『10ミニッツ・オールダー』 コンピレーションフィルム /

10分×15本。玉石混合。


「イデアの森(チェロ編)」の8本を日比谷で見て、「人生のメビウス(トランペット編)」の7本を恵比寿で見た。「世界の巨匠監督15人による究極のコンピレーションフィルム」という触れ込みなのに、どうして同じ映画館で上映しないんだろう。チェロ編を先に見た人は、あまりのつまらなさに、恵比寿までわざわざ足を運ぶ意欲を失ってしまうのでは?というのは余計な心配ですが。

チェロ編はがっかりするような作品が多く、ならば自分で撮るぜ!と思う人が増えるかもしれない。ゴダールの「時間の闇の中で」は、たった10分の中にパゾリーニの最高傑作「奇跡の丘」やゴダールの最高傑作「小さな兵隊」や「女と男のいる舗道」でカール・ドライヤーの映画を見ながら大粒の涙を流すアンナ・カリーナのアップなどが引用され、編集センスの光る大満足な1本だけど、巨匠が左手でつくってる感じ。ズルイ。(選外)

トランペット編の7本は粒ぞろいだ。中でもトレーラーハウスでの10分間を描写したジム・ジャームッシュの「女優のブレイクタイム」のキャスティングはすばらしすぎ。クロエ・セヴィニーがこんなにいい女優とは。「ブラウン・バニー」で彼女をあんなふうに使ったギャロに比べ、こんなふうに使ったジャームッシュはモテモテのはず。女優という仕事、女という性のやるせなさを、彼は完璧に理解しているのだと思う。食事にタバコをさすシーンは歴史に残る心理描写。私もやってみよう。女優として。(1位)

ヴィム・ヴェンダースの「トローナからの12マイル」は笑えた。設定の不自然さや過剰な説明や陳腐な幻覚描写といったぎりぎりのダサさをポップな疾走感でさらりとクリア。幻覚のあとのナチュラルな日常に泣ける。女の子、最高。やっぱり映画はキャスティングなのだ。この女の子は男を救う役柄だが、実は映画全体を救っているのだった。(2位)

ヴェルナー・ヘルツォークの「失われた1万年」は、アマゾンの奥地の少数民族を撮った異色のドキュメンタリー。文明との接触による彼らの短期間の変化や白人女性とのセックス体験はショッキングだが、あざといシーンをあざとく撮ってもあざとさを感じさせない理由は、切実なシンパシーがあるからだと思う。撮影対象の異色さはこの映画の本質ではなく、重要なのは監督の視点の異色さだ。(3位)

ビクトル・エリセの「ライフライン」は長熟型の1本。このみずみずしさと緻密さは何?ゼロからオリジナルを生み出しているとしか思えないまっさらな描写。まっさらすぎて平和を描いたのか恐怖を描いたのかもわからない衝撃。ステレオタイプな決め付けとは無縁の絵づくりには心洗われる。「世界の最後の10分」を撮ったゴダールとは対照的に「監督自身の最初の10分」を映画にしているのだが、気が付けば、赤ん坊を眺めているはずの私たちが赤ん坊になっている。生まれて初めて感じた空気は、たぶんこんな感じだったろう。言葉以前の人間や歴史の手ざわり。どうして忘れていたんだろう?私たちは赤ん坊のように言葉を失う。光がしみこみ、リズムが体に刻みこまれる。あとは体内で言葉が解凍していくのを待つだけだ。

多作が求められがちな世の中で、寡作な人っていいなあと思える幸せ。あとで思い返すと、自分の体験のように思える幸せ。それがビクトル・エリセの映画の楽しみだ。注ぎ込む思い入れの強さ。たった1つの描写の強さ。何年もかけて味わいたいスペインワイン。(保留)


*2002年 ドイツ・イギリス
*上映中
2004-01-14

『ブラウン・バニー』 ヴィンセント・ギャロ(監督) /

女性ファンを捨てたギャロ。


「バッファロー’66」のギャロは可愛いけど、「ブラウン・バニー」のギャロは可愛くない。

彼は、もはや自分しか見ていない。プロデュース、監督、脚本、主演、ヘアメイク、衣装、美術、撮影監督、カメラ・オペレーション、編集のすべてをこなし、男のエゴと孤独をナルシスティックに突き詰めることで、中途半端なファンを切り捨てた。「バッファロー’66」は上質なエンタテインメントだが「ブラウン・バニー」はミニマムなロードムービー。彼は、女にもてるだけのかっこよさから、本物のかっこよさへと突き抜けた。

男の旅や仕事の空しさを、ここまで赤裸々に見せた映画があるだろうか。こんなもの、できれば見たくない。が、カメラを手に放浪する男たちのほとんどが、カッコつけすぎていてカッコ悪すぎる、という現実をふまえると、ギャロはよっぽどマシである。男が旅に出るんだったら、このくらいまでやらなくちゃ。あるいはカメラなんて持たずに出かけるか。

ギャロ演じる男は、ニューハンプシャーでのバイクレースを終え、次のレースのため、HONDAを黒いバンに積みカリフォルニアへと向かうのだが、この男がレーサーでよかったなと、つくづく思う。単なる放浪男だったら、許せません。かろうじてOKなのは、レースという男の仕事の途中だから。かつてバイクレーサーだったギャロは、実際にレースに参加して冒頭のシーンを撮影したという。細部の「本気」が、映画を「ギリギリのかっこよさ」へと導いているのだ。

男は旅の間、ずっとメソメソしている。「バッファロー’66」では、女にクルマのフロントガラスを拭かせる神経質っぽいシーンがあったけど、この映画のフロントガラスは、ずっと汚れたまま。拭いてくれる女は、いないのだ。

リリー、ローズ、ヴァイオレット・・・花の名前をもつ通りすがりの女たちを、男は、雑草を摘むようにナンパする。だが、彼には本命のデイジー(クロエ・セヴィニー)という花がいて、彼女のことしか頭にない。好きな女も支配できず、雑草も道連れにできない彼は、永遠に成熟できない「茶色いうさぎ」。根っこのある花たちに、走り続ける小動物の気持ちがわかるはずもなく、男はほんの少し蜜を吸い、自己嫌悪に陥るだけだ。

彼の屈折した感情は、デイジーとの再会シーンですべて説明されるのだが、私には、ギャロという監督が、クロエ・セヴィニーという女優に向かって「どうしてお前はハーモニー・コリンの映画に出たんだよ?オレの映画だけに出ろ!」と詰め寄っているようにしか見えなかった。

ギャロは、ハーモニー・コリンの「ガンモ」(1997)を本気で嫌っているらしいけれど、ハーモニー・コリン脚本、ラリー・クラーク監督の「KIDS」(1995)と「KEN PARK」(2002)は嫌いではないはず。だが、若者を偏愛し、彼らと楽しく映画を撮っているように見えるラリー・クラークやパゾリーニとは違い、ギャロは何者も愛せない。これはもう、ロバート・クレーマーに共通する個人的なドキュメンタリー映画といっていいんじゃないだろうか。ギャロは、彼の映画「Doc’s Kingdom」(1987)に出演しているらしいし...すべては、つながっているのだ。

渋谷シネマライズでは「年忘れハード・コアNIGHT」と称して「ブラウン・バニー」「ラストタンゴ・イン・パリ無修正完全版」「愛のコリーダ2000」をオールナイト上映していたけど、そうじゃなくて!
お願いだから、イエジー・スコリモフスキの「出発」(1967)とモンテ・ヘルマンの「断絶」(1971)とロバート・クレイマーの「ルート1」(1989)と一緒に上映して!


*2003年アメリカ
*上映中
2003-12-31

『ヴァイブレータ』 廣木隆一(監督) /

赤坂真理と中上健次と寺島しのぶと市川染五郎と大森南朋。


30歳になった途端にふられ、相手が別の女と結婚してしまう。これ、かなりキツそうな事件だ。寺島しのぶの場合、その相手は市川染五郎だった。らしい。

だが、失恋をバネにして…という古風な言い回しが似合うのも、梨園に生まれ育ち、前向きなパワーを持つ彼女ならでは。初エッセイ「体内時計」を読み、初主演映画「赤目四十八瀧心中未遂」と2作目の「ヴァイブレータ」を見てそう思った。尾上菊五郎と富司純子の娘として市川染五郎と結婚してしまったら、これらの仕事は、ありえなかっただろう。

車谷長吉原作の「赤目四十八瀧心中未遂」(荒戸源次郎監督)は、舞台女優である寺島しのぶの本領発揮といった感じ。5年前に原作を読んだ彼女は「映画化されたら綾ちゃんの役をやりたい」と著者に手紙を書いたほどの思い入れに加え、「娘がこんな作品に出たら自殺します!」と反対した母親に対し「やらせてくれなかったら自殺する!」とまで言ったそう。

一方「ヴァイブレータ」の寺島しのぶは、完全な「受身の色気」。広尾のcoredoで飲んでいたところ、脚本の荒井晴彦に「スカウト」されたのだという。失恋の傷跡が癒えぬうちに、そういう見初められ方をしたのだとしたら、赤坂真理原作のこのロードムービーが「いいもの」にならないはずがない。構築された演劇空間から偶然性を映し出すロードムービーへと舞い降りた彼女は、東京のコンビニに降る雪、4トントラックのアイドリング、車高の高い運転席の浮遊感、旅情をかきたてる新潟の風景等をバックに、素顔やきれいな顔やうれしそうな顔やこわれそうな顔を、ごく自然に披露してしまった。

笑ったり泣いたり取り乱したり質問ぜめにしたり…こんな面倒な女を受け止める男(大森南朋)って、すごい。もちろんそれは愛などではなく、桃を優しくむき、やわらかいものは大切に扱うといった天性のフィジカルな優しさだ。そんな男のことを、いちいち微妙に傷ついたり吐いたりしながらも、女はちゃんと見極めている。彼は名前を呼んでくれたか?自分を尊重してくれているか?別れた後も気にかけてくれるのか?
触ってほしい女もいれば、触ってほしくない女もいる。触ってほしい女にも、触ってほしくない時がある。そういうことを本能的にわかっているのが、フィジカルないい男だ。

脚本の荒井晴彦は、「赫い髪の女」(1979)というにっかつ映画の脚本を書いた人。原作は中上健次の「赫髪」で、拾ってきた女を食べる、というような「ヴァイブレータ」とよく似た小説だ。
ただし、フィジカルな優しさを積み重ねても愛にはならないし、ゆきずりのセックスに未来はないわけだから、フィジカルに優しい女はいい!ということだけを描いた「赫髪」は理解できても、「自分が、いいものになった気がした」という「ヴァイブレータ」には共感できなかった。ゆきずりのセックスで、どうして「いいもの」になれるわけ?

映画版「ヴァイブレータ」は、原作にない食堂での会話シーンが加わったおかげで、すんなりと理解できた。このシーンは、もはや愛だ。会話の内容が嘘だったとしても、愛に基づいた配慮に貫かれている。
原作のひりひりするような痛みは薄らいでしまったけれど、女の痛みを軽減させた分、大森南朋という俳優は「いい男」に格上げされたと思う。「ヴァイブレータ」は、ゆきずりのセックスどころか、恋愛のいちばんいい部分を凝縮した作品になってしまったのだ。なのに2人は、どうして別れてしまうの?私だったら別れない。
市川染五郎ファンなのに、大森南朋に傾いてしまいそうです。

*2003年/上映中
2003-12-24

『ゲアトルーズ』 カール・ドライヤー(監督) /

ピュアな映画は、腐らない。


「私の唯一の願望は、平板で退屈な現実の向こうに、もう一つの想像力による世界があることを提示することだ」~カール・ドライヤー

彼は、現実から余分なオリを取り除き、純度の高い原液のような映画を撮った。過激な絵づくりが際立つ無声映画「裁かるるジャンヌ」(1927)も、小津やパゾリーニを思わせる宗教家族ドラマ「奇跡」(1954)も、こんなマジに真実を突きつめちゃっていいの?と不安になるくらいの直球だ。

だが、いちばん凄いのは遺作の「ゲアトルーズ」(1964)である。他の2作と違い、ゲアトルーズという女は、火あぶりにされたり出産で死んだり奇跡的に蘇ったりしない。悲劇のヒロインではなく、幸せな現代を生き抜かねばならない「生身の痛い女」なのだ。

ゲアトルーズの愛に応えられる男は、一人もいない。夫も前夫も愛人も男友達も、彼女が要求する愛の水準に届かない。女が本気で愛を求めるとどうなっちゃうのかを、徹底的な描写で追求したコワイ映画である。

ゲアトルーズの愛人は、まだ若い。
地位のある夫と別れ、愛人と暮らそうとする彼女だが、愛人はお金もなく遊びたい盛り。彼女が離婚を決めても「僕らの関係は変わらない」と言い、「アバンチュールを求めているだけかと思った」「最初は上流階級の高慢さかと思ったけど、キミは魂が高慢なんだ」などと厳しいセリフを放つ。実際、2人がかみあわない理由は階級や年齢の差ではなく、魂の純度の差なのである。だから、彼に別の女がいるとわかった時、彼女はこう言う。「私は愛している。あなたは愛していない。これで終わりよ」。相手のレベルに合わせて「私ももう愛してないわ」などと対抗したりしないのだ。

ゲアトルーズの元夫は、未練がましい。
彼女の愛人が彼女のことを「最近の獲物」として友人らに軽々しく話すのを聞いた元夫は「僕が大切にしてきたものを、あんな若者に汚された」と本人よりも深く嘆き悲しむ。が、よりを戻そうと必死になる元夫に、彼女はきっぱりと言うのだ。「一度死んだものを蘇らせることはできないのよ」。

ゲアトルーズの夫は、世間体が大切。
彼女に愛人がいると知った夫は怒り悲しむが、激昂はしない。オペラへ行くと嘘をつく彼女を劇場まで迎えに行くシーンからは、彼の深い愛情が伝わってくる。が、いかんせん遅すぎるのだ。この夫、最後には「愛人がいてもいいから一緒にいよう」とまで言うのだが、こういうセリフも、彼女の高潔な魂には逆効果である。

というわけで、ゲアトルーズは3人の男を同時に捨てる。過去の男やマシな男をキープしておこうなどとケチなことは一切考えない。男友達のいるパリへ勉強に行く彼女が、さらっと飛び出すドアの外は、ドキっとするほどきらめいているのだった。

しかし映画は、彼女が老後に住む部屋のドアまでを描き切る。パリの男友達は、最後まで彼女を口説き続けるという素敵な役回りだが、結局のところ、彼女はこの男友達とも決別するという徹底ぶり!

愛に生きるとは、恋愛を繰り返すことじゃない。情にほだされず、自分を信じ、中途半端な愛を拒絶する強さをもつことだ。愛されても愛さず、愛されなくても愛し、相思相愛でなければ一人で生きること。最後まで決して後悔せず、愛に殉死してみせること。ブラボー!なんて潔いんだろう!こんな凄い女、カール・ドライヤーの映画の中にしか、存在しない。

*1964年デンマーク
*ユーロスペースで上映中
2003-12-17

『イン・ディス・ワールド』 マイケル・ウィンターボトム(監督) /

亡命者と旅行者は、似ているか?


デジタル・ビデオならではの真に迫る映像。個々のシーンは細切れだが、解説が入るからわかりやすい。パキスタンの難民キャンプからロンドンを目指すジャマールとエナヤットが今どこにいて、どれだけ時間が経ったのかが説明され、電話をかければ相手の様子が映し出され、ジャマールの話せる言語にはすべて字幕がつく。だけど1時間半という上映時間は短かすぎで、せっかく映像に力があるのだから、説明より描写で押し切ってほしかった。この映画は、コンパクトさや盛り上げすぎな音楽も含めてサービス過剰なのだ。

ドキュメンタリーではないがドキュメンタリー番組のようなこの映画は、パキスタンの難民キャンプで発見され主役に抜擢された推定年齢15才のアフガン人少年ジャマールの人生を大きく変えた。映画の撮影終了後、彼は映画用に取ったビザを使い、本当にロンドンへ亡命したという。一方、準主役で22才のエナヤットのほうは、すぐに家族のもとへ帰った。彼らの故郷のシーンにおける子供たちの表情は実に幸せそうで、アフガニスタンで生まれた親の世代はもちろん、難民キャンプで生まれた彼らが成長しても、皆が亡命しようと考えるわけではないだろうという当たり前のことを想像させた。

だが、お金と勇気ときっかけがあれば、亡命を企てる人は多いのだろう。そして、そんな自由になるための生き方ですら、今やお決まりのコースのひとつであり、そのためのルートがあり運び屋がいる。もちろん亡命者の切実さは、単なる放浪者や旅行者のメンタリティーとは次元が違い、悪質な密航手配業者に頼れば、金を騙し取られるばかりか命の保障もない。亡命に必要な能力とは、英語でジョークが言え、サッカーができ、母国語で祈れることなのだと私は確信したが、最終的に問われるのは、良いブローカーを見抜き、誰について行けばいいのか、どういう局面では逃げるべきなのかを瞬時に判断できる能力であることは間違いない。

蒸し暑いコンテナに密閉された亡命者たちが、イスタンブールからフェリーで運ばれ、40時間後にようやくトリエステに着いた時、生き残ったジャマールは保護されることを恐れ、いきなり走り出す。トリュフォーの「大人は判ってくれない」(1959)のジャン=ピエール・レオーを彷彿とさせるシーンだ。みずみずしい光に満ちたイタリアのバールでチープなブレスレットを売り、バッグを盗んで得たお金で汽車に乗り、フランスへ向かうジャマール。ロンドンまであと少しだ。今後、イタリアでバッグを盗まれることがあっても、あきらめるしかないなと思う。

ロンドンに着き、レストランで働くジャマールを見て、私は、先日行ったボローニャ郊外のピッツェリアで働いていた女の子を思い出した。彼女の表情は、私をものすごく不安にさせた。このピザはおすすめではないのか?もっとたくさん注文すべきなのか?私は何か悪いことをしたのか? 彼女はキェシロフスキの映画に出てくるポーランド女性のように見えたが、隣のテーブルのイタリア人によると、ボスニア出身だという。「彼女は絶対に笑わないんだ。自分の国がシリアスだからね」とその人は冗談っぽく彼女の表情をまねては大笑いし、なごませてくれた。ボローニャで働いている外国人の彼女とボローニャに遊びに来ている外国人の私は、地元の人には同じくらい不安そうに見えるのだろう。私は笑いながら話を聞いていたが、私が笑っているのは日本人だからであり、日本人らしいリアクションをしているだけなのだと思った。

*2002年イギリス
*ベルリン国際映画祭金熊賞ほか3部門受賞
*上映中
2003-12-04