『22:19:43 - 23:04:40』 園子温 (監督)

見えない空気を凝視する 1




ワタリウム美術館で開催中の『Don’t Follow the Wind - Non-Visitor Center』展を見た。福島県内で行われている『Don’t Follow the Wind(DFW)』のサテライト展である。Don’t Follow the Wind(風を追うな)というタイトルは、原発事故による被曝を避けるため北西に吹く風とは逆に東京へ逃げた避難者の話に由来し、Non-Visitor Center(非案内所)というサブタイトルは、国立公園などのVisitor Center(案内所)に由来する。

DFWには12組のアーティストの作品が展示されているというが、今は見ることができない。開催場所が、東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う放射性物質汚染のため、一般の立ち入りが制限された帰還困難区域内にあるためだ。年間積算線量が50ミリシーベルトを越える場所があり、事故後5年以内に20ミリシーベルトを下回ることが困難と判断されたこの区域からは、約2万4千人の住民が避難し、仕事や一時帰宅などが必要な人のみ国や自治体の許可を得て入ることができる。つまりDFWは、この区域の封鎖が解除されるまで見ることのできない展覧会なのだ。

ワタリウム美術館の2階から4階を利用したサテライト展には、DFWを想像させるためのさまざまな仕掛けがあった。2階にはDFW鑑賞券や関係者が展示会場に入る際に発行された許可証、展示会場の鍵などがあり、DFWが架空のイベントではないことが理解できた。3階の「疑似体験エリア」はエレベーターで行くと封鎖されており、2階に戻って急勾配の木造仮設階段をのぼり、やぐらのような狭い高所からガラス越しに展示を見なければならない。DFWの開催場所が快適な環境にはないことを思わせた。

4階へ行くと、さらに「現地」の空気に近づいたような気がした。いや、遠ざかったというべきか。照明を落とした部屋のメインディスプレイに、園子温監督による約45分間のドキュメンタリー映像が流れていた。東京とミラノとベルリンをスカイプで結び、DFWの参加アーティスト3組の対話をリアルタイムで撮ったライブ作品。その中心である東京は夜で、あえて屋上のような風の強い場所で収録がおこなわれている。園子温監督らしいドラマチックな演出に気を取られ、この部屋が別の映像を流す複数のディスプレイに囲まれていることがわかったのはしばらく経ってから。それらは、スカイプと同じ時間に撮影された帰還困難区域のライブ映像だった。

このインスタレーションには、東京のノイジーな夜を福島と対比させる意図があるのだろう。帰還困難区域の夜は暗い穴のようで、逆にそちら側からひっそりと見つめられているようだ。夜の東京は、昼のミラノやベルリンとは簡単につながるのに、同じ時間の福島とは遮断されている。なぜなら、そこには人がいないから。同じ空を共有していても、心理的距離はヨーロッパよりも遠い。

3組のアーティストはDFWについて話していた。率直な質問が飛び交い、自分の作品や帰還困難区域に入った時の体験が交互に語られる。ミラノのアーティストは、以前入ったチェルノブイリの印象と比較していた。放置されゴーストタウン化したチェルノブイリに比べ、多少なりとも人の往き来がある福島には、何とかしようとする意志のようなものが感じられたという。このような未来への思いをつなぐのがDFWの役割なのだろう。

DFWの展示会場は、荒れたままの民家であるらしい。福島に関する報道が減っていることもあり、現地の人々は概ね協力的だという。忘れたい人、思い出したくない人、報道に辟易した人も、チェルノブイリのような未来は望まないはずだ。これまでの報道が取りこぼしてきたのは、たとえば、何事も起きていないかのように見える静かな夜を映し続けることだったりするのではないかと思った。


2015-10-1

『神さまのいる書店 まほろばの夏』 三萩せんや

この夏、つれていってほしい場所。




不器用で本が大好きな高校2年生ヨミは、夏休みも図書室に通おうと思っていたが、司書教諭のノリコ先生に「本へ、恩返ししてこない?」と言われる。夏の間のバイト先として「まほろ本」を扱う秘密の書店を紹介されるのだ。まほろ本とは、生き物の魂が宿った本。通常なら肉体に宿るはずの魂が本に宿ってしまったため、あるべき肉体の姿がホログラフィのように本にくっついている。子犬の魂が宿った本には子犬の姿が、イケメンの魂が宿った本にはイケメンの姿がセットになっている。まほろ本についた生き物は自在に動き、コミュニケーションできるが、ひどく破損すると死んでしまう。

つまりこれは、本のわかりやすい擬人化。ヨミは、まほろ本のサクヤに惹かれていく。無遠慮に毒舌を吐くサクヤと次第に心を通わせるプロセスは、ラブコメの王道だ。
「ただの好奇心かもしれない。彼が、世にも珍しいまほろ本の中の人だから。けれど彼のことが知りたい。その気持ちは、本物だ。彼の話が、聞きたい」
サクヤは、人間の姿をしているけれど触れることはできない。ヨミはやがて、そんな彼の本当の思いを知ることになる。

てらいのない文章。とぼけた味の会話。なつかしい夏の匂い。背後に巣くう寂しさ。この小説の、地に足のついた現実感は一体なんだろう。そして「心を手放しで人に晒すのは怖いことだ」という言葉。ありえないファンタジックな物語に、気づけばのめりこんでいた。

ダ・ヴィンチ「第2回  本の物語大賞」の受賞作だ(KADOKAWAより7月31日単行本発売)。著者自身が、本に対して恩返しをしたかったのだという。だから、本に命を吹き込む物語を書いた。その愛情の確かさは、ファンタジーなんかじゃない。

「その設定が浮かんできたのは、勤めている大学の図書館で、本の修復作業を教えてくれた上司が、本に対して『この子』って言い方をしているところからでした。『この子、ぼろぼろになって帰ってきたね』とか『この子、入院しないとね』とか、まるで人や動物のように本と向き合うその姿から、この物語の原型が生まれてきました」(『ダ・ヴィンチ』9月号著者インタビューより)

読後感はすーっと軽くて、あとから心地よい重さがついてくる。まるで本に魂が宿るみたいに。「まほろば屋書店」が忘れられなくて、最後の1行に泣きたくなる。ものの見方が変わると世界が変わるというシンプルなメッセージに心を打たれた。


2015-7-31

『LIVE SUPERNOVA 野音DX』 J-WAVE TOKYO REAL-EYES (プロデュース)

千代田区日比谷公園1-5




201567日、J-WAVEの番組「TOKYO REAL-EYES」がプロデュースする102回目のライヴ・イベントがおこなわれた。会場は、198484日の反核コンサートで10代の尾崎豊が7mの照明台から飛び降りて骨折するなど、数々の伝説をもつロックの殿堂、日比谷野外音楽堂。

軽装備で足を運べるアクセスの良さがうれしい。お天気がよく、風が肌に心地よい。飛ぶように売れていくビールが喉に心地よい。藤田琢己のMCが耳に心地よい。梅雨入りの前日、官庁街の森で楽しむ野外フェスは、お台場の海で楽しむスタンドアップパドル・サーフィンのようなもの? それとも、大手町の摩天楼で楽しむアマンスパのようなもの? 

出演バンドは「LEGO BIG MORL」「WHITE ASH」「SHERBETS」「The Birthday」。

LEGO BIG MORLの新曲『Strike a Bell』は、体を直撃する重低音と、大気に溶けてゆくディレイの効いた高温のミックスが完璧すぎてやばい。これほどストレスのない環境でこれほど耳あたりのいい音を聴いていたら思考が停止してしまう。

WHITE ASHのボーカル&ギター、のび太は、野音初ライブであることをアピール。あまりにフレッシュなパフォーマンスは、イギリスのインディーズバンドみたいに見えた。瞬間、私はイングランドのグラストンベリー・フェスの会場にいた。

SHERBETSの『グレープジュース』の辺りから陽が落ち、いわゆるマジックアワーに突入。こんなにも不条理な世界に音楽が調和している奇跡。デストピアのダークファンタジーが炸裂し『Touch Your Shoulder(君の肩にふれて)』で即死。

夜はThe Birthdayがさらった。チバユウスケは、ミスしても空を指差し「さっき飛行機飛んでたよ。見てたら間違えちゃった」と余裕。「まだ、やってもいいんだってさ」とアンコールを2曲。『くそったれの世界』に『涙がこぼれそう』。

10年もライヴ・イベントをやっていると、こんなご褒美みたいな夜がある」
「ここから見える景色、絶景です。1人でも欠けていたらこの風景はなかった」

藤田琢己はそんなふうに言っていた。きれいごとみたいな言葉を、きれいごとではなく、観客に響かせてしまった。

2015-6-9

『Mommy』 グザヴィエ・ドラン (監督)

美しい中二病。



今、事務所でバイトしてくれている19歳の大学生Y子は、グザヴィエ・ドランの映画が好きだという。うれしい。
6年前、グザヴィエ・ドランは、自ら監督・脚本・主演したデビュー作「マイ・マザー」(原題:I killed my mother)を19歳で完成させたが、脚本を書いたのは17歳、大学中退直後だったという。すごい。
30数年前、大学を休学し、映画の現場で働いていた諏訪敦彦監督は、もはや大学で学ぶことなどないと思っていたが、初めて自分の映画を作ってみたところ、クリエイションにおける未知の跳躍を可能にするのは経験ではなく自由の探求であることに気付き、大学に戻ったという。おもしろい。
35年前、ジム・ジャームッシュが撮ったデビュー作「パーマネント・バケーション」は、ニューヨーク大学大学院映画学科の卒業制作だったという。かっこいい。
今、大学の映画学科に在籍しているXY子の同級生だが、往復4時間かかる通学時に、パソコンで映画を2本ずつ見ているという。うらやましい。

グザヴィエ・ドランは、映画と本に没頭した高校時代を経て、大学(ケベック州の大学基礎教養機関CEGEP)に入ったが、すべての文には主語と動詞があると主張する教師と議論になり、2か月で中退したのだった。「ぼくは彼女に言ったんだ。『先生、もしも偉大な作家がその種の規則を守っていたら、文学は存在しなかっただろうし、それを教えるあなたの仕事もなかっただろうね』と」(W magazine インタビューより)

彼の映画は、一瞬一瞬が月並みじゃない。諏訪監督がいうところの未知の跳躍? でも、扱っているテーマはごく普遍的だ。若くしてなぜ、世の中の成り立ちをそこまで理解しているのかと思うけれど、それは多分、誰よりも深く感じているから。既知の感覚をとことん突き詰め、濃密な映像や言葉へと爆発させるエネルギーの源泉は、大胆さではなく繊細さなのだろう。ぶっちぎりのファッションセンスで世のタブーを白日のもとにさらす才能は、成熟ではなく未熟さがもたらすものだ。わかりやすいのに意表を突かれ、ありふれた感覚に打ちのめされる。

Mommy」の見所のひとつは、主人公のスティーヴがスケートボードで公道を走り、自分をフレーミングしている正方形のスクリーンを両手で左右に押し広げる場面。この無邪気な爽快感は、スピルバーグの「E.T.」で自転車がふわっと宙に浮く名場面に通じる。スティーヴが聴いているのはオアシスの「ワンダーウォール」という王道ぶりだが、この曲は、スティーヴの亡き父親が編集したコンピレーション・アルバムの一曲という設定なのだ。

閉ざされた場所から開かれた場所へ。グザヴィエ・ドランの映画は、自分を否定されることへの強烈な恐怖がベースになっている。登場人物は、閉ざされた不自由な場所で、愛する人を肯定し、否定する。自分自身を肯定し、否定する。答えが出ないから、しつこく繰り返す。そんなふうにじたばたする日常の中で、偶然のような風景が見える。何もしなければ、出会えなかったものだ。答えは得られなくても、その瞬間の官能性こそが希望。解決できない問題こそが希望であるということだ。

自分が発した「いちばん大事な言葉」を、大切な人は聞いていないかもしれない。大切な人が発した「いちばん大事な言葉」を、自分は聞き逃すかもしれない。それでも大丈夫。

デビュー作「マイ・マザー」(2009)は、母親に対する16歳の少年の視点が中心だったけれど、「Mommy」(2014)は、15歳の少年に対する母親の視点が中心になっていた。急激な進化は、切なくもある。ハリウッドへ進出しても、閉ざされた場所から開かれた場所を希求する思春期の感覚で、「美しい中二病」的な映画を撮り続けてほしいと思うから。

2015-5-6