『熱波』 ミゲル・ゴメス(監督)

人生は、2部構成の美しい熱。




ポルトガルの俊英、と注目されているミゲル・ゴメス監督のデビュー作『自分に見合った顔』(2004)を見た。日本初公開だって。それはそうだろう。極彩色のミュージカル版パーマネント・バケーションにヨス・ステリングのイリュージョニストをまぶしたような悪趣味なはじけ方に、ショックで熱が出そうになった。

第1部「学芸会」は、子供たちが演じる白雪姫をベースに、ウクレレでハイホーを演奏し毒リンゴを食べて倒れるカウボーイ姿の主人公を描く。30才の誕生日、彼が鏡に映った自分の顔をのぞきこむシーンから第2部の「はしか」が始まる。そこからは、彼のために集まった7人の男たちが営む変態チックな共同生活が延々と続くが、要するに<はしかにかかった30才の男(白雪姫)が、7人の男に自分の顔を投影する物語>ってこと? 7人の1人、テキサスという男の<目隠しされた顔>が、その象徴だ。

ゴダールの失敗作を見ているみたい。これ以上の悪夢があるだろうか。っていうか、なぜこれが立ち見なわけ? 目隠しされた男のせい? 2部構成のおかげ? 第1部がミュージカル風のリアル寓話で、第2部が妄想。その切れ目のなさは確かに心地いい。主人公は鏡をのぞき、妄想の世界に入っていく。人生を2ステップで理解すれば、何でもできるのではないかと思った。なだらかな踏み台があれば、どんなディープな世界にもそのまま飛び込んでいけるかもしれないなと。

数日後に見た新作の『熱波』(2012)も2部構成。こちらは<昔の愛人の葬儀に呼ばれた老人が、若き日のアフリカでの情事を回想する物語>だ。原題は『TABU』で、ムルナウの同名の2部構成映画へのトリビュートであることがわかる。デビュー作との最大の違いは、全編モノクロであること。第1部「失われた楽園」(現代のリスボン)から第2部「楽園」(1960年代のポルトガル領モザンビーク)への入り方がスムーズだ。デビュー作では「はしか」で寝込んでいた妄想時間が、新作では「楽園」の回想時間になったというわけだ。

老人ホームに入居しているベントゥーラを、昔の愛人アウロラの葬儀にクルマで連れ出したのは、ピラールという初老の女性。彼女が第1部の主人公であり、笑わない演技が光る女優、テレーザ・マドルーガが演じている。ピラールはアウロラの葬儀の後、ベントゥーラをお茶に誘い、結果としてアフリカ時代の話を引き出すのだが、なぜ彼女にそんなことができたのか。あまり楽しそうには見えない日々の中でも、ピラールは他人のために祈り、淡々と鋭敏に生きている。隣家に住むアウロラとアフリカ系のメイドから頼られ、社会活動に参加し、映画館へ通い、男友達に口説かれる。男友達から贈られた絵は礼儀として居間に飾り、隣家のメイドの誕生日には手作りのケーキとシャンパンを届け、ホームステイをドタキャンし彼氏とリスボンで過ごす学生にすら英語で語りかけおみやげを渡す。そんなピラールが、アウロラの禁断の秘密を受け取る役に選ばれたのは、自然の流れといえるだろう。

第2部はベントゥーラが語る楽園の日々。ロネッツの「Be My Baby」のポップな旋律がいざなう1960年代の記憶だ。リスボンの冬の数日間の重さとは対照的に、12月も1月も2月も3月も変わらぬ暑さで思考を剥奪するモザンビークの歳月がサイレント映画のように流れていく。

若き日のベントゥーラはジェノヴァを追われ、友人とともにアフリカに流れついた遊び人。投げやりな人生でありながら、アウロラのことだけは最後まで守りきる。その辺の遊び人の不倫とは格が違ういい話なのだ。演じているのはポルトガルが世界に誇るイケメン俳優、カルロト・コッタ。『自分に見合った顔』では目隠しされたテキサスを演じていた。

キャスティングと音楽、テーマモチーフであるワニが『熱波』の鍵。あとは、ボルトガルの歴史と、笑えない笑いの要素。『自分に見合った顔』では、大人になりきれない主人公が、30才の誕生日にガールフレンドから巨大なワニのぬいぐるみをプレゼントされていたっけ。

ショックで熱が出そうになったデビュー作も、『熱波』のおかげで美しい記憶になりつつある。この監督の登場で、もう、大昔の映画のほうが今の映画より断然いいなんて思わなくてすむかな。いつの時代も、その時代のクリエイターが、その時代を生きる人のために、過去を新しい形で継承していく。

2013-08-03