛みは穏やかだし悪人も出てこない。安全圏から過去を反芻する気持ちのいい小説なのだ。どんなできごとも等質であり、水が流れるように淡々と描かれていく。

「母がサッカーゴールの前で両手を広げ立っている様を慎はなぜか想像した。PKの瞬間のゴールキーパーを。PKのルールはもとよりゴールキーパーには圧倒的に不利だ。想像の中の母は、慎がなにかの偶然や不運な事故で窓枠の手すりを滑り落ちてしまったとしても決して悔やむまいとはじめから決めているのだ」

慎の母親自慢は、こんなふうに、子離れできない現代の母親への批判にもなっている。この親子は考え方が似ており、慎自身も、母と母の恋人によって置き去りにされそうになったとき、状況をきちんと受け入れるのだ。ほどよい距離をクールに保つ母と息子の姿は、教育的で示唆に富んでいる。

この小説を村上龍はこう選評していた。
「状況をサバイバルしようと無自覚に努力する母と子を描いた」
「一人で子どもを産み、一人で子どもを育てている多くの女性が、この作品によって勇気を得るだろう」
「社会に必要とされる小説だ」

一方、石原慎太郎の選評は冷たい。
「こんな程度の作品を読んで誰がどう心を動かされるというのだろうか」

積極的に人の心をつかんで揺さぶっちゃうような小説ではなく、必要な人がそこから勝手に学んだり考えたりする、道徳の教科書のような作品なのだと思う。

ただ、いくら距離を保っているとはいえ、小学校高学年の息子が、自分の母親をこんなにも容認し、自慢し、かしずくっていうのはどうよ? マザコン度はかえって高いような気がするのだが。
慎は20年後(つまり現在)、母親の運転手にでもなっていそうで、ちょっとこわい。
2002-02-22