『蹴りたい背中』 綿矢りさ / 河出書房新社

揺さぶりたい首根っこ。


誰かの背中を蹴りたいと思ったことはないが、正面から首根っこを押さえて揺さぶりたいと思うことはしょっちゅうある。もちろん、どうでもいい男に対しては、そんなことは思わない。

どうでもいいヤツはどうでもいいが、どうにかしたいヤツには暴力的になる。ほとんどの女はそうなんじゃないだろうか。要するにそれは愛だ。男は、女から蹴られたり揺さぶられたりしているうちは愛されていると考えていい。「女の子って最初はめちゃめちゃ愛想よくて下手なギャグにもウケてくれるのにだんだん冷たくなるんだよなあ」なんてグチる男がいるが、それは甘すぎる認識。 愛がない時のみ、女は愛想笑いができるのだ。どうでもいい男のことは、深く考えない。

女はいつも、手応えのある男を求めている。蹴り返してくる男、揺さぶり返してくる男、逃げない男、学習能力のある男。この小説の主人公ハツは、とりわけそんな手応えに飢えている。蹴りたい男であるにな川の母親に対してハツは思うのだ。「おばさんの言っていることは正しい。でも叱られ慣れていない私はなかなか素直に反省できない」。そう、ハツには叱ってくれる人がいない。部活の先生は「泣きそうになる」くらい「物分かりいい」し、唯一の女友達である絹代も性格が良すぎてケンカにならない。せいぜいクラスで孤立して、周囲に攻撃的になってみるしかない。そうでもしない限り、愛なんか永遠に手に入らないわけだから。

ハツが初めてのお見舞いと称してにな川に持っていくのは「田舎から送られてきたものでもなく、果物屋でわざわざ買ったものでもない、うちの冷蔵庫から盗んできた桃の二個入りパック」だ。勝手に盗むしかないし、盗んでも親に叱られるわけでもないパックの桃は、コミュニケーションの絶望的な不在の象徴。だが、白い果汁が流れるなまぬるい果肉は、思いがけず、ハツのほのかな野望を暴いてしまうのである。

ハツはなぜ、よりによってアイドルおたくのクラスメイトに目をつけ、蹴ろうとするのか? クライマックスで明らかになるのは、彼女は男を見る際、現時点でのかっこよさではなく、ポテンシャルに着目しているという事実。この場面、にな川にとっては真剣勝負であり、彼がサッカー部のキャプテンであれば青春ドラマになったであろうシーンだ。舞台はスタジアムではなくアイドル待ちの楽屋裏だが、とりあえず何かに本気なヤツは美しい。たとえ間違った方向であろうとも、世間を知らないうちからカッコつけて群れてるような他のクラスメイトよりは明らかにマシなのだ。だからハツは、にな川をとことん見守る。
「にな川の傷ついた顔を見たい。もっとかわいそうになれ」
なんと愛に満ちた教育的な視線だろう。

ただし、いくら背中から蹴ったって、鈍感な男は、愛の存在になんて気付かない。やっぱり面と向かって首根っこを押さえなきゃダメだと思う。
「ハツ、にな川を前から蹴れ!」
私はそう言って、彼女を揺さぶりたくなってしまうのだった。
2004-02-25

『ラスト・サムライ』 エドワード・ズウィック(監督) /

たまにはアメリカ料理も食べてみよう。


こんなに日本を美化してくれたハリウッド映画は、ない。
溜飲が下がる思いだ。
私たちは、異文化に放り込まれるトム・クルーズの視点で、武士道精神を見直してしまう。
その鮮烈さに、私たち自身が驚いてしまう。
トム・クルーズが捕らわれの身として暮らす農村の美しさ、人々のふるまいの美学といったらどうよ?
近代日本って、こんな感じで生まれたんだっけ?
いや、ウソばっかりだ。
ほとんどがウソで、ウソは暴走する。

日本のスピリットのいい部分のみがクローズアップされる。
それらは確かに、現代の私たちの中にも脈々と息づいているものだ。大切にしなきゃなと思う。
そのことを、外からの視点で思い知らさせてくれるのだから、こんなに気分のいいことはない。

しかも様式美がテーマだから、エンターテインメントというワクにぴったり収まっている。
タイタニックのごとき設定の不自然さも、ラスト・サムライでは全然気にならないってわけ。
なぜなら、すべては様式美なのだから・・・。
時代劇はハリウッドと相性がいいのである。
とにかく、ばんばん人を殺すしね。

アウェイで美化された日本に何も文句はないけど、それは、美しすぎるウソ。その真意は一体?

戦闘シーンは、月9ドラマ「プライド」のアイスホッケーの試合にそっくりだ。
渡辺謙とトム・クルーズのプライベートなやりとりが、遠巻きに見守る人々を感動させ、ひれ伏させてしまうのである。まさに、壮大なウソ。
古きよき女と、古きよき武士道精神。テーマも一緒だ。
小雪は竹内結子、トム・クルーズは木村拓哉、渡辺謙は坂口憲二だ。メイビー。

ハリウッド映画を見た後は、必ずお口直しがしたくなる。
新渡戸稲造の「武士道」(岩波文庫)が売れてるらしいけど、わかる気がする。
NOBU TOKYOでセレブな創作日本料理を食べたら、青山のつかさでお口直ししなくちゃっていう、そんな感じ。
どんな感じだ?


*2003年 アメリカ映画
*上映中
2004-02-12

『蛇にピアス』 金原ひとみ / 集英社

門限のないお嬢さま。


金原ひとみの顔やスタイルは、ヨーコちゃんにそっくりだ。ヨーコちゃんは、以前一緒に遊んでいた年下の女友達で、しょっちゅう高級エステに行き、透き通るような肌と声をしていた。彼女から電話があると私は嬉しくて、誘われるままにお目当てのDJがいるクラブにつきあった。一緒に飲んでいると、夜はすぐ明けてしまう。ラリったような酔い方をするヨーコちゃんは、時々事故に遭った。事故というのは彼女の言葉で、要は「気付いたらこんな男のところに!」というようなことだ。同居しているヨーコちゃんの両親は「好きな仕事を見つけなさい」と言う以外は彼女に干渉しなかったらしい。そのうちヨーコちゃんはパリに行ってしまった。

以来、ヨーコちゃんのような子を、たくさん見かけるようになった。門限もなく定職もないお嬢さま。手のひらの上の自由。このキツさは、計り知れない。

金原ひとみは、父親のもとで小説修行し、親が困るくらい恥ずかしいことをもっと書け、などと言われてきたそうだ。放任主義という名のスーパー過保護! 私なら逃げ出す。彼女は逃げ出そうと思わなかったのだろうか。女である限り、結局はどこにも逃げられないことを、彼女は本能的にわかっているのだろうか。

「蛇にピアス」のテーマは、まさにそこだ。身体改造しても、激ヤセしても、危険な場所に行っても、女は自由になれない。どこにだって、守ろうとしたりお持ち帰りしようとしたり結婚しようとしたり死ぬときは俺に殺させてくれなんていう男がいるからだ。その有難さと鬱陶しさ。門限がなくたって、勝手に死ぬことすら許されない。

主人公のルイは、ギャルだ。本人がいくら否定しようが、パンクからもギャングからもギャル友達からもギャルと言われてしまえば、それはもう社会的にルイがギャルだということで、とりあえず今はギャルとして生きるしかない。しかもルイは、コンパニオンができるギャル。マネジャーに気に入られ、着物とウィッグをつけ、ピアスを外し「エリートさん」からいっぱい名刺をもらうのだ。ルイ自身も「ウケのいい顔に生まれて、良かった」と前向きに考える。自分は何者だと主張できないうちは、そうやって迎合していくしかないわけだが、ウケの良さを壊してみたくなるのも当然。身体改造は手っ取り早い方法だ。

この小説の美点は、テーマが文体とリンクしていること。彼女の文章は、余計な部分を削除しすぎたんじゃないかと思えるくらいに洗練された強さをもっている。客観的な批判を恐れたり、自分の文を切り刻まれる痛みをナルシスティックに感じているうちは達成できない強度だ。小説を完成させることは、身体改造に似ているのかもしれない。日々向上しないと気がすまない女は、身体改造に向いていると思う。進歩していたい。変化していたい。細胞分裂していたい・・・でもルイは、アマという男と暮らすことで壁にぶちあたってしまう。

「まあとにかく光がないって事。私の頭ん中も生活も未来も真っ暗って事。そんな事とっくに分かってたけど。今はよりクリアーに自分がのたれ死ぬところを想像出来るって事。問題はそれを笑い飛ばす力が今の私にはないって事」

ルイの危機感は切実だ。危機感は社会性への第一歩。誰かを大切に思ったとき初めて不安が生まれ、誰かと一緒にいることで、人は初めて孤独を知る。好きなように生きているだけじゃ他人を守れない。相手の本名や家族構成を知らないようなつきあいでは、いなくなったとき、捜索願いも出せないってことなのだ。そうやって社会に取り込まれてゆく絶望は、どこにでも言い寄ってくる男がいるのだという鬱陶しさよりも、いっそう切ない。
2004-02-02

『パリ・ルーヴル美術館の秘密』 ニコラ・フィリベール(監督) /

美術品とランチ、どっちが大切?


「社員食堂潜入ルポ」というのを雑誌でやったことがある。メーカーや商社やデパートやテレビ局や官庁の社員食堂に何とかして潜り込み、ランチを食べ、施設や人を観察し、会話を盗み聞きするというたわいないものだ。私がそんな企画を持ち込んだのは、公式のアポ取材に疲れていたからだった。広報担当者に時間を割いてもらったり、資料を用意してもらったり、あれこれ食べさせてもらったりしたら、勝手なことなんて100%書けなくなるに決まってる。

この映画を見て思い出したのは、大組織を無断で内部から眺めたそんな日々のことだった。ニコラ・フィリベール監督は当初、記録フィルムを撮るために1日だけルーヴル美術館に呼ばれたそうだが「これは映画になる」とひらめき、翌日も翌々日も通いつめてしまったという。無許可で撮影していても誰にもとがめられず、正式に許可を取ったのは3週間後。迷路のように入り組んだ巨大な建物の中では、少人数の撮影クルーなんて目立たないくらいバラエティに富んだ職種の人々が働いているのである。はたしてルーヴルは、懐が広く寛大なのだろうか?それとも、あまりの大組織のため無神経で危機管理が甘いのだろうか?

この映画は、ルーヴルの美術品ではなく、そこで働く人々にスポットをあてた企業CMのような作品だ。美術品を運ぶ人、展示する人、ディレクションする人、修復する人、掃除する人、電話受付する人、料理する人などの日常が映し出され、上映終了後の映画館は、口々に感想を述べ合う声でいっぱいになった。職場の同僚を誘うには最適なデート映画かもしれない。どこの会社でも「株式会社***の秘密」という映画を撮ればいいのに。インナー向けのCMとして、これほど面白く、働く人の士気を高めるものはないと思う。

学芸員の一人は、監視員たちにこんなことを言う。「モナ・リザとミロのヴィーナスを同じ部屋に展示すれば観光客は満足するだろうが、私は展示数を増やし選択肢を広げたい。ルーヴルとは繰り返し参照すべき巨大な書物なのだ」と。

ゴダールの「はなればなれに」(1964)の中に、ルーヴルを全速力で駆け抜け、最速鑑賞記録に挑戦する皮肉っぽいシーンがあるが、私もルーヴルを訪れた時は、夥しい数の作品があらゆる場所にゴロゴロと無造作に配置されているのを横目で見ながら、モナ・リザとミロとニケの間を駆け抜けた。でも、今になって思うのは、そういうボリューム感の印象こそがルーヴルの手触りで、海外から借りた作品を神経質に展示せざるを得なかったり、コレクションの目玉として「ヘアリボンの少女」を6億円で買っちゃったりする日本の美術館とは対照的な「リッチさ」に衝撃を受けたのも事実。略奪品があまりにも多すぎるのだ。多くはナポレオンが得た戦利品だから、ウィーン会議でずいぶん返却されたらしいけど。

ルーヴルの「リッチさ」の印象は、映画を見ても同じ。日々の雑務の背景としての美術品は意外と大胆に扱われており、何十年ぶりに倉庫から出した大作も、カビが生えていれば「残念だわ」とあっさり削られてしまう。

どんな会社にも、自社の製品やサービスを愛している人とそうでもない人がいるわけで、ルーヴルで働くスタッフの中には、膨大な美術品に愛着のない人もいることだろう。実際、映画の中で職員たちがもっとも生き生きとして見えるのは、イヴ・サンローランがデザインした新しい制服を試着するシーンや、社員食堂で何を食べようか品定めしているシーンなのだった。


*1990年 フランス
*上映中
2004-01-22