『ウイークエンド』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

こわされる快感!


新鮮なニュースはインターネットで届くけど、斬新なメッセージは不意に過去からやってくる。
1967年の映画が、2002年の現実にくさびを打ち込む驚き!
ポップでキッチュでおしゃれで笑えるポリティカル・ロードムービー。それが「WEEK-END」だ。

悪夢のような週末は、こんなシーンから動き出す。遺産目当てにオープンカー(ファセル・ベガ)で妻の実家へ向かう夫婦。彼らはアパートの駐車場を出発する際、バックした勢いで後ろのクルマ(ルノー・ドーフィン)にぶつけてしまう。子供が騒ぎ出したため、夫は金を渡してなだめるが、彼は再び騒ぎ出す。かくしてルノーの持ち主である子供の両親が登場し、各自がペンキ、テニスラケットとボール、弓矢、猟銃といった武器を駆使しての乱闘となる。「成り上がり!」「ケチ!」「コミュニスト!」となじりあう2家族。徹底的にふざけたシーンだが、こんな些細なケンカこそが、あらゆる争いの原点なのだ。

延々と続く渋滞。おびただしい死体と事故車。非現実的なシーンの連続は、嘘っぽいけれど嘘じゃない。週末って本来こういうものなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

さまざまな困難が夫婦を襲い、実家への道のりは遠い。親を殺すという目標があるから、夫婦は力を合わせて生き延びる。が、本当はそれぞれに愛人がいて、遺産を手にした後は互いに死ねばいいと思っているのだ。クルマが事故った時、妻が絶叫する理由は、大切なエルメスのバッグが燃えてしまったから。このシーン、コメディなんかじゃない。人間って本来こういうものなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

妻が男の死体からジーンズを脱がして履こうとすると、夫は「それを脱いで道路に寝転んで足を開け」と言う。ヒッチハイクのためだ。妻が通りすがりの男に乱暴されたときも夫は平然としているのだが、最終的にこの夫婦、どっちが勝つか?ラストシーンは、一見残酷なように見えて、ちっとも残酷じゃない。 弱肉強食って本来こういうことなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

屋外で、ピアニストが下手なモーツァルトを弾きながら「深刻な現代音楽」を批判するシーンも印象的。これって、NYの個人映画作家たちへの当てつけだろうか? その代表的存在であるジョナス・メカスは1968年、「メカスの映画日記」の中で、「(ゴダールは)いまだに自由になるための最後のきずなを断ち切っていない」「いまだに、資本主義の映画、親父の映画、悪質な映画と通じ合っている」と断じている(by ミルクマン斉藤氏)。

たしかに「WEEK-END」は「深刻な現代音楽」(個人映画)ではないし「モーツァルト」(ハリウッド映画)でもない。商業映画へのアンチテーゼを同じ土俵で提示した「下手なモーツァルト」であり、モーツァルトの和音に基いた「POPな現代音楽」なのだと思う。

世の中のキレイ事やガチガチの文法を鮮やかに解体するこの映画は、感動や趣味や思想を一方的に押し付けたりしない。ただひたすら、こわすのみ。だから、見終わった後、とても軽くなれる。こんな映画がGWに上映されるなんて面白すぎ。渋滞の中をクルマで出掛けるか?この映画を観るか? 夢のような選択だ。

個人的には、登場人物の一人ジャン=ピエール・レオーのごとく、ホンダS800でエゴイスティックに逃げ切る旅が楽しいと思う。だけど、この映画を観てからお気に入りのクルマを選んでも遅くはない。人生100倍楽しくなることは確実!

*1967年 仏=伊合作 仏映画
*渋谷ユーロスペースで上映中
2002-05-03

『ルネッサンス - 再生への挑戦』 カルロス・ゴーン(著)中川治子(訳) / ダイヤモンド社

ビジネスに、希望はあるか?


「トヨタの人は自動車が好きだ。しかし本田の人は自動車を愛している。(中略)トヨタが愛しているのは自動車ではなく、むしろ製造システムなのではないか」(「インターネットは儲からない!」橘川幸夫著・日経BP社)

では、カルロス・ゴーン率いる日産が愛しているのは何か? 本書を読むと、答えは「製造の現場」かなと思える。ミシュランの工場勤務からキャリアをスタートした彼は、現場に緊張感をつくりだし、社員のモチベーションを高めることの重要性を身体で理解しているからだ。日産の「ルネッサンス」によって最も変わったのは、たぶん、現場の雰囲気なのだろう。

「近代ビジネスにおいて権力とは現場から遠いところにあるものだ。(中略)しかし、これからの時代は、現場が権力を取り戻す時代だと思う。現場に権力がある企業だけが生き延びる方法論を見つけるであろう」(同上)

カルロス・ゴーンは、グローバリゼーションを絵に描いたような人だ。ブラジルで生まれ、6歳からレバノンへ移り、大学時代をパリで過ごし、ミシュラン入社後はブラジル、アメリカと転勤し、ルノーに移ると同時にパリへ戻り、現在は妻と4人の子と共に東京で暮らしている。彼は言う。「『わが家だと感じるのはどこか』と訊かれれば、『家族がいるところ』と答えるだろう」

ミシュラン時代、コマツとの仕事で初めて日本に来た彼は、コマツの全従業員が同じユニフォームを着ていたこと、管理職がほとんどしゃべらなかったこと、工場のオペレーションが非常にシンプルであったことに驚く。感銘を受けて帰国した彼は、日本のマネジメント・スタイルが欧米のものとは異なり、先入観を持っていては通用しないことを理解する。

衝突するのでなく、相手のやり方に敬意を表すること。なぜ違うのかを時間をかけて考え、そこから学ぶこと。そうすれば、文化の相違は必ずイノベーションをもたらすだろうという彼の確信は、すがすがしいほど。複数の国で多様な文化環境を体験してきた彼にとって、「違い」とは「希望」そのものなのだ。

そんな彼が唯一、苦悩する場面がある。ルノーに引き抜かれ、ミシュランを去った時のこと。全面的に彼を信頼し、責任ある地位に起用し、バックアップしてくれた社長フランソワ・ミシュランにどう話そうかと悩み、何週間も心の中で準備する。

「会いに来た目的を話すと、彼は呆然として言葉をのんだ。私は理由を説明し、辞職によって生じるプラス面を強調しようとした。私の転職先はライバル会社ではなく自動車メーカーであること、この業界を去るわけでもなければ、会社が私の力を必要としている時期に去るわけでもないこと。しかし、どんな理由をつけようと、どんなふうに説明しようと、十八年間培ってきた関係を絶つという事実を言い繕うことはできなかった。話し終えたあと、フランソワ・ミシュランと私とのあいだの何かが壊れたことを感じた」

信頼関係を築くのはものすごく大変だけど、壊すのはとても簡単。だが、私たちは、それをやらなければならない時がある。自分が捨てたもの、壊したもの、傷つけてしまったかもしれないものについて意識的であること、その痛みを忘れないでいることは、生きていく上でいちばん大切なことかもしれないなと思う。

カルロス・ゴーンは、権力志向のビジネスマンではない。現場を尊重し、異質の相手を尊重し、自分のルーツや家族を尊重する。この3つがあるから、彼の前向きさは嘘っぽくない。信じてみようかな、という気持ちになれる。
2002-04-22

『恋ごころ』 ジャック・リヴェット(監督) /

勉強の似合う女子大生。


3月23日付けの朝日新聞に、「活字文化を知らない若者たち-思考柔軟な時期こそ読書を」という一文があった。
さる大学で「活字メディア論」を受けもつ稲垣喜代志氏(風媒社代表)は、授業の中で学生たちに短い作文を書いてもらったところ、中身の空疎さと幼稚さに驚いたという。

「『いま自分にとってもっとも大切なものは?』という問いに対して、『金』と答えた人が圧倒的に多かった。あ然としてしまった。そして、『家族』『恋人』とつづく。恋人のことも開けっぴろげだ。ウソでもいい。自分たちの未来のことや現在の自分を内省的に考えた文章などを書いてほしかったが、それは望むべくもなかった。(中略)"読まない""考えない"若者たちをどうするか。出口なしの状況をどう打開するか、一大危機である」

「ウソでもいい」っていうくだりが切実だ。実際、ウソの中にこそ面白さはあるのだろう。読書は、大切な「金」や「家族」や「恋人」に、まわりくどい肉付けをし、深みや広がりを与えてくれる。うすっぺらい現実をいくらオープンに語ったところで状況は閉塞していくばかりなのだから、知識や思考の蓄積を少しは参照しようぜってことなのだ。

私たちは、現実世界で孤独になったとしても、無理に話し相手を見つける必要はないし、莫大な携帯電話料金を払うためにバイトをする必要もない。古今東西の本の世界に足を踏み入れれば、誰もが孤独ではないことに気付くだろう。話の合う人を見つけるのは難しいけれど、本を見つけることならできるはず。本は、出会い系サイトなんかよりも、はるかにわかりやすく整理されている。

「恋ごころ」のテーマは、金であり家族であり恋人だ。ということもできるけれど、大切なのはそれだけじゃない。「古書との格闘」や「ハイデカーの引用」や「演劇のような日常」が、困難な状況を軽々と解決していく。迷宮のような劇場や書庫を舞台に6人の男女が繰り広げる、大人の恋愛コメディだ。

犯罪も不倫も嫉妬も、チャーミング。だって、それはコメディなのだから。たとえば舞台女優(ジャンヌ・バリバール)が元愛人(ジャック・ボナフェ)に監禁される顛末にも深刻さはない。彼女が天窓から逃げ出す印象的なシーンは、知性とユーモアこそが閉塞した現実を回避し、軽やかに抜け出す方法なのだと高らかにアピールしているかのよう。登場人物は皆、相手と本気でコミュニケーションしながらも、肝心なところですっと力を抜くのだ。

成熟って、たぶんこういうことなんだろうな。深刻に突き詰めるだけが能じゃないってこと。この映画、「恋ごころ」というタイトルではあるけれど、実は、世の中には恋愛よりも奥の深いものがあるんだってことを、さりげなく描いている。とりわけ図書館や書庫で調べものをする女子大生(エレーヌ・ド・フージュロル)のキュートさは新鮮で、勉強っていいなと改めて思う。

後半、劇場は笑いで包まれた。登場人物たちがどんどん魅力的になリ、テンポがよくなっていく。2時間35分という長さに意味がある映画だ。仏語の原題は「ヴァ・サヴォワール」で、ロベール仏和大辞典(小学館)によると「全然確かなことは分からない、なんとも言えない」という意味の話し言葉。なんか、かっこいいじゃん。鳥肌立った。

いま自分にとってもっとも大切なものは何だろう?
金でも家族でも恋人でもなく「ヴァ・サヴォワール」と私は言いたい。ウソじゃない。

*2001年 仏伊独合作 フランス映画
*3/29まで東京で上映中
*3/30より北海道、4/6より宮城で上映
2002-03-25

『家路』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

ある日、視線は逆転する。


1908年ポルトガル生まれ。10代の頃から陸上選手やレーシングカー・ドライバーとして活躍するかたわら映画に取り組むが、資金不足や興業の失敗で何度も映画界を離れる。80代で撮った「アブラハム渓谷」(1993)が世界的に絶賛され、現在も2台のポルシェを猛スピードで操りながら、毎年、新作を撮り続ける恐るべき90代。

監督のこんな経歴を知ってしまうと、予告編では「老いというテーマを扱ったほのぼの映画」と感じられなくもなかったこの作品に関しても「そんなはずはないだろう!」と勘ぐってしまう。

視線がものをいう映画だ。カメラの設置ポイントに、いちいちこだわりがある。主役の老俳優ヴァランス(ミシェル・ピコリ)の心情を表現するのは、彼自身の顔や声だけではない。彼の履いている「靴」や、彼が見ている「街」や、彼を見ている「相手の表情」や、ウインドウ越しの「聞こえない会話」など、どこか一部分が削ぎ落とされた映像が圧倒的な効果をあげる。

ヴァランスは、妻と娘夫婦を事故で失うが、彼も、彼の孫も、周囲の人々も悲しんだりしない。というか、この映画は、誰かが大袈裟に悲しがるようなシーンを映したりしないのだ。回想シーンもないし、ヴァランスが毎朝眺めている(ように見える)家族の写真すら画面には映らない。本当の悲しみは表面に見えるものではないという当たり前のことが描写されるのみ。洗練されている。

テーマは「老い」でもなく「家族」でもなく「家路」だ。仕事と家の間にある家路は「街」と言い換えてもいい。俳優とは、いつまでも若々しくいられる仕事であり、そのことは、光り輝くパリの街を散歩するヴァランスの日常から推察できる。通俗的なテレビ映画への出演は断るなど仕事にポリシーをもっているからこそ、プライベートでは役を離れて自分らしく過ごせるのだ。 街でお洒落な靴を選び、ファンにサインを求められ、孫と一緒に遊び、若い共演女優に惚れられる。強盗に身ぐるみ剥がされた時ですら、惨めなのはどちらかというと強盗のほう。このとき、視線の主体はあくまでもヴァランスにあり、強盗は弱者なのだ。

彼の視線は、アメリカの監督(ジョン・マルコヴィッチ)の依頼による不本意な代役を引き受けてしまうことから、次第に輝きを失っていく。英語の作品である上に十分な稽古の時間がとれないため、彼はセリフを覚えられず、スランプに陥るのだ。与えられたのは年齢よりも若い役だが、メイクやカツラで若づくりをするほどに老け込んでいく鏡の前のシーンは凄まじい。それは、この役が彼に向いていないことの赤裸々な証しなのだ。

この映画のメッセージは、好きな仕事をやれってこと。 縁のない仕事、相性の悪い仕事はやらないほうがいい。そうすれば、いつまでも楽しく生きていけるだろう。だが、ちょっと油断すると、そうはいかなくなる。若者でも老人でも同じことだ。

ヴァランスは家へ帰る。彼には周囲を見る余裕がなくなり、彼をとりまく周囲の視線が主体となる。つまり視点が逆転するのだ。 彼が日々、温かい視線を注いできたパリの街や、一緒に街歩きを楽しんできた観客の私たちが、元気のなくなった彼を不安げに見守ってしまう。

視線というのは、それだけであたたかい。そう思えることがある。最後の最後に、この映画の主役は、本当にすりかわる。自分がつらいとき、誰かがこんなふうに心配しながらも頼もしい視線で包んでくれたらいいな。そんな視線に素直に甘えることができたら、幸せだと思う。

*2001年ポルトガル=フランス合作
*北海道、東京で上映中。大阪で近日上映。
2002-03-19