『ゲアトルーズ』 カール・ドライヤー(監督) /

ピュアな映画は、腐らない。


「私の唯一の願望は、平板で退屈な現実の向こうに、もう一つの想像力による世界があることを提示することだ」~カール・ドライヤー

彼は、現実から余分なオリを取り除き、純度の高い原液のような映画を撮った。過激な絵づくりが際立つ無声映画「裁かるるジャンヌ」(1927)も、小津やパゾリーニを思わせる宗教家族ドラマ「奇跡」(1954)も、こんなマジに真実を突きつめちゃっていいの?と不安になるくらいの直球だ。

だが、いちばん凄いのは遺作の「ゲアトルーズ」(1964)である。他の2作と違い、ゲアトルーズという女は、火あぶりにされたり出産で死んだり奇跡的に蘇ったりしない。悲劇のヒロインではなく、幸せな現代を生き抜かねばならない「生身の痛い女」なのだ。

ゲアトルーズの愛に応えられる男は、一人もいない。夫も前夫も愛人も男友達も、彼女が要求する愛の水準に届かない。女が本気で愛を求めるとどうなっちゃうのかを、徹底的な描写で追求したコワイ映画である。

ゲアトルーズの愛人は、まだ若い。
地位のある夫と別れ、愛人と暮らそうとする彼女だが、愛人はお金もなく遊びたい盛り。彼女が離婚を決めても「僕らの関係は変わらない」と言い、「アバンチュールを求めているだけかと思った」「最初は上流階級の高慢さかと思ったけど、キミは魂が高慢なんだ」などと厳しいセリフを放つ。実際、2人がかみあわない理由は階級や年齢の差ではなく、魂の純度の差なのである。だから、彼に別の女がいるとわかった時、彼女はこう言う。「私は愛している。あなたは愛していない。これで終わりよ」。相手のレベルに合わせて「私ももう愛してないわ」などと対抗したりしないのだ。

ゲアトルーズの元夫は、未練がましい。
彼女の愛人が彼女のことを「最近の獲物」として友人らに軽々しく話すのを聞いた元夫は「僕が大切にしてきたものを、あんな若者に汚された」と本人よりも深く嘆き悲しむ。が、よりを戻そうと必死になる元夫に、彼女はきっぱりと言うのだ。「一度死んだものを蘇らせることはできないのよ」。

ゲアトルーズの夫は、世間体が大切。
彼女に愛人がいると知った夫は怒り悲しむが、激昂はしない。オペラへ行くと嘘をつく彼女を劇場まで迎えに行くシーンからは、彼の深い愛情が伝わってくる。が、いかんせん遅すぎるのだ。この夫、最後には「愛人がいてもいいから一緒にいよう」とまで言うのだが、こういうセリフも、彼女の高潔な魂には逆効果である。

というわけで、ゲアトルーズは3人の男を同時に捨てる。過去の男やマシな男をキープしておこうなどとケチなことは一切考えない。男友達のいるパリへ勉強に行く彼女が、さらっと飛び出すドアの外は、ドキっとするほどきらめいているのだった。

しかし映画は、彼女が老後に住む部屋のドアまでを描き切る。パリの男友達は、最後まで彼女を口説き続けるという素敵な役回りだが、結局のところ、彼女はこの男友達とも決別するという徹底ぶり!

愛に生きるとは、恋愛を繰り返すことじゃない。情にほだされず、自分を信じ、中途半端な愛を拒絶する強さをもつことだ。愛されても愛さず、愛されなくても愛し、相思相愛でなければ一人で生きること。最後まで決して後悔せず、愛に殉死してみせること。ブラボー!なんて潔いんだろう!こんな凄い女、カール・ドライヤーの映画の中にしか、存在しない。

*1964年デンマーク
*ユーロスペースで上映中
2003-12-17