『告白』 中島哲也(監督) /

美しい悪魔たち。


映画を撮ることで、もっと彼らに近づきたいと中島監督は言っていた。私もそう思う。この作品は、小説を読んでも映画を見ても終わらない。だからずっと登場人物のことを考えている。教師役の松たか子のほか、中学生役の西井幸人、藤原薫、橋本愛の演技は素晴らしかった。なのに、昨日の舞台挨拶で彼らとともに登壇した監督は「3人に人気があるというのを初めて目の当たりにした。撮影現場ではただの下手くそ3人だったのに、(好調な興収に)3人の力も多少あったのかなと今、初めて実感しています」だって。マジですか?

殺人と復讐を中心に、幾重にも描かれる負の連鎖。これほどのネガティブを描いて美しいというのは、一体どういうこと? 子供の恐ろしさ、大人の恐ろしさ、ネットの恐ろしさ。混沌とした恐怖の要素をぶちこみ、シンプルに削ぎ落としてみせた。削ぎ落とすこと。それは今、多くの人が苦手とし、時代に欠けているもの。CMディレクター出身の中島監督ならではの、マス広告の手法だ。わかる人がわかればという個人的な映画ではなく、万人向けのエンターテインメントになっている。

復讐は教育でもある。相手を傷つけたいという思いは、相手を変えたいからなのだ。どうでもいい人に復讐なんてしない。一刻も早く離れたいと思うだろう。そう考えるとこれは、他人にコミットしようとする愛の映画。復讐の最も美しく教育的な形。

RADIOHEADとBORIS。選曲のセンスがPVみたいで目が離せない。動と静。明と暗。喧騒と孤独。憎しみと愛。相反する要素の鮮やかなコントラストも広告の手法だ。ひとつの絵から短時間にいろんなものを感じとれる構造が、想像力をかきたてる。ドリュー・バリモア初監督作品『ローラーガールズ・ダイアリー』の選曲も最高だったけど、やっぱりRADIOHEADが使われていた。初恋の気分にふさわしいのは、今、RADIOHEADなのかも。どちらも恋愛映画では全然ないのに、いや、そうでないからこそ、恋愛の原点が描かれている。繰り返すことで濁っていくのであろう、そのピュアな芯の部分が。

何人もが『告白』をする映画でありながら、浮かび上がってくるのは、言葉は嘘という真実。言葉は嘘だし、人間は嘘つきだし、重要なことは話さない。この世は嘘のかたまり? 言葉がだめなら何を信じたらいいの? 映画はそこに肉迫している。

吉田修一の小説『パレード』から、24才の未来と18才のサトルの会話。
―「こういう時ってさ、子供の頃の思い出話とかするんだよね」と、サトルがぽつりと言った。「したいの?」私はそう茶化した。(中略)「してもいいけど、どうせ、ぜんぶ作り話だよ」と彼は笑う。私はふと、『これから嘘をつきますよ』という嘘もあるんだ、と気がついた―

同じく吉田修一『元職員』から。
―嘘って、つくほうが本当か決めるもんじゃなくて、つかれたほうが決めるんですよ、きっと。もちろん嘘つくほうは、間違いなく嘘ついてんだけど、嘘つかれたほうにも、それが嘘なのか本当なのか、決める権利があるっていうか―

嘘はこんなにも自由なのか、と思う。嘘のつき方は自由だし、受けとめ方も自由。であるならば、つく場合もつかれる場合も、できれば美しいものに仕立てたい。現実以上の真実を作り出し、痛いものを愛に変えてみたい。

誰もが何かを抱えている。だけど、それらを他人が共有することはできない。まるごと理解しあうなんて、無理。肯定や共感の言葉はあふれているけれど、他人と自分を隔てる壁、それもまた言葉なのだ。言葉の力を信じ、本物に変えるのは、気付いた人の仕事だ。全力で、だめもとで、自分も相手も変えてしまうくらい激しく一途に。
2010-06-28

『インビクタス 負けざる者たち』 クリント・イーストウッド(監督) /

世界中の共感に、誰もが共感するとは限らない。


第82回米アカデミー賞の受賞作が決まった。南アフリカ初の黒人大統領ネルソン・マンデラを演じたモーガン・フリーマンは主演男優賞を逃し、ラグビーチームを率いる主将を演じたマット・デイモンは助演男優賞を逃した。私は、米アカデミー賞への興味をますます失った。

『インビクタス 負けざる者たち』は、1995年に開催されたラグビーのワールドカップを政治に利用した指導者の物語だ。南アフリカの歴史やラグビーのルールを知らなくても楽しめるエンターテインメント映画だが、ベースはノンフィクション。試合の経過やユニフォーム、スタジアムの広告看板など、当時の状況が忠実に再現されたという。

スポーツの政治利用という、一見美しくないものを美しく見せてしまう力が、この映画にはある。主役の2人の日常が、あまりにも普通だからだ。家族、秘書、家政婦、警護班など、彼らを支えるさまざまなプロフェッションが登場するが、大役を担う2人が、仕事以前に身近な存在を大切にする姿には心を打たれる。ダイナミックにして、繊細な配慮が行き届いた映画なのだ。

撮りたいものを撮りたいように撮れてしまう才能とキャリアと説得力とネットワークを有する監督は、世界中でクリント・イーストウッドだけなのでは?と思わせる名人芸。パンフレットにはメイキングシーンが満載で、監督の姿は、誰よりも絵になっていて、かっこよすぎ。この映画は、監督賞にノミネートされるべき作品なのだろう。

サッカーのワールドカップが、南アフリカで開催される直前の公開というタイムリーさ。マンデラが退いた後はいい状況とはいえない南アフリカだが、国の歴史を美しく世界にPRするには絶好の機会である。マンデラは、ラグビーワールドカップの決勝を世界で10億人が観戦すると知り、それを利用したわけだが、イーストウッドは、そんな歴史を知らない非ラグビーファンまでをも「観戦」させることができたのだ。

この映画はまた、文学映画でもある。映画の魅力的な細部は、やがてひとつの詩に収斂されていく。不屈を意味するラテン語「インビクタス」と名付けられた16行のこの詩は、英国の詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリー(1849-1903)の代表作。12歳で脊椎カリエスを患い左膝から下を切断した彼は、オックスフォード大学に受かるが結核に感染し、右足切断の危機は回避するものの8年間入院。この詩は26歳のとき、退院直前の病床で綴られたものと思われる。

27年半に及んだ獄中のマンデラの魂を支え、ラグビーのワールドカップに奇跡をもたらした詩である。私ももう、忘れることはできない。こういう詩が生まれるのは、ある種の逆境からなのだろう。私たちは逆境を望む必要はないが、恐れる必要もない。それどころか、大儀ある者は決して負けないのだ。これほど勇気を与えてくれる詩があるだろうか。

だが、私が2度目にこの映画を見たときに同行してくれた人は、詩についてはぴんとこなかったという。えー、そうなの! でも、それこそが、身近な人と映画について話をする面白さ。多くを共有していると思う人でも、改めて確認すると、別のものを見ている。目の前にいても、違うことを考えている。

目の前の人が何を考えているのかもわからないのに、言語や時代を超えた詩が勇気をくれるってどういうこと? でも、よく考えると、具体的な勇気を与えてくれるのは、いつだって、身近な人のほう。抽象的・客観的な勇気は遠く離れた人が、具体的・主観的な勇気は身近な人がもたらしてくれる。この映画においても、詩の精神を共有したのは、たぶん主役の2人だけである。
2010-03-10