『悪の対話術』 福田和也 / 講談社現代新書

エレガントな毒舌。


著者は、インターネットの会議室のような匿名メディアが嫌いだという。
「何よりもイヤなのはあの名前、ハンドルネームというのですか、あれがイヤなんですね。『みみん』とか『パオパオ』とか『毒林檎』とか。こんなバカな名前を名乗る奴の意見なんか聞きたくもないし、第一話し相手に値しない、と思ってしまう」

自分を他人に示すことを安易に考える今の日本人。その「救いようのない弛緩」が露呈していると彼はいう。世界の複雑さを前提に生きている人間なら、善をなすにも悪をなすにも意識的であるはずだと。自分がイノセントな存在ではないことを認識し、繊細な策略を巡らすことから、自らの運命を切り開く「悪の対話術」が始まる。

「私は、何でも思った通りに話せばいい、あるいはそういう無防備な関係こそが最高の人間関係であるというような無邪気な人が好きではないし、つきあいたくもないのです。さらに小声で申しますが、そういう人々は、あまり美しくない」
こんなふうに、わざと筆をすべらせて本音を語るこのテキスト自体が「悪の対話」のお手本だ。露悪的かつエレガントに言葉をあやつり、甘美な対話の本質に肉薄することで、読者はいつのまにか共犯者(っていうか弟子?)に仕立てあげられてしまう。

個人的には「救いようのない弛緩」も悪いことではないと思う。日本は今のところ平和であり、「弛緩」は私たちが意識的に選びとってきた結果でもある。テロ事件のせいで成田空港から飛行機が飛べなくなったとき、「せっかく休みがとれたのに残念」とカメラの前で不満げに訴える人がいた。その無邪気さ、危機意識のなさは、確かに美しくないかもしれない。 だが、逆に、こんな弛緩した国に住んでみたいと憧れる外国人だっているだろう。日本人全員が、いつも繊細に言葉を選び戦略的に対話していたとしたら、それこそ嘘っぽい。

一般にアメリカ人が愛想よくフレンドリーなのは、アメリカが移民の国であり、会う人間がどんな人間かわからないという意識があるからだと著者は指摘する。だから、とりあえず会った人に「自分は悪人ではない。あなたに危害を加えない」ということを示すために、にこやかに「ハーイ」といい、肩がぶつかれば即座に「パードン」というのだ。一方、日本は、むっつりした顔で歩いていても構わない同質社会。店に入るときも、他人の家を訪れるという緊張感はまったくなく、他人や世間にたいして馴れ合い、油断している・・・確かにそうだ。愛想のよさは鎧でもある。私の周囲にも今後、対話術に秀でたにこやかな人がふえるのかと思うと、恐い気もするが。

情報革命が進み、人が対面で会う機会が少なくなるにつれ、スリリングな「悪の対話術」は、ますます重要になってくる。 「対話に秀でることからもたらされる最大の果実は、対話するべき相手、あなたが話すことを理解し、同時にあなたが聞きたいこと、あなたを刺激し、楽しませてくれるような対話の機会に恵まれることにほかなりません」と著者はいう。

要するに、対話術を磨く理由は、対話自体をより深く楽しむためなのだ。この逆説は、チープな競争意識をあっさり陵駕する。「悪の対話術」でありながら、なんてピュアな結論なんだろう! マラソンの高橋尚子が、より楽しく走ることを目標に走っているように見えたことを思い出した。

中学時代、憧れていた男の子(その後ロサンゼルスで凶弾に倒れる)に「なんで勉強すんの?」ときかれ、うまく答えられなかったことが未だに気にかかっている私だが、今ならこう言えると思う。「もっと楽しく勉強するためじゃない?」って。
2001-12-16

『GO』 金城一紀(原作)/行定勲(監督) / 講談社

たたかうベッドシーン。


ロミオとジュリエットから始まり、クリスマスで終わる小説。

民族学校から日本の高校へ進んだ著者を救ったのは、難解な思想書ではなくエンターテインメントだったそう。クリスマスのシーンで終わる在日文学なんて前代未聞だから、どうしてもやりたかったんだってさ。それは、苛酷な現実に立脚したぎりぎりの「だささ」であり「かっこよさ」であり「面白さ」でもある。ここまでエンターテインメントの意味を突き詰めた作品は、純文学と呼ぶべきかも。

映画化された「GO」にも、そんなぎりぎりのバランスが貫かれている。在日韓国人の抱える問題を扱いながらもディープになりすぎず、30代のスタッフの感覚が自然に表現されていた。時間軸を再構成した脚本のセンスは素晴らしく、キャスティングも的確。窪塚洋介は、ヒネクレ者でありながらロマンチストな発展途上の男、杉原に息を吹き込んだ。スタッフもキャストも皆、原作に惚れているのだとわかる。

男の子がまともな反抗期すらもてなくなっている今、山崎努が熱演する最強の父親像は魅力的だし、きちんと人と向き合い、距離を測り、自己紹介し、それでもわかんない奴は殴るというコミュニケーションの古典的作法も新鮮。村上龍の「最後の家族」でひきこもりの長男の暴力が迫力に欠けるのは、戦う相手や打ち破るべき枠が見えにくいからだ。あの家族が現代の主流だとすれば、マイノリティを描いた「GO」は圧倒的にかっこいい。杉原の友人のセリフは、多数派の情けなさを代弁しているといえるだろう。
「これでけっこう大変なんだぜ、日本人でいることも」

無敵の杉原も、桜井(柴咲コウ)と出会うことで何かが狂う。失いたくない女の出現によって、男は初めて臆病になるのだ。だが、全身でぶつからなければ恋愛は進まない。それは、いつもバトルなのだと私は思う。重要なのは一線を超えることではなく、ぶつかること。異質な者どうしが理解しあうには、そうするしかないわけで。

「GO」のベッドシーンは、とても美しい。杉原は、桜井と一線を超える前に国籍を打ち明けるのだ。私は、村上龍の最高傑作「コインロッカー・ベイビーズ」の最も美しいシーンを思い出した。それはキクとアネモネが初めて結ばれた後の描写。

「服を着終わったキクは、帰る、と小さな声で言った。アネモネは喉が引きつった。どうしたらいいのかわからなかったが嘘だけはつくまいと決めた。行っちゃだめ、キク、ここにいて、行っちゃだめ。キクは立ったまま、俺は、と言って言葉を呑み込んだ。深呼吸をしながら窓際まで歩いた。『俺は、』カーテンを開けてもう一度言った。(中略)俺は、コインロッカーで生まれたんだよ、でも、俺は、お前が好きだ、お前みたいなきれいな女は―、アネモネはキクの唇を指で塞いだ。何も言わなくていい、と囁いた。肩に手をかけて背伸びし頬を合わせる。濡れたアネモネの髪の先から水の粒が落ちて鳥肌の立った背中で割れた」

「コインロッカー・ベイビーズ」も「GO」も、システムへの憎悪と破壊へのエネルギーをもてあます男の子の成長物語だが、2つの作品の間には20年の隔たりがある。キク(肉体性)とハシ(精神性)の両方を備えた現代のヒーローである杉原は、だから、彼女を手に入れる前に国籍を告白し、こう言われてしまう。

「どうしてこれまで黙ってたの? たいしたことじゃないと思ってたら、話せたはずじゃない(中略)ひどいよ、急にあんなこと言い出して、こんな風にしちゃうなんて」

女の子の、切実な気持ちが現れたセリフだと思う。
でも、2人は終わらない。本戦はクリスマスに始まるのだ。
2001-11-14

『エスター・カーン めざめの時』 アルノー・デプレシャン(監督) /

シンデレラ・ストーリーの嘘。


見たくないものを見せつけられる2時間25分。
殻に閉じこもった女が、それを打ち破るって、こんなにも大変なことなの?

ロンドンのユダヤ人街で育ったエスター・カーン(サマー・フェニックス:故リバー・フェニックスの妹)は、家族の中でも浮いてしまうほど内気で頑固で可愛げのない少女。理想の高い彼女は、やがて芝居に触発され、女優をめざすことになる。

もっとも女優に向いていないタイプの女が、女優に開眼するという話。それは怨念といってもいい。老優から演技指導を受け、「君には何かが欠けている。恋をしろ」といわれた彼女が、演劇評論家の男を選び、処女を失うくだりの不器用さには、不幸を超えた凄みがある。自分で相手を選び、自分で望んだできごとなのに、そこには恋愛の楽しさなんて微塵も感じられないのだから。貧しい家庭に育ち、満足に教育を受けていない彼女の野性は衝撃的。私たちはふだん、周囲の人々に愛され、美しく社交的に育った女性たちを見慣れすぎているのだろう。

エスター・カーンは、演劇評論家に別の女ができることから嫉妬に狂い、周囲に迷惑をかけまくる。それはほとんど「困ったちゃん状態」で、「手におえない嫉妬やわがままが許されるのは、明るくて魅力的な女だけじゃなかったっけ?」といいたくもなってしまう。恋愛の本当の楽しさ以前に、本当の苦しさを知ってしまった彼女は、自分の顔を何度も殴りつける。この凄まじい自傷シーンは、本来なら封印されるべきものだ。

こんな映画は、一人で見にいくしかないじゃない? 少なくとも、私は誰も誘えない。暗いし長いし悲惨だし。それでも、これを今、日本で見ることのできる幸福を強く感じた。

口当たりのよい物語や、興味本位の映像の断片に慣れきった目には、一人の監督の思いが注入された陰鬱な映画が安らぎと映り、灰色に閉ざされたイーストエンド・ロンドンの古い街並みや寒々した気候さえもが心を浄化してくれるのだろうか。この作品は、現実逃避のためのエンターテインメントでもなく、どこかの国のPR映画でもない。

エスター・カーンは結局、真の女優となることに成功するのだが、この結末はハッピーエンドですらない。単なる可愛げのない少女が、今後は、単なる屈折した女優になっていくことを予感させるのみだ。ちまたにあふれるシンデレラストーリーの、なんと表面的であることか。どんな物語も、人の醜さを本質的に変えることはないのである。

自己表現の手段を獲得することで苦しみが軽減されるなんて幻想だし、軽減されることがないからこそ、彼女はずっと女優でいられるのだろう。それは、表現や職業への逆説的な希望でもある。彼女は、これまでと同じように、一生、醜い人生を送るにちがいない。不器用に男に体当たりし、自分を殴り、共演者に迷惑をかける。でも、それでいいのだ。 私は表面的な希望の物語が嫌い。この映画は好きだ。

*2000年 仏・英合作
*東京(11/9まで)愛知(11/23~)大阪(11/24~)札幌(12/1~)
2001-11-06

『まもりやすい集合住宅』 湯川利和 / 学芸出版社

高層建築は崩壊する!?


9月11日に崩壊したNYのワールドトレードセンター。
その設計者であるミノル・ヤマサキは、1986年に癌で亡くなっている。

「崩壊を本人が見ずに済んだのが救いだ」という意見もあるようだが、本当にそうだろうか。それって、プロの建築家をなめた発言では? 彼は、もっとも重要な仕事をする機会を逃したのではなかったろうか。私は、彼が元気でいればよかったのにと思う。本人にしか言えない貴重な言葉を残すことこそが、彼の仕事の集大成となったかもしれない。

ミノル・ヤマサキは、1912年シアトル生まれの日系二世。貧困生活を経てワシントン大学を卒業し、3回の結婚生活後に最初の妻テルコ・ヒラシキと再婚。1970年代にワールドトレードセンターを完成させた。滋賀の神滋秀明会ホール、神戸の在日アメリカ領事館、都ホテル東京、セントルイス空港ターミナル、プリンストン大学、サウジアラビアの貨幣局や国際空港などの作品で知られる。

彼はまた「世界的に悪名高い公営高層団地」であるセントルイス市のプルーイットアイゴー団地(1955)の設計者でもある。本書には、1974年、この団地がダイナマイトで爆破撤去された事件の顛末が書かれている。

戦後、ル・コルビュジェとともに近代建築運動を起こした建築家たちは、ナチスから逃れて米国に移住し、高層住宅の時代を築いた。1950~60年代は、「民間建築よりは公的建築のほうが近代建築運動の新奇な考え方を、押し付けやすかった」時期だそう。施主が即ユーザーになる民間建築では新しい実験はやりにくいため、施主が役所である(しかも欧米ではスタッフは中産階級に属し、間違ってもそこに住まない)公営住宅がターゲットになったのである。

ル・コルビュジェの夢を実現させたとして高く評価されたプルーイットアイゴー団地の場合、実験がすべて裏目に出た。共同スペースは侵入自由な場所になり、犯罪を誘発し、空家率の増加を招いた。新奇なデザインは低所得者のシンボルとなり、住人が建物にプライドをもてなくなった。退去者が増えれば増えるほど、居住者集団による犯罪抑止力は弱まっていった・・・

「最後の段階になると、犯罪者が白昼堂々と屋内の廊下を歩き廻り、なお残って住んでいる世帯があれば、内開きのドアを蹴破って侵入し、いくばくかの金品を奪うなど乱暴狼籍に及んだ」という。著者が入手したこの団地の爆破撤去フィルムは1979年にNHKで放映され、本書に掲載されている小さなカットだけでも衝撃的。それがテロ攻撃ではなく住宅公社の仕事だとわかっていても。

この事件をきっかけに、NYの市営住宅15万戸について空間特性と犯罪発生との関係を調査したオスカー・ニューマンは、高層になればなるほど犯罪被害率が高いことを突き止めた。彼の著書の翻訳も手掛けている著者は、本書の中で、住宅事情が米国社会の差別構造や犯罪を増幅させた経緯をあぶり出し、日本でも深刻な事態に陥る前に根本的な対策を講じるべきとの考えから、欧米における防犯設計の多様な事例を分析。巻末には「高層住宅のチェックポイント30」まで付いている。

ビルにしろ住宅にしろ、高層建築はここまで危険なのだろうか。

安藤忠雄はこんなふうに言っていた。
「世界貿易センタービルは同じ規格のスペースが積み上げられた構造で、経済合理主義の権化のようなビルだ。(中略)いま、建築の世界でもこの米国流が世界を制覇している。世界には異なる文化、宗教、風土があるのだから、多様な建築があっていい。多様な価値を互いに認め、受け入れるべきだと思う」(10/2 朝日新聞)
2001-1030