『灼熱』 ダリボル・マタニッチ(監督)

「灼熱」と「逃げ恥」のあいだに。





ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』が話題だが、これはハンガリーのことわざ“Szégyen a futás, de hasznos”(=Running away is a shame, but it is useful)に由来するタイトルだという。その意味は“Choose your battles”7つの国と接し、海という逃げ場もないハンガリーにおいては「生きのびるために、戦い方を選べ」という生死に関わる教えなのだろう。

日本語でも「逃げるが勝ち」「負けるが勝ち」「君子危うきに近寄らず」など似た言葉があるが、無駄な力を使わずにすむ勝ち方や、戦わない美徳を説く精神論的なニュアンスが強い。

ハンガリーに興味を抱くきっかけになったのは『カフェ・ブタペスト』(1995)という映画だった。社会主義が崩壊し、民族と言語と情報が交差する都市の熱狂が描かれていた。しかし昨年、ハンガリーはEUが合意した難民割り当てを拒絶し、セルビアとの国境、そしてクロアチアとの国境を封鎖した。あらかじめトラブルの種を避ける「逃げ恥」戦略なのだろうか。

『灼熱』は、4つの国と接しているものの、国土が細長く、アドリア海に面してもいるクロアチアの映画だ。国内におけるクロアチア人とセルビア人の対立がテーマであり、国境を持たない日本人としても共感できる要素は多い。何よりクロアチアは親日国で、1992年に独立した際、日本がアメリカよりも早く承認したことを恩義に感じているのだという。

とはいえクロアチア人とセルビア人の憎しみ合いの歴史と心情は、簡単に理解できるものではない。1975年クロアチア生まれの監督だって、たぶんそうなのだろう。監督がこの映画を撮ったきっかけは、ガールフレンドの話をするたびに、愛情深い祖母が彼に放った冷酷な言葉「その娘が向こうの人間(=セルビア人)じゃなきゃいいよ」だったという。

3つの時代の、愛に関する物語だ。これはこの国で反復されてきた「引き裂かれた愛の形」であり「戦い方を選べ」という教訓でもある。戦時下の悲劇を描いた1991年の教訓は「理由なく撃つな」。戦時の記憶がまだ生々しい時期の葛藤を描いた2001年の教訓は「愛にタブーはない」。そして、後遺症の鈍い痛みを描いた2011年の教訓は「思いはいつか伝わる」。

理不尽な悲劇への憎しみを超えた慟哭、ままならない状況における性愛の爆発、そして、かつて逃げた男に対して最終的に女が開け放つ家のドア。いずれの愛も、成就するはずだったのに、一体どうしてくれるんだ? 同じ俳優によって演じられる、鋭利な刃物のようなそれらの表現は、ものすごくシンプルで、迷いがない。
                                                                      
時代が進むにつれ、希望が持てる状況になっているのだろう。しかしその先はどうか。ねじれにねじれて恋愛は困難さをきわめ、挙げ句の果てに「逃げ恥」的ドラマがヒットするような成熟国になるのだとしたら。それはそれで、とても大きな欠落のような気がしてならない。

2016-12-19

『母の残像 Louder Than Bombs』 ヨアキム・トリアー(監督)

あるがままの真摯さに、しびれる。





大好きな作家にインタビューする夢が叶い、彼女が、定型の面白さを注意深く排除することで、純粋に面白い作品を書いていることを知った。天の邪鬼ということではない。それこそが、世界をあるがままに受け止める素直さなのだ。

『アスファルト』(2015・サミュエル・ベンシェトリ監督)の世界から抜けられずにいる。何らかの喪失を抱え、心理的に迷子になった団地の住人たちについての映画だ。不時着したNASAの宇宙飛行士を、言葉も通じないのに息子のように世話する老女。隣に引越してきた《わけあり女優》を、ごく普通に助ける《美しい10代の青年》。団地の中で迷走し、外へ出ることで《運命の看護師》と出会う中年男性。伝わるはずがないという前提で、奇跡的にコミュニケーションが成立する瞬間が描かれていた。それは、自らの弱さを自覚し、率直に、対等に、いちばん大切なことを伝え合う、愛以前の美しい交流に見えた。

こんな世界に浸っていたくて、《運命の看護師》役のバレリア・ブルーニ・テデスキが重要な役を演じる『人間の値打ち』(2013)や、《美しい10代の青年》役のジュール・ベンシェトリの祖父が主演する『男と女』(1966)を見たが、その延長で、またまた凄い作品に出会ってしまった。《わけあり女優》役のイザベル・ユペールが、母であり女でもある戦場カメラマンを演じる『母の残像』(2015)だ。

ひとことでいえば、定型を排除した家族愛の映画。最初のシーンで、赤ん坊の小さな手が大人の人差し指をつかみ、その指が若い父親(ジョナ)のものであることがわかる。妻が出産したばかりの病院。心温まる誕生シーン? いや、そういう普通の物語じゃない。

誰もが内密の不安を抱えながら、大事な人を心配している。そこに上下関係はない。誰かが誰かに向けるまなざしのすべてが真摯であるという真っ当なことが、見たことのない表現方法で描かれている。見て見ぬふりをしながら、愛する人を、そっと見守っているのだ。見て見ぬふり、わかっているのにわかっていないふりが、この映画では愛になる。衝撃だった。

ジョナの母親は、3年前、57歳で亡くなった。クルマの事故ということになっているが、自殺のようでもある。ジョナは、母親の遺品の整理という名目で、父親と弟が暮らす実家に、妻子を連れずに戻ってくる。

母親の死の真相を知らない弟コンラッドは、何をしでかすかわからない、妄想まみれの危うい思春期を生きている。だがジョナは、馬鹿だと思っていたコンラッドの才能を見出すのだ。個性的な弟が、その芽を摘むことなく今を生き抜くための、兄の的確なアドバイスが泣ける。そして弟もまた、兄の不安を見抜いているという事実。

コンラッドが、叶う見込みのない恋の相手とパーティで話をし、彼女を家まで送るシーンは忘れられない。家に着くころには夜が明けている。一緒に歩いた魔法の時間を彼は忘れないだろう、ということを、あまりにも、あるがままに描き切った神聖な情景。その時間の美しい希望は、簡単に成就するわけではないが、記憶は永遠だ。真摯であるべきときに真摯であることによって、私たちは、かけがえのないギフトを受け取れるのだろう。

愛は永遠じゃない。形を変える。でも、その形を焼き付けることはできる。たとえばこの映画のように。

2016-11-29

『ジニのパズル』 崔実(チェ・シル)(『コンビニ人間』村田沙耶香 )

芥川賞は、とっても、とらなくてもいい。





ジニは日本生まれの韓国人。18歳の勝ち気な女の子だ。中学から朝鮮学校に通い「世界からたらい回しにされるように、東京、ハワイ州、そしてオレゴン州と巡りめぐって来た」。
そんな彼女に、ホームステイ先のおばさん、ステファニーは言う。
「あなた、ここに来る前に何かあったのかしら」
「あなたは、とても哀しい目をしているわ」

ジニがステファニーに、日本でのできことの概要を話すと、ステファニーは言い切る。
「それが事実だとしたら、あなたはいつか絶対に話さなければならないわ。たとえそれが私でなくても、誰かには、絶対によ」

ジニは、記憶の断片を綴り始める。
「いつか誰かが言っていた。よく笑う人間は、沢山傷付いた人だと。心から優しい人間は、本当に深い傷を負った人なのだと。でも、と私は考える。沢山傷付いた人間が、数え切れないほどの人たちを自分以上に傷付けてきた場合、それは果たして優しいと言えるのだろうか? 自分の傷を言い訳に、よりによって最も大切な人たちを、傷付け、騙し、欺き、追いやり、日の当たらぬ闇の底へ ー 自ら這いつくばって抜け出すしかない奥底まで突き落とした人間。それが私だ。これは、そんな私の物語なのだ」

未知のエネルギーをもてあまし、世界と対峙する革命志向の少女は、がむしゃらに言葉を発し、行動を起こす。洗練とは真逆の荒削りさの中に、時折、内臓から絞り出されたような鮮烈な表現が飛び出す。

この小説は、芥川賞候補になったが、選ばれずに次点となった。芥川賞に決まったのは、画一的な世間の常識から浮いてしまう「36歳、恋愛経験なし、コンビニバイト18年目」の女性を描いた『コンビニ人間』。どちらも圧倒的な熱量を秘めた作品で、まるで村上春樹と村上龍が一度に登場したかのよう。実際、審査員の村上龍は『コンビニ人間』を絶賛していた。

村上春樹は、芥川賞をとっていない。選にもれた『ジニのパズル』は、村上春樹の『風の歌を聴け』やアゴタ・クリストフの『悪童日記』みたいに多言語に翻訳され、世界で読まれてほしい。日本ではたぶん、評価が難しいだろうから。

世の中に解決不能な問題が山積みなのは、それでも次々と新しい命が生まれるのは、このような小説が書かれるためなのではないか? せめて、そんなふうに思いたい。

今月24日、イタリア中部地震が発生した日、イタリアの作家ロベルト・サビアーノは村上春樹の阪神大震災にまつわる短編集『神の子どもたちはみな踊る』の一節をツイートしていた。
「石はいつか崩れ落ちるかもしれない」「でも心は崩れません」「どこまでも伝えあうことができるのです」Sul terremoto di Kobe Murakami scrisse che la pietra va in frantumi ma il cuore no e aiutando "possiamo trasmetterlo gli uni agli altri".


2016-8-31

『FAKE』 森達也(監督)

ペテン師は監督のほう?





佐村河内守氏の自宅に密着し、その素顔に迫る映画ということになっている。キッチンカウンターのあるダイニングでカメラを廻していると思われる森監督も、ときどき喋ったり映ったりして「出演」する。

あるときは、佐村河内氏の妻がハンバーグを焼き、テーブルで食事を始める夫婦の様子をカメラが映し出す。豆乳ばかり飲んでいて、なかなかハンバーグに手をつけない佐村河内氏に、どうして食べ始めないのかと森監督の声がふいに飛ぶ。佐村河内氏のしどろもどろのゆるい回答に、映画館は笑いに包まれる。いい人か悪い人かはよくわからないけれど、突っ込みどころの多い言動を無意識に選択してしまう、天然な人だということはよくわかった。

あるときは、このテーブルで妻に手話通訳してもらいながら取材を受ける。あるときは、客が帰った瞬間に疲れたー!と脱力して森監督をベランダに誘いタバコを吸う。あるときは、自分を揶揄するテレビ番組を見て不快感を露わにする。夫婦が可愛がっている猫は、時折、カメラに向かってFAKEかどうかを品定めするような動きをする。

メディアに翻弄され続けている人という印象だ。善人なら善人なりの、悪人なら悪人なりの、もっと器用な対処の仕方があるのではないか。あやふやな人は、メディアリンチの餌食となる。聞こえるのか聞こえないのか、10かはっきりしろと言われる。ゼロでないならどこまで聞こえるのか、いつからゼロでなくなったのか、どんな時に何がどう聞こえるのか、と。

本当はいい人なのに、不器用なせいで戦略に乏しくいかがわしい人に見えてしまうのかもしれないし、本当はペテン師なのに、詰めが甘く哀れな人に見えてしまうのかもしれない。素直で憎めない人のようではあるが、素直なゆえに乗せられやすく発言をころころ変え、結果的に人を欺いているのかもしれないし、もしかするとそのすべてが演技であるのかもしれない。

このような誤解を与えやすい曖昧なキャラクターに目をつけ、操作していく森監督はとてもおもしろい。佐村河内氏をどう口説いたのだろう。真実を伝えるから一緒に心中しようと言ったのだろうか。

佐村河内氏を年末のバラエティ番組に出演させるために、テレビ局の責任者が3人がかりで説得に来るシーンがある。それなりに誠実な言葉で口説いてはいたが、佐村河内氏は後日、出演を辞退する。この選択ははたして賢明だったのか。オンエアされた番組はとんでもないものだったのだ。まるで出演を断った報復であるかのように。

傷心の佐村河内氏に、森監督はこんなことを言う。「テレビには信念なんてない。出演した人をどう使って面白くするかということしか考えていない」と。このとき森監督は、強いアドバンテージを感じただろう。佐村河内氏は、森監督だって同じじゃん、と気付いていただろうか。森監督は、そこまで俺はひどくないけど似たようなものだよ?わかってる?大丈夫?俺はやっちゃうよ!と自白しつつ布石を打ったようなものだ。このあたりから、映画の主体は森監督になっていく。

「そこまで俺はひどくない」の部分が、映画監督としての矜持だろう。そのとき森監督は、映画のクライマックスにつながる2つめの重要な口説き文句を思いついたのではないかと思う。あんなことをこんなふうに言われたら、誰だって腰が砕け、自分は愛されていると嬉しくなるだろう。もはや森監督の独壇場。弱みにつけ込みつつ、それを強みに転換しようという、独創的だがFAKEかもしれない提案にしびれた。

映画のパンフに寄せられた長文の中に、緑川南京氏の『同業者から見た森達也と「FAKE」』という一文があった。森監督の素顔に迫る内容で、毒舌ぶりが冴えている。この2人の関係ってスゴイなあと2回も読んでしまったが、緑川南京氏がどういう人なのかを調べ、騙されたことに気付く。自分も佐村河内氏と同じ穴の狢ではないか。この映画を読み解いたつもりになってはいけないと改めて思った。

2016-6-26