『エリック・クラプトン 12小節の人生』 リリー・フィニー・ザナック (監督)
『ボヘミアン・ラプソディ』 ブライアン・シンガー (監督)

エリック・クラプトンの母と、フレディ・マーキュリーの母。





『エリック・クラプトン 12小節の人生』で描かれたエリック・クラプトン(1945-)の人生は、波乱に満ちたものだ。本人と関係者のナレーションにより、その細部が生々しく暴かれるドキュメンタリー(記録)映画である。見どころのひとつは、ジョージー・ハリスンから妻のパティ・ボイドを奪った有名な事件だが、その経緯はぐちゃぐちゃで、かっこよくもなく、美しくもない。パティを奪えなかった年月は長く、最終的に奪ってからも愛をまっとうできたわけではない空しさ。この事実が残したギフトは、彼が思いを注ぎ込んだ『いとしのレイラ』という曲だけのように思える。

不幸の原点は、母親に拒絶されたことだという。私生児であった彼は祖母に育てられ、実の母は、実の父とは別の男と結婚して家庭をつくり、彼の存在を否定するのである。このトラウマにより、彼は他人の幸せをうらやみ、他人のものを奪おうとするわけだが、母に受け入れられなかった原体験により、なかなか女性を幸せにすることができないというストーリー。救いは、そんな彼の生き方が、彼を拒絶した母(あるいは顔も知らない父)の生き方に似ているであろうことなのかもしれない。

エリック・クラプトンは、ちゃらんぽらんな人のようにも見えるが、ギターとブルースに関しては明らかに真摯である。一途な情熱は楽曲に詰め込まれており、彼自身が自分の曲に救われ、いまだに生き長らえているという奇跡。つまり現実よりも曲が美しい。本物のアーティストではないだろうか。

『ボヘミアン・ラプソディ』で描かれたフレディ・マーキュリー(1946-1991)の人生も、波乱に満ちたものだ。俳優がすべてを演じるバイオグラフィー(伝記)映画であり、その再現力は半端ない。細部を忠実に再現すればするほど、フレディ・マーキュリーの「再現不能なオーラ」の不在が際立ってしまうのが残念だが、音はオリジナルだから感動は薄れないという仕組みなのだ。

フレディ・マーキュリーの両親はインド系の移民。彼はロックスターになるためにインド名の「ファルーク・バルサラ」を捨て「フレディ・マーキュリー」を名乗る。バンド名も「スマイル」から英国を象徴する「クイーン」へ。そんな彼を見守る母を演じたインドの女優の存在感が光っていた。1985713日、伝説のライヴエイドで『ボヘミアン・ラプソディ』を歌うクライマックスで、彼の家族はテレビでその姿を見ているのだが、「ママー、たった今、人を殺してしまった」という歌詞の部分で映し出される何ともいえない母の表情が、この映画のいちばんの見どころというか、笑いどころかもしれない。

フレディ・マーキュリーは、エイズが原因で45歳で亡くなったが、彼の母は2016年、94歳まで生きた。温かく献身的で、息子の死後もクイーンのメンバーらと交流があったという。エリック・クラプトンも、実の母がこういう人なら、もっと早く幸せになれただろうか?いずれにしても、かつて幼い彼を拒絶した母だって、同じ日のライヴエイドで『いとしのレイラ』をかっこよく歌い、ギターを弾く息子の姿をテレビで見て、フレディ・マーキュリーの母と同じような表情をしていたに違いないと思うのだ。


2018-11-28

「Paintings」 ロバート・ボシシオ (@104 GALERIE)

見ることは、信じること。





ロバート・ボシシオ(Robert Bosisio)は、北イタリアのトローデナ出身で、イタリア、ルーマニア、ドイツを拠点に制作活動を続けている画家。新作の人物画を中心とした日本初の個展が、104GALERIE104GALERIE-Rで開かれた。作品も、展示されているギャラリーの空間も、めちゃくちゃかっこいい。

淡い記憶を呼びさます、水のようなスフマート。素材をていねいに重ねたのであろうこれらの作品は、シンプルな写真のようでもある。近いようで遠く、はかないのに強い。ここではなく、どこか別のところにあるんじゃないか?と思わせる、つかみどころのない、かけがえのない存在。どこから見ても、そのまま美しい。

ロバート・ボシシオは、映画監督のヴィム・ヴェンダースの妻であり写真家のドナータ・ヴェンダースと一緒に何度か展覧会をやっているようで、ヴィム・ヴェンダースも図録などに、彼の作品についての文章を寄せている。

「多くの絵は、その美しさを理解するために後ろに下がり、目を細めて見ることを要求する。そうして初めて、絵は真実をあらわすのだ。しかしRobert Bosisioの絵を見るとき、後ろに下がる必要はない。Robertは私たちのために、それをやってくれた。彼は、私たちが半分目をとじて見る世界を描いた」

Some paintings oblige you, the viewer, to step back and to squeeze your eyes,so that you can see their beauty shine. Only in this way do they reveal their truth. Facing the paintings of Robert Bosisio we don’t have to step back. Robert has done that for us. He has painted what we see through half-closed lids.
SEEING IS BELEVIENG,2010 by Wim Wenders



2018.03.23 (Fri) - 2018.05.20 (Sun)


2017年文庫本ベスト10

●まっぷたつの子爵(カルヴィーノ/河島英昭訳)岩波文庫

●その犬の歩むところ(ボストン・テラン/田口俊樹訳)文春文庫

●ねじの回転(ヘンリー・ジェイムズ/小川高義訳)新潮文庫

●船出(ヴァージニア・ウルフ/川西進訳)岩波文庫

●空白の絆 暴走弁護士(麻野涼)文芸社文庫

●ゴールデン・ブラッド(内藤了)幻冬舎文庫

JIMMY(明石家さんま)文春文庫

●子供の死を祈る親たち(押川剛)新潮文庫

●あるがままに自閉症です(東田直樹)角川文庫

●働き方の教科書(出口治明)新潮文庫



2017-12-30

2017年単行本ベスト10

●最愛の子ども(松浦理英子)文藝春秋

●ふたご(藤崎彩織)文藝春秋

●ドレス(藤野可織)河出書房新社

●ハッチとマーロウ(青山七恵)小学館

●世界のすべてのさよなら(白岩玄)幻冬舎

●わたしたちは銀のフォークと薬を手にして(島本理生)幻冬舎

●Very LiLyLiLy)幻冬舎

●影裏(沼田真佑)文藝春秋

●末ながく、お幸せに(あさのあつこ)小学館

●成功者K羽田圭介)河出書房新社



2017-12-30

2017年邦画ベスト10

●天国はまだ遠い(濱口竜介)

●夜空はいつも最高密度の青色だ(石井裕也)

●リングサイド・ストーリー(武正晴)

●南瓜とマヨネーズ(冨永昌敬)

●君の膵臓をたべたい(月川翔)

●あヽ、荒野(岸善幸)

●ちょっと今から仕事やめてくる(成島出)

●バンコクナイツ(冨田克也)

22年目の告白(入江悠)

3月のライオン(大友啓史)



2017-12-30

2017年洋画ベスト10

●もうひとりの男(パオロ・ソレンティーノ)*日本初上映

●希望のかなた(アキ・カウリスマキ)

●笑う故郷(マリアノ・コーン/ガストン・ドゥプラット)

●台北ストーリー(エドワード・ヤン)*日本初公開

●わたしは、幸福<フェリシテ>(アラン・ゴミス)

●立ち去った女(ラヴ・ディアス)

●パターソン(ジム・ジャームッシュ)

●たかが世界の終わり(グザヴィエ・ドラン)

●マンチェスター・バイ・ザ・シー(ケネス・ロナーガン)

●ノクターナル・アニマルズ(トム・フォード)



2017-12-30

「早稲田文学増刊『女性号』」責任編集 川上未映子

「未映子さん、ありがとう。」





故人や海外作家を含む82名の女性が参加した556ページ。小説だけじゃない。エッセイあり、論考あり、対談あり、アート作品あり。詩、短歌、俳句の多さも特筆すべきだ。

いまどき、ありえない大きさと分厚さがいい。電車の中で読むにはふさわしくないけれど、そばに置いて、少しずつぱらぱら読んでみたくなるオブジェのような魅力を備えている。

なぜ女性ばかりを集めた?という意味も含めて面白い。「フェミニズム」という言葉に魅力を感じる人も、嫌悪感を覚える人も、「女性」という言葉に抵抗がなければOK。これはエポックメーキングな素晴らしい本だ。

1126日、刊行記念シンポジウムが早稲田大学戸山キャンパスで行われた。
●穂村弘+川上未映子「詩と幻視~ワンダーは捏造可能か」
●桐野夏生+松浦理英子(司会:市川真人)「孤独感/疎外感 と 書くこと」
●市川真人+紅野謙介+河野真太郎+斎藤環「女性とその文学について男性として向き合うことの困難と必然」
●上野千鶴子+柴田英里(司会:川上未映子)「フェミニズムと『表現の自由』をめぐって」

呼ばれた理由の違いからくるのであろう言説の違いが色濃く見えて興味深かった。
●穂村弘さんによる「女性号」収録短歌の解説は感動レベルだった。
●桐野夏生さんと松浦理英子さんの多作ディストピアVS寡作ユートピア対談は「女性号」に収録されるべきものだったかもしれない。
●男性4人の対談には違和感があり、「男性号」を編んでもつまらないであろうことを想像させた。「女性号」を語るのに男性のみというのはどうなのか?川上未映子さんが入るべきだったのでは? しかし、紅野謙介さんは空気を読むのが上手な方のようで、「女性号」の誕生を祝福する場であるという役割を理解し、全うされていた。モテるおじさまというのは、こういう人のことだ。
●1984年生まれの柴田英里さんが、1948年生まれの上野千鶴子さんに食ってかかっていたのには本当に驚いた。アーティストならではの大胆不敵な勇気といえよう。上野さんは、それを完璧に受け止め、観客が求めている回答を短時間に美しく落ち着いた声ですべて言い切るという離れ業をしなやかに完遂。毒舌からの教示と励まし、そして、川上未映子さんへのラストの祝辞は、関係者を泣かせたほどだ。

というわけで、川上未映子さんをリスペクトするとともに、紅野謙介さんと上野千鶴子さんのマナーとふるまいに感激したシンポジウムだった。川上未映子さんに同行していた夫の阿部和重さんのふるまいも素敵で、特別な一日になった。

2017-11-26

『ナラタージュ』 行定勲 (監督)
『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』 大根仁 (監督)

ふりまわされた恋愛の記憶。





『ナラタージュ』と『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』。
対照的な映画だと思う。

『ナラタージュ』の原作は島本理生の長編小説で、『奥田民生〜』の原作は渋谷直角の長編漫画。前者は過去に置き忘れたものを集めたような物語で、後者は今の気分を凝縮したような物語。前者は笑えないが、後者は笑える。前者は重く、後者は軽い。前者はコミュニケーションに時間がかかりすぎるのが難点で、後者はあまりに簡単に何度もキスしすぎるのが難点だ。

『ナラタージュ』のヒロインを演じたのは有村架純で、『奥田民生〜』のヒロインを演じたのは水原希子。前者は壊れるくらい相手を好きになってしまう垢抜けない真面目ガールで、後者は出会う男をすべて狂わせてしまうコンサバビッチなおしゃれガール。前者は「コワイくらい男にふりまわされる女」で、後者は「コワイくらい男をふりまわす女」だ。

しかし、映画の本当の主人公は、ふりまわされる側である。『ナラタージュ』の主人公は、男(松本潤)にふりまわされる女(有村架純)だが、『奥田民生〜』の主人公は、女(水原希子)にふりまわされる男(妻夫木聡)のほうなのだ。ふりまわす側には、まるで中身がなく、罪の意識も痛みもないようにみえる。

そのことを補うかのように、二つの映画には、主人公を別の意味でふりまわすけれど実体のある「痛い名脇役」が存在する。
有村架純の脇には、坂口健太郎が。
妻夫木聡の脇には、安藤サクラが。
このふたりの意外性に満ちた存在感と熱量が、二つの映画に生命を吹き込んだ。

主人公は、やがて、ふりまわされた過去を懐かしく思い出す。どちらの主人公も、不幸になったりしない。強靱である。仕事の夢だってちゃんと叶っているし。この二つの映画は、恋愛にふりまわされる一時期の苦悩を描いているが、それを傷とはせず、幸せな記憶にするための方法がきっちり描かれていて、とても勉強になるのである。

2017-10-7

『パターソン』ジム・ジャームッシュ(監督)

戦闘服をぬがせる太陽のように。





『パターソン』は、ひっそりとした物語で、主人公たちにドラマチックな緊張感らしき出来事は一切ない。物語の構造はシンプルであり、彼らの人生における7日間を追うだけだ。『パターソン』はディテールやバリエーション、日々のやりとりに内在する詩を讃美し、ダークでやたらとドラマチックな映画、あるいはアクション志向の作品に対する一種の解毒剤となることを意図している。
--- ジム・ジャームッシュ

監督は25年位前、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩「パターソン」に興味を持ち、ニューヨークから1時間位で行けるパターソンを訪れ、街を見て歩いた。いつかここで映画を撮りたいと思い「パターソンという男がパターソンに住んでおり、彼はバスの運転手であり詩人でもある」という設定をすぐに思いついたという。

あらすじは、詩が生まれる町における夫婦と愛犬の1週間。平和過ぎて退屈そう。もちろん小さなできごとは無数にあるけれど、この映画は、その小さなきっかけを大きな事件に広げようとせず、逆に収束させてしまうのだ。

普通の映画なら、何でもない会話はケンカになり、ケンカは決闘になる。ちょっとしたバスの故障が事故につながり、死者が出る。可愛い犬は連れ去られ、美しい詩は誰かに悪用されるはず。そうならないことのほうを「つまらないな」と感じてしまう思考習慣ってどうなのか。現実の悪い事件のほとんども、たくさんの人々の妄想が生み出しているんじゃないかとすら思う。何か悪いことが起きるかもという恐怖の想像は、何か悪いことが起きても仕方ないという諦念にとても近い。

映画上のこの街で1週間を過ごしていると、それほど悪いことは起こらないことが、だんだんわかってくる。そういう安心感をとりもどす解毒体験は貴重だし、同じような毎日の、小さな差異が見えてくるのは嬉しい。ドラマチックな日々は、人を興奮させる代わりに、細部を見えなくしてしまうから。

人々の会話からも風景からも、景気があまりよくない感じが伝わってくるけれど、とりあえず、じゃあまた明日、という日々の繰り返しが生むポジティブな力。前に進まなくても、明日になればまた、今日とは違う風景が見えてくるのだから、同じことを繰り返して生きていくって強いなと思う。パターソンが夕食後、犬の散歩の途中でビールを1杯飲むために立ち寄るバーが、見ている側にとっても、ものすごく楽しみになってくる。

もうひとつの楽しみは詩だ。パターソンは、オチもクライマックスもない日常の中で、幸せな詩を書いている。彼はそれをひけらかさないが、内面の豊かさは伝わる。この映画は、あまり外交的ではない静かで受け身な男の魅力を描くことに成功している。

エキセントリックな妻が素敵に見えるのも、パターソンが彼女を肯定しているから。いくつかのことを多少我慢しながらも、その肯定感がぶれないのは愛のせい? それとも彼女を怒らせないため? いや、実は彼女のほうこそ、彼を気遣っていることがわかる。これは、争いのない関係の成立をめぐる、とても繊細で生々しい映画なのだ。

パターソンが大切な詩のノートを損なったとき、彼の詩を読みたくてたまらない妻は心配し「復元する」とまで言った。彼女はアーティストだから、独自の方法でアレンジして、詩の言葉が断片的に読めるような白黒のアートに仕立ててしまうかもしれない。

詩が好きな人に出会うと、詩の話をするパターソン。その一人は素晴らしい詩を書く少女で、もう一人は、25年前の監督のように、ウィリアムズの詩に興味をもち、この街にやってくる日本人だ。その役を永瀬正敏が演じている。おしゃれでかっこいいアメリカの映画に、日本人が理想的な形で登場するのだから、たまりません。

2017-9-1

75年ぶりに発見された夫婦

靴職人の黒い靴と、娘の白い服。





2017 713日木曜日。融解が進むスイス・アルプスの氷河の中から、75年前に行方不明になった夫婦の遺体が見つかった。靴職人のマルスラン・デュムランさん(当時40歳)と、教員の妻フランシーヌさん(当時37歳)だ。夫婦は第二次世界大戦中の1942815日の朝、シャンドラン村の家を出た。アルプス山脈に放牧されていた牛たちの乳しぼりのためで、夕方戻るはずだったが、そのまま行方がわからなくなった。氷河の割れ目に転落し、遭難したとみられる。2人が今生きていれば115歳と112歳ということになる。

夫婦が75年間、寄り添うように横たわっていたのは、スイスのレ・ディアブルレに近い標高2615メートルの山腹の氷河。現在はスキー場やホテルが建ち並ぶ場所で、発見したのはスキーのリフト会社の社員だった。遺体とともに、靴、バッグパック、身分証、本、写真、時計、空のボトルなどが、損なわれずにあった。私は現場の写真を見て、靴がとてもちゃんとしているなと思った。

夫婦には5人の男の子と2人の女の子がいたが、現在生きているのは長女(86歳)と末娘(79歳)のみ。当時4歳だった末娘のマルセリーヌさんは、今も遠くない場所に住んでおり「両親をずっと探し続けていた。いつかちゃんとお葬式をしてあげたいと思っていた。75年待ち続け、ようやく心の平安を得ることができた」と語った。氷河にも3回登ったという。「母は妊娠していることが多く、険しい土地でもあったため、父に同行するのは珍しかった」

11歳だった長女のモニークさんによると、両親が出かけた日の朝は天気がよく、父親は歌を口ずさんでいた。だが2人は帰らず、彼女はその日から、すべての家事をやらなければならなくなった。捜索は2か月半に及んだが手掛かりはなく、7人の子供はそれぞれ別々の家に引き取られ、年月と共に連絡が途絶えてしまったという。両親を突然失った子供達の人生は、楽ではなかったようだ。

2017722日土曜日。スイスの教会で行われた葬儀の様子も報道されていたが、たくさんの人々が参列し、マルセリーヌさんとモニークさんのほか、親族やひ孫2人の姿もあった。マルセリーヌさんは黒い喪服ではなく、白の装い。その理由を彼女は「白のほうがふさわしい。私が一度もなくさなかった希望を表しているから」と話した。

201586日には、スイス・アルプスのマッターホルンで、1970818日に遭難した日本人登山家2人が、45年ぶりに見つかっている。標高2800メートル地点の氷河だった。地球温暖化に伴う氷河の融解により、このようなケースが増えているそうだ。自然の驚異と年月の重みには言葉を失ってしまうけれど、遺された人にとっては、見つかって本当によかった、の一言だろうと思う。

2017-7-29

『騎士団長殺し』村上春樹

山と絵とクルマと女の子。





神保町の三省堂書店本店のカフェで、毎月書かせてもらっている雑誌の書評コーナーの打合せをしている。この街に来ると「紙の本が売れなくなった」なんて到底信じられない。新しい本は生鮮食品のようにたっぷり盛られているし、新しくない本だってずいぶん美味しそうだ。神保町駅から半蔵門線に乗り、しばらくしてふと向かいのシートを見ると、スマホを見ている人なんて誰もいなくて、横並びの一列全員が紙の本を読んでいたこともある。

『騎士団長殺し』の発行部数は、2巻合わせて130万部だそうで、発売日の三省堂書店では、黒川紀章が設計した中銀カプセルタワービルみたいな迫力で積まれていた。この書店名物の「タワー積み」で、2巻あるからツインタワー。東日本大震災前の2000年代を回想したレトロファンタジーなこの小説に、ふさわしいディスプレイだったかもしれない。

電子機器の気配を周到に消した小説だ。広尾のマンションで妻に別れを告げられた30代の「私」は、赤いプジョー250ハッチバックで北へ向かった後、「適当な川」に携帯電話を投げ捨ててしまうわけだし、小田原郊外の山頂の家に落ち着いてからもメールはやらないし、ネットもほぼ使わない。妻と別れてから関係を持った二人目の人妻のガールフレンドは電話番号を教えてくれないから、会いたくても彼女からの連絡を待つほかないし、その後出会う13歳の美少女も、携帯電話が好きじゃないことになっている。

肖像画家の「私」は、写真以前の時代に回帰するかのように、時間と手間をかけて依頼者の肖像を描く。効率とは真逆のリゾート空間に、どっぷり浸れる趣向なのだ。ただ一人、谷間を隔てた豪邸に住み「積もりたての処女雪のように純白な髪」を持った「免色さん」という50代男性のみが、最新のテクノロジーを駆使する富裕層であり、不穏な空気を運んでくる。

白いジャガーのスポーツ・クーペを運転する免色さんは、「望んだものはだいたいすべて手に入れてきました」なんて自分で言うような浮世離れした人。完璧なオムレツをつくることができる反面、意外な弱みも持っている。時として「彼は燃えさかるビルの十六階の窓から、コースターくらいにしか見えない救助マットめがけて飛び降りろと言われている人のように、怯えて困惑した目をしていた」と表現されるくらいには小心者なのだ。

この小説では、免色さんのジャガーをはじめ、クルマの車種や年式が所有者のキャラクターを象徴していて面白い。
「重く野太いエンジン音がしばらくあたりに響き渡った。大きな動物が洞窟の奧で満足げに喉を鳴らしているような音だ」
「背後に銀色のジャガーが見えた。その隣にはブルーのトヨタ・プリウスが駐まっていた。その二台が隣り合って並ぶと、歯並びの悪い人が口を開けて笑っているみたいに見えた」
「駐車場にはミニヴァンの数が目立った。ミニヴァンはどれもこれも同じように見える。あまりおいしくないビスケットの入った缶みたいだ」

小説全体のトーンは明るい。重い史実があり、ネガティブな事件は起こり続けるけれど、それは人が前へ進むためのチャンスなのだから、傷んでいる部分を修復し、つなぎ直して再起動すればいい。そういう特別なメンテナンス期間を与えてくれた運命のおもむくまま、目の前のできごとに勇気と誠意をもって対処していけば、無力な一人の人間も、ご褒美のような場所に必ずたどり着けるのであると。

2017-3-30

『ラ・ラ・ランド』 デイミアン・チャゼル(監督) 『幽体の囁き』 落合陽一

ラ・ラ・ランドとは、現実逃避の世界のこと。





ハリウッドを舞台に、過去へのオマージュを盛りこんだ恋愛ミュージカル映画。主人公はセブ(ライアン・ゴズリング)とミア(エマ・ストーン)。50年代風エッセンスの効いたファッションの数々に加え、セブは古いジャズを愛し、自国の古いオープンカーに乗っている。だけど、ハリウッド女優を目指しながらカフェで働くミアの愛車は、プリウスだ。奇しくもトヨタは今月、ハイブリッド車の世界販売台数が1000万台を超えたというニュースを発信したばかり。パーティで運命的に再会した二人は、帰り道、悪態をつきながらも、たくさんのプリウスからミアのプリウスを探す過程で接近していくのだから、まるでトヨタのCMみたい。

女優になりたいがオーディションに落ち続けるうちに自信を失っていくミアと、ジャズを自由に演奏できる店を持ちたいが資金稼ぎを続けるうちに信念を曲げていくセブ。好きな道をきわめたいというピュアな夢が、才能やお金の問題に阻まれる話だ。彼らは夢の途中にあり、ミアのダンスもセブのピアノも、完璧ではないからこそ心に響く。俳優たちが、映画のために時間をかけて何かを練習したという事実が、ストーリーに重なるからだ。夢を追うことについての家族からの現実的な苦言や、二人の痴話ゲンカのしょぼさも、プリウス登場の喜びとともに、日本人のやわな心を直撃する。

叶いそうにない夢も、強い思いがあれば叶うし、できそうにないことも、強い技術があればできる。それがハリウッド映画のセオリーだ。スマホ時代に突入し、私たちは、できそうもなかった多くのことができるようになった世界に生きている。だが、中には不可能なこともある。それは、過去に戻ることだ。これまでも、過去を書き換えるべく奔走するたくさんの映画がつくられてきたけれど、最近、そのジャンルは再び加速している。『君の名は。』や『君と100回目の恋』はもちろん、『ラ・ラ・ランド』にまで、タイムスリップの要素が入っているなんて。今、人間にとって、叶わぬロマンチックな夢といったら、もはや時間を巻き戻すことだけなのかもしれない。

過去に戻ることって、本当にできないのだろうか? 六本木ヒルズの東京シティビューで開催中のメディアアート展「Media Ambition Tokyo 2017」で、時間に関する展示をふたつ見つけた。ひとつは後藤映則氏の『toki- series_♯01』。人体の動きの変化を時間の流れとして立体化し、3Dプリンターで出力したオブジェだ。時間の端と端をつないで光を当て、動きを無限ループさせた美しい作品で、多くの人の目を引きつけていた。

もうひとつは、落合陽一氏の『幽体の囁き』。何もない空間に過去の気配を蘇らせる作品だ。超指向性スピーカーを使った空間音響技術で、カプセルに入るのでもなく、ヘッドホンを装着するのでもなく、開かれた空間の中で、身体が「気配」に包まれる。廃校となった中学校の校庭に展示された作品らしく、テーマが「教室の気配」だったから、まさにタイムスリップ。森タワー52階の夜景には、いかにも先鋭的なテクノロジーアートが似合うと思いきや、ふいにパーソナルでノスタルジックな気配に包まれる体験には、予想外のインパクトがあった。

自分が生きてきた感覚のすべてを、体内に埋め込んだ装置で記録できれば、いつでも過去の好きな時間の気配に戻れるようになるかもしれない。やり直したい瞬間に戻れば、時間の経過とともにふくらませてしまったネガティブな妄想を軌道修正できるかもしれない。もっと踏み込んで、自由に過去を編集しちゃってもいいのかもしれない。何より、好みの気配にいつも包まれている感覚は、香りや化粧品、ランジェリーの世界に近くていいなと思う。ヘッドホンもメガネも、重すぎるからつけたくない。こんな柔らかな現実逃避の世界(=la-la-land)が手に入る日は、いつになるだろう?

2017-2-28