『プラナリア』 山本文緒 / 文芸春秋

終わらない日常。変わらない自分。


私たちの日常は、まるで山本文緒の小説みたいだ。
他人との違和感をテーマにした、5つの短編変奏曲。

1「少しくらい違和感があってもこの人はいい人で、私の憧れの人であることは変わらない。まったく違和感を感じない他人などこの世に存在するわけがないのだから」(プラナリア)
ー乳がんを切除し、今も治療中の主人公は、露悪的に自分の病気の話をし、他人を困らせてしまう。彼女の傷は、誰にも私の気持ちなんかわからないだろう、という投げやりなアイデンティティなのである。

2「私は自分がやがて立ち直って、また社会に出て働きはじめるであろうことは分かっていた。疑問を持ちつつもまた前へ前へと進んでいくのだ。それが何故だか分からないがとても悔しかったのだ」(ネイキッド)
ーこの短編の主人公は、夫と仕事を同時に失った女。なかなか立ち直ろうとせず、周囲を心配させるのだが、彼女の傷もまた、露悪的な凶器となって他人との溝を深める。

3「心から怒ってないじゃん。子供の頃はうちのママは優しいんだな、なんて思ってたけど、実はあんまり関心ないんだって大人になって分かったよ」(どこかではないここ)
ー淡々と仕事をこなす母親が、子供たちから「リストラ」されてしまう話。日常のぼんやりした違和感は、大きく爆発することがないゆえに、歪んだ形で子供たちに伝わってしまう。

4「私は恋愛感情のない男の人とだったら気楽にセックスすることができた。どこかねじ曲がってはいても自分にも性欲があることにびっくりした。そして朝丘君も実は同じような問題を抱えているのかもしれないと思うようになった」(囚われ人のジレンマ)
ーセックスレスの恋人である朝丘君と私は、心理学を媒介にして気持ちを探り合う。いちばん近い存在なのに、不信感が深まるばかりでプロポーズに応えられない私。

5「マジオさんはさー、どうして自分の思う通りにいかないと、いちいち怒るわけ?」(あいあるあした)
ー妻に捨てられた後、素性も知らないまま同棲した女に、こんなことを言われてしまう男。彼が苛立つ理由は、自分の心を誰にも開くことができず、したがって、誰かを問い詰めることもできないからだ。

いずれの短編も、他人が信じられず、素直になれない人たちを扱っている。プライドが高くて、傷ついていて、動揺していて、疲れている人たち。何が間違っているのか、どうすればいいのか、明快な答えが出ないところが説教くさくなくていい。だから、どの短編にも終わりがない印象。人の性格は簡単に変わらないし、問題は簡単に解決しないけれど、そのままでいいんじゃないかと肯定されているような穏やかな気持ちになる。

自分の受けた傷や違和感と、時間をかけてきちんと向き合っていくことは大切だ。立ち直れとか、まともに働けとか、素直になれとか、他人にとやかく言われる筋合いはないし、世の中の常識的なテンポにあわせる必要なんてないのだと思う。私たちには、ささやかなプライドを守りながら、ゆっくりと不器用に生きる自由がある。
2001-03-16

『愛のコリーダ2000』 大島渚(監督) /

他人をまきこむ、猥褻な美意識。


日本初のハードコア作品のノーカット版(日本での上映ではボカシあり)。1976年のカンヌ映画祭を皮切りに、世界に反響を巻き起こした。

阿部定事件の映画化なのだから、実話を超える説得力ある描写を期待した。だが、2001年に私が見た「愛のコリーダ2000」には、そこまでのパワーが感じられなかった。愛する男を殺して大切な部分を切り取ってしまうという狂気に至る凄まじさが「実話以下」といった感じなのだ。当時、ハードコア撮影を敢行したのは、確かに大変なことだったと思うが、それは「1976年におけるラディカルな形式」に過ぎない。パゾリーニは1975年に「ソドムの市」を撮った後、スキャンダラスな死をとげたが、あの映画のもつ本質的なラディカルさと比べると、「愛のコリーダ2000」は、時代を超える生彩を欠いているような気がする。

女は男によって狂い、欲望をエスカレートさせる怖い存在....この映画における定は、そんな古典的観念の枠内にとどまっている。定を演じた松田英子のセリフまわしや演技からは、物語を逸脱する魅力の広がりが感じられないのだ。一方、吉蔵(藤竜也)の演技には現代に通じる普遍性があり、彼の魅力なくしてはこの映画は語れない。女のわがままのすべてを受け入れる包容力、生き血を吸われながら痩せていく愚かさと紙一重の美学.....優しさと鈍感さを併せ持つ申し分のない「罪な男」だからこそ、女の欲望は歯止めがきかなくなったのだなと納得できる。

面白いのは、第三者が二人のセックスを見ているシーンが多いこと。襖を開けた芸者と二人がのんきに会話をかわしたり、「変態」と女中にいわれた定が全裸のまま彼女につかみかかったりもする。実際、撮影現場にはスタッフがいるわけで、二人は密室でセックスしているわけではないのだが、その辺のリアリティがうまく処理されていると思う。定と吉蔵は、目の前に人がいても平然とセックスできる「オープンな変態」なのである! 第三者の視点やセリフが、密室的な表現の嘘っぽさと気恥ずかしさを救い、大らかな笑いを生み出す。私たちは、二人の行為を安心してのぞくことができるのである。

印象的なシーンがある。二人が絡んでいる部屋を訪れる六十代の人の良さそうな芸者が「旦那、お盛んですね」などと言うのだが、吉蔵は定にけしかけられ、母親のようなその芸者とセックスする。何が何だかわかんないけど「やるしかない」っていう状況。そこにはセックスの意味なんてない。神聖とすらいえる。失禁して動かなくなった芸者を観察する二人.....こんな猥褻なシーンを奇跡的な美意識でばっちり撮っちゃうとこが、大島渚のすごさだと思う。

*1976年フランス映画
2001-03-10

『聖邪の行進―幻想戯曲「解放軍」より四季のある楽園』 窪塚洋介 / ぴあ

恋愛は、自分のために。


「絵のない絵本」と帯に書かれている。ブルーの文字と白い紙。それだけの色しか使われていない静かな本だ。静かだから、本屋で目立っていた。ぜんぶ立ち読みしてしまおうという誘惑にかられたが、帯にもうひと言、「どうか ゆっくりと読んでください 窪塚洋介」とあった。クボヅカくんに、そう言われちゃあ仕方ねえ。私はこの本を購入し、リゾートっぽいカフェで読むことにした。帯のコピーというのは、第三者があおるより、本人が静かに書いたほうが効果的なのかもしれない。気になる俳優が書いた本、という予備知識だけでは、おそらく買わなかっただろう。

島にすむ「僕」は、一人で海を見て、煙草を吸い、白いレンガの家で本をよみ、風呂に入り、眠り、朝食を食べ、海にもぐり、夢を見て、ビールを飲み、テレビをつけ、町まで買い物に行くために飛行場へ行き、ポーターと話をし、飛行機に乗り、女と出会い、だけど一人で食事し、本を買い、ダンスホールへ行き….

その間、絶えず考えているのは「君」のことだ。白いレンガの家を出て行ってしまった「君」のこと。どんな事情があったのかわからないけれど、とにかく「僕」はまだ、「君」に執着している。だから、魅力的な女が近づいてきても、「僕」は何も感じない。

「人はどの瞬間にどうやって
人を愛するのだろうか
どんなに論理的な理由をくっつけてみても
メッキにしかならないのだということは
だいぶ前からわかっているつもりだ」

女に食事を誘われるが、今は一人でいるべきだと思った「僕」は断る。「君」の存在がなければ、間違いなく自分からアプローチしていたであろう女の誘いを。

「君と出会っていなかったら
僕は今
何を想い何を考えているのだろう
未来は奇跡なのだろうか
過去は運命なのだろうか」

恋愛の苦しさって、こういう、わけのわかんなさだ。どうして出会ってしまったんだろう? 出会ってよかったのか? 一体何のために? なぜこの人でなければダメなのか?・・・・・意味を求めようとすればするほど、足元をすくわれる。結局は、相手と向き合うしかないのだ。でも、相手が目の前にいない場合は、自分の気持ちと向き合わざるを得ない。そして、何か具体的な行動を起こし、気持ちに決着をつけるしかない。

自分の気持ちと向き合うのは、こわい。考える時間が山ほどあるのは、つらい。このままじゃいけないという気持ちを一時的にごまかすには、誰かに一緒にいてもらえばいい。そうすれば楽だけど、でも、やっぱり、それじゃあ何の解決にもならないんじゃないかって思う。

「僕」のように、一人でいるべきだと思ったときは、どんないい女(男)に誘われても断ること! 一人でいるべきだと思わなければ、どうでもいいんだけどね(笑)。要するに、それは、誰かを裏切らないということではなく、自分の気持ちを裏切らないってことだ。

こういうことが、ちゃんとできている人って強い。曖昧な気持ちのまま行動して、他人を傷つけたりすることもないだろう。そのとき、どんなに苦しかったとしても、幸せになれる人だと思う。
2002-03-09

『ぐるぐる日記』 田口ランディ / 筑摩書房

田口ランディは、生身がおいしい。


田口ランディの本の中では「ぐるぐる日記」がいちばん刺激的である。

長編小説はあまりに時流に乗っており、短編小説はあまりに巧く、エッセイや対談はあまりに教育的。要するに、できすぎているのだ。できすぎた設定や結論を読んでいると、自分ができの悪い男になったような気がしてくる。女の私でさえそう感じるのだから、本当にできの悪い男が田口ランディの本を読んだりしたら、かなり教育されちゃうことは間違いない。「オヤジに説教させたら右に出るものなしと言われたあたし」と本人も書いている。

私は享楽的に生きている女なので、完璧に構築された世界よりも、どちらかといえばもう少し不完全な世界、未完成な作品が好きである。その点「ぐるぐる日記」には、彼女の生命力とともに不安定な弱さや矛盾の片鱗が見られ、乱れた息づかいが感じられる。体調不良な日があり、馬鹿おもしれえ日があり、泣きたくなる日がある。夫を罵倒する日があり、ほめちぎる日があり、失礼な原稿依頼やメールにタンカを切る日がある。生身の田口ランディに最も近づけるのがこの本なのだ。オヤジには刺激が強すぎるかもしれないが。

「この日記は九十九%真実です」というあとがきを読み、つい1%のウソ探しをしてしまった。まず「あたしから書くことを取ったら何もない。無能なバカ女である」というのはウソだ。テレビ出演の際、初対面のテリー伊藤に「あんたおもしろいねえ!」「ゲストでしゃべりが面白い人ってめずらしいよ」と絶賛されちゃうほどタレント性のある彼女が「ただの田舎のオバサンの私」であるはずはない。「人前であがることもないし恥ずかしいと思うこともない」というし、銀座のホステスという輝かしい経歴もある。たとえ書かなくても、しゃべったり歌ったり踊ったりして人々を救う人物であるにちがいない。

「育児と家事に追われて、たまに原稿を書いている酒好きのオバサン」というのも大ウソである。ある日などは、午前中に30枚小説を書き、もう20枚書き続け、その後ビデオを1本見て、もう1本は夜中に見ようという。超人的だ。速読もできるそうだが、追われているのは「育児と家事」だけではない。しょっちゅう旅に出たり、東京に出たり、飲んだくれたり、自由と孤独を味わったりしているから忙しいのである。これって筋金入りの物書きじゃん! 安定した生活の場と夫と子供が、彼女をのたれ死にから救っているともいえるが、彼女自身はひょっとしたら家族に看取られるよりも、のたれ死にを選ぶのでは?と思わせるところが、すごくいい。

「私は、過去にも今も、有名になりたいという向上心を持った事がない」という一文には唸った。うーん、これは真実だと思う。彼女は長い間、身内およびネット上の限定的なカリスマであり続けたらしい。きっと、有名になること、金を稼ぐことが第一の目的ではなかったのだ。そのかわり、個人の責任で発信するメールマガジンに好奇心とジャーナリズム精神をたっぷりつぎこんできた。価値ある内容だ。無報酬だからといって手を抜いたりしない。好きなことを自由に書き、読者の反応によって学習し、世界を自在に広げてきた。彼女のやっていることはビジネスでも趣味でもなく、純粋な動機に基づいたプロの仕事だと思う。

1年間の日記とともに、メールマガジンを一部収録し関連づけている点が面白い。彼女が日々の生活からどんなふうにテーマを選択し、コラムを書いているのかがわかる。生身の田口ランディが感じられるだけでなく、ちゃんと勉強にもなっちゃうのだ。そういう意味では、この本も、できすぎている!

*「感読 田口ランディ」に収録されました。
2001-02-28

『深緑』 AJICO /

ゆるくてタイトな日本のロック2


ラッピングペーパーのような歌詞カードが好き。外側はピンクのイラストで、内側は深緑の文字。

1曲目の「深緑」、3曲目の「美しいこと」、11曲目の「波動」もすばらしいが、ずば抜けて良いのが、2曲目の「すてきなあたしの夢」。UAと浅井健一、二人の才能が共振し、音楽が生まれる瞬間のシンプルな幸福が立ちのぼってくる。歌詞はUAで曲は浅井健一だが、ギターが言葉で、ボーカルが楽器のようにも感じられる。

人と人との出会いによって、新しい表現が生まれる。一人ではできなかったことができる。この二人は、文字通り、そんなすてきな夢を見せてくれるのだ。UAとのコラボレーションでは、浅井健一の表情もどこかリラックスしており、余裕が感じられるではないか・・・・(男はリスペクトする女性がそばにいるとそうなのか?ナナコとソリマチの結婚記者会見を見てそう思った。キムタクも2ショット会見をすればよかったのに)。

「すてきなあたしの夢」というタイトルは、「すてきな夢」でもあり「すてきなあたし」でもあるのだろう。テクニックに裏付けられたナルシシズムは、とてつもなく美しい。「すてきなあたしの夢を明日の午後にかなえよう」という言葉のゆるさに癒される。
2001-02-23

『TEAM ROCK』 くるり /

ゆるくてタイトな日本のロック1


くるりの「ばらの花」という曲をきくたびに、これは何だろうって思ってた。ジャンルがよくわからなかった。分類できないものは、妙に気になってしまう。ここ1か月というものJ-waveでばんばん流れているし、HMVにいけば、いつだって、私の短い滞在時間の間に1回はかかる。

この曲のイントロが始まると、なぜだか調子が狂う。おもちゃの時計みたいなリズムに、さりげなく、つかまれてしまう。雨とか朝とかジンジャエールとかバスとか、脱力系の言葉の世界が、サビの部分で1度だけエモーショナルに盛り上がるはずだから、それを聴きのがすまいっていう気持ちになる。

アルバムを聴いてみて、端正なリズムとテクニカルなサウンド、そして力の抜けたボーカルのマッチングが面白いんだなと思った。歌いたいことを等身大の日本語で歌い、やりたい音楽をタイトに実現してる。音楽性の高さにつられて、日本語の価値が上がるみたいな気がして嬉しい。

日本語と英語を絶妙に溶け込ませたラブ サイケデリコは、「日本語もこんなにかっこよく歌えるんだ」と感動させてくれるけど、くるりは、「ゆるーい日本語もこんなにかっこいいじゃん」って応援したくなる。
2001-02-23

『ユリイカ (EUREKA)』 青山真治(監督) /

静かだから、伝わるもの。


現代を描いた映画なのに、どうしてモノクロなんだろう? 「ユリイカ」を見た後、ゴダールとジガ・ヴェルトフ集団による映画「東風」(1969年、カラー)をたまたま見て、答えに近づけたような気がした。

傷つけられた画面、肝心な部分で途切れる会話、ペンキを血に見立てた革命のパロディー・・・・・まるで教育ビデオのような「東風」という作品は、「映画らしい映画」に対する挑戦であり、資本化・技術化がもたらす結果としての「美しさ」や「本物っぽさ」や「物語」へのアンチテーゼだと思う。映画の中で流れる血は、すべて、ペンキやケチャップで十分なのかもしれない。スクリーンに映し出されるのは、本当の死じゃないし、本物の血であるはずがないのだから・・・・・

人間がどんなふうに死ぬのか、私は映画によって知っているような気がするし、戦争がどのようなものかさえ、わかっているような気がするけれど、それって怖い。 本物っぽくつくりこまれた映像や、意図的に切り取られた表現に慣れきっているせいで、私たちは、真実を理解しようとする意欲まで奪われているかもしれないのだ。

「ユリイカ」の中では、死や狂気や暴力が、ちっとも本物っぽく見えない(そのことを最初は不満に感じたほどだ)。モノクロであるために、血のようなものが出ても冷静に正視できるし、センセーショナルに感情を煽られることもない。この映画では、大切なものや、より際立たせたい部分を集中的に伝えるために、あえて情報量を抑えたモノクロという表現形式が選ばれたのだという気がする(最後にカラー画面が効果的に使われるが、その必要さえなかったと思う)。

新聞をにぎわすような大事件が起こるのに、画面は一貫して静かだ。事件の渦中にあっても、当事者の日常というものは、それほど騒がしいものではないのだろう。そのことが淡々と描かれていく。

主要人物は、バスジャック事件で「生き残ってしまった人々」。自分のバスで被害者を出してしまった運転手と、事件の二次被害によって家族を壊されてしまった兄と妹。悪人でもなく、ヒーローでもなく、直接的な被害者ですらない中途半端な3人だ。この映画は、そんな地味で中途半端な人生に光をあてた。その視点が、限りなくやさしい。ドラマチックでありえない3人は、淡々とむしばまれ、だからこそ淡々と回復していくしかない。

この映画で唯一リアルなのは、九州の風景と言葉だ。これらに圧倒的な敬意が払われており、物語は二次的なものとすらいえる。自然に対する謙虚さから、説得力が生まれ、その結果、3時間37分という必然的な長さが生まれた。ロードムービーの王道だと思う。

*カンヌ国際批評家連盟賞受賞/ロードショー上映中
2001-02-19

『溺れる魚』 堤幸彦(監督) /

クボヅカくんの、時代。


窪塚洋介が、キムタク以来といっていいほどのブームになっている。野島伸司脚本のドラマ「ストロベリー・オンザ・ショートケーキ」(金曜夜10時からTBSで放映中)の彼は、とりわけすごい。何がすごいのか? 窪塚くんがセリフを言うと、それは実在の言葉となる。窪塚くんが誰かを見つめると、それは実在の恋愛になる。

彼の魅力って一体なんだろう? セクシーにして清純、野島的デカダンスの最高の体現者であることは確かだと思うけど・・・・・ドラマの初回から、彼のことが気になって気になって気になって仕方なかった。

あまりにも気になったので、映画「溺れる魚」を見た。窪塚ブームの走りとなったドラマ「池袋ウエストゲートパーク」の堤幸彦監督による映画である。浅田彰氏は、2月13日付の「i-critique」(iモードサイト内のコラム)の中でこの映画の窪塚くんをこう評している。「ここまでヘナヘナな人間というのは世界的に見て新しいのではないかとすら思わせる、これはやはり監督の腕の差だろう」。

窪塚くんは、確かにヘナヘナだった。女装趣味でマゾの巡査という役柄であるからして、「ストロベリー・オンザ・ショートケーキ」のような正統派の恋愛シーンはない。要するにまったく違うキャラクター。だけど、スクリーンの中の窪塚くんは、やっぱり実在の人間なのだった。

「・・・・・この映画が繰り広げる、徹底して深みを欠いた混沌は、これこそ現代の日本そのものなのかもしれないと思わせる」と浅田彰氏は書いているが、窪塚くんの存在こそ、現代の日本なのだと思った。今っぽい気分を象徴する無数のアイテムや、超いい加減なセリフに満ちたはちゃめちゃな映画。その中心に窪塚くんがヘナヘナと立っている。ヘナヘナとは、言い換えれば、男女を超え、主義を超え、現実とフィクションを超え、その場の役になり切るしなやかさ。現代を生き抜くために必須の武器だろう。

ずっとこのままでいるのは、さすがにマズイのかもしれないけど、少なくとも今はこれしかないだろうっていう、そんな感じ。とりあえず、窪塚くんの時代なのだ。

*ロードショー上映中
2002-02-14

『バトル・ロワイアル』 高見広春 / 大田出版

誰かを愛することは、別の誰かを愛さないってこと。


先週、私が分身のように可愛がっていたマッキントッシュ パワーブックが盗まれた。大打撃なんてもんじゃない。日本の安全神話は崩れている―そんな言い古されたような言葉が、初めて実感を伴った。悔しいし、悲しいし、恐ろしいし、仕事になんないし、だけど、そんな状況に負けたくない…という気持ちが入り混じっている。「バトル・ロワイアル」にふさわしい戦闘的な気分である、といえるかもしれない。ほとんど投げやりですが。

(というわけで、インターネット書評コンテストでいただいたピカピカのWindowsが、いきなりメインマシンになった。使いやすくて快適! 不幸中の大幸い! なんてありがたいんだろう)

映画が「描写」なら、この原作は「解説」だ。殺し合いゲームに参加させられる生徒一人ひとりの足取りと葛藤、生まれ落ちた環境や家族、恋愛といった背景を詳細にたどってくれる。人物の内面に自在に入り込み、死ぬ間際の心境まで説明してくれたりもする。視点がばらばらという意味では散漫だし、かなりの長さでもあるが、「書きたいことを制約なく書いた」という作者の満足感のようなものが伝わってきて爽快だ。

たとえば、徹底的な特殊教育により、世界中のありとあらゆることを知っている桐山という生徒がいるのだが、そんな彼も、自分の奇妙な感覚の原因だけは知らなかったと説明される。母親の胎内にいたときの事故により、微細な神経細胞が破壊されたのだ。そういうこの世の「誰も知らない事実」が神の視点から語られる。

「ピーナッツのように左右半分ずつが上下にずれた顔。そしてその死体は、ほんのすぐそこに転がっている。ごらんください、世にも不思議なピーナッツ男です―」
「美少女二人が見つめ合ってるわけだ。アクセサリに、目をつぶされた男の死体。あらまあ、なんて美しいの」
「頭の右上から、何か、細長くデフォルメしたカエデの葉のような形の、赤いしぶきが、伸びていた」
「うわあ、それ、すごくいい方法じゃん!俺、これがパソコンゲームか何かだったら、絶対そうしちゃうな」

作者は明らかに、ふざけている。だが、このデフォルメしたゲーム感覚のノリこそが、現代のリアルなんだと思う。真剣勝負の時に限って、くだらないジョークを思いついてしまったり、悲劇的な状況の中ですら、それをネタにして友達を笑わせようと考えていたり…これが私たちの、どうしようもない日常であり、傷つかずに生きるためのしたたかな処方箋なのだから。

生徒の一人は「誰かを愛するっていうのは、別の誰かを愛さないっていうことだ」なんてセリフを吐く。この小説のテーマはここに尽きるだろう。私たちは、何かを選びとらなければならないのだ。まったく、勉強になるぜ。

私自身、嫌な事件があったおかげで、自分にとって大切なものは何か、最後に選びとるべきものは何か、ということが以前よりもクリアになってきた。少なくとも、モノやお金じゃないってことは確かだ。
2001-02-04

『結婚。』 ナガオカケンメイ / 新潮OH!文庫

愛人にすすめたい、結婚の真実。


2年目の結婚記念日に、夫が妻へ贈った絵本(というか手紙だ)。あんなに愛し合っていた彼女なのに、結婚して子供が生まれると、いつのまにか気持ちが醒めてしまう........危機に陥った夫婦が関係を修復させるまでの物語だが、実話であることがポイント高い。あっという間に読めてしまうので、何度か読んでみたが、何度読んでも涙が出る。悔しいほどに。

後半部の妻のセリフには、見習うべきものがある。男も女も、危機のときにはこういうセリフを言わなければならないんだな。それができた夫婦は、きっと乗り越えられるのだ。相手の痛い部分を責めたり、泣きごとを言ったりするのではなく、ふっと空を見上げて美しいため息をつくような、そんなひとことだ。

<結婚とは「大好きな人と一緒にいること」ではないと思う。結婚とは「どんなことも受け入れること」ではないかと思う。> と筆者はあとがきで述べているが、それはどうかな、とアマノジャクな私は思う。そんな妥協的な生き方はしたくない。一生、大好きな人と大好きなまま一緒にいるべきじゃないの?って思う。だけど、この本のエピソードがもつ普遍性には、やっぱり泣かされてしまうのだ。

夫婦の危機は、どっちかのせいじゃないってこと。ちょっと擦れ違うと、どんどん擦れ違っちゃうけれど、その代わり、ちょっと歩み寄れば、驚くほどすんなり歩み寄れたりするんだ。

素直でない私は、この本に出てくる智子(愛人!?)が可哀想、などと不謹慎なことを考える。そうそう、この本は、愛人をやっている女性におすすめしたい。彼がなぜ離婚しないのか、その理由がわかるから。
2001-01-19

『英国式占星術』 ジョナサン・ケイナー / 説話社

2000万人が注目する言葉とは?


人間を12星座に分類するなんて馬鹿らしい、って気持ちがどっかにある。だから私は雑誌の星占いなんて読まないのだけど、ハーパース・バザー誌に連載されているジョナサン・ケイナーのページだけは例外だ。彼はイギリスで最も権威ある占星術師だそうで、世界中に2000万人の読者を有し、ウェブサイトには毎日6万人がアクセスするという。

だまされたと思って、単行本まで読んでみた。太陽の位置で占う定番の12星座占いに加え、月、火星、金星の位置関係により、自分自身や知人たちの表の顔、裏の顔が明らかになり、14の相性診断テストがディープに展開されていく。構成もよく考えられており、自分が主役のミステリーをひもとくような楽しさがある。

そして.....どうひいきめに読んでも当たっている! だが、彼の占いの本質は、当たることですらない。魅力の秘密は文体にあり、一度読めばシビれてしまうか笑ってしまうかのどちらかだ。他の占星術師との違いは、想像力の豊かさだと思う。具体的な記述は普遍的な事象につながっており、抽象的な記述は具体的な人生に還元されていく。読んでいるだけで宇宙との一体感が得られ、限りない希望がわいてくる。

たとえば、生まれた時、月が獅子座にあった私という人間に対してはこんな感じ。「あなたは態度が大仰ですし、利口ぶるところがありますし、あらゆる場面で主役になりたがります」........きっつーい!! だけどその後にこう続く。「しかし、同時に稀に見るほど親切で、温かくて、寛大で、純粋でもあります。それだけで千の罪を許されるほどです」........こう言われると、悪い気がしないではないか(笑)。

「(中略)批判を恐れるあまり、善意のよきアドバイスを無視します。うっかりそのアドバイスに従って、バカのように見えるのを避けんがためです」の後にはこう続く。「誤解しないでください。あなたが始終こうだと言うつもりはまったくありません。月の周期があなたに不利に働くときにこんな状態になりうる、というだけの話です。私が無情にも以上のようなことを指摘したのは、不安を建設的に処理する能力があなたの中に備わっているからにほかなりません」.........要するに、とっても教育的なのだ。

この本が教えてくれるのは、パーソナル・コミュニケーションの方法論なのかもしれない。占いや言葉は、他人を嫌な気持ちにさせるためのツールではないということ。説教なんて、誰も聞きたくないのだから。

他者への思いやりと本質への洞察力。そんな彼の資質にこそ、学ぶべきものはある。だから、うまく気持ちが伝わらないアイツのことを、この本でこっそり調べたりした場合なども、自分を前向きに反省しながら、素直に相手を尊重しようって気になってくる。意外な視点を発見して、ふっと楽になれる。どうして当たってるんだろう? どうして面白いんだろう?って考えるだけでも快楽。

日本版のウェブサイトでは、12星座の「週間予報」のほか「2001年の恋愛予報」が本日アップされた。
http://www.cainer.com/japan
2001-01-12

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』 ラース・フォン・トリアー(監督) /

逃避としてのミュージカル映画。


「説得力のあるミュージカル映画」である。ドキュメンタリー的なシーンと、つくりこんだミュージカルシーンの対比が印象的。ビヨーク演じる主人公は、ちょっとした物音に反応し、それは空想の中で音楽となり、やがて皆が踊り出す.......ミュージカルは、つらい状況にある彼女にとって「もうひとつの現実への逃避」なのである。そこでは皆がいい人になり、悲惨なシーンを補うような形で互いに許し合う。ミュージカルとは、絶望的な現実の中での自在な想像力なのだ、とこの映画は教えてくれる。

手持ちカメラによる日常シーンにはわくわくするし、いくつかのミュージカルシーンにもぞくぞくする。機械の音、風の音、列車の音がリズムを刻みはじめ、音楽になっていくプロセスは最もシンパシーを感じる部分だ。しかし、物語は次第にドラマチックになり、説明的な過剰表現へとエスカレートしていく。

60年代アメリカの片田舎。そこに移民してきた東欧の女(ビヨーク)は、失明寸前にもかかわらず、女手ひとつで息子を育て、危険な工場での昼勤と夜勤に加えて内職までこなし、トレーラーハウスに住む。眼の病が遺伝することがわかっていながら息子を産んでしまった彼女としては、彼の失明だけはなんとしても食い止めなければならない。だが、息子の手術のために貯めたお金は、秘密を共有した男友達に盗まれ、彼女は男友達を殺す「はめ」になる。裁判では息子のため(今、息子に眼のことを知らせると精神的ダメージにより手術は成功しないのだそうだ!!)、そして男友達との約束のため(彼女は息子思いなだけでなく、根本的にけなげなのだ!!)、真実を語らない.......。

これって、美しい話だろうか? 都合よくつくりすぎな感じは、まさにおとぎ話だ。「失明の部分は、別の作品に影響され、あとから加えた」というような監督のインタビューを読み、ますますそう思った。不治の病というのは、そんなふうにあとから軽々しくつけ加えるべきテーマではないのでは?と私は思う。

裁判における類型的な図式もすごい。移民である彼女は、エリートである男友達との対比において圧倒的に不利であり、観客は「弱くて正しい者の悲劇」に涙せざるを得ない....。ところが、飛行機恐怖症の監督は、裁判の国でありミュージカル発祥の国でもあるアメリカに一度も行ったことがないそうで、ロケはすべてヨーロッパでおこなわれた....。要は、この映画のすべてがセンチメンタルな幻想なのだという気がした。彼女がミュージカルに逃避するのと同様に、映画自体もまた、幻想の世界に逃げている。

好意的に解釈するなら、20世紀を総括する映画としてふさわしい懐かしさと力強さに満ちている。よくも悪くも「大作」なのだ。さまざまな名作のオマージュ的なシーンが楽しめるし、ミュージカルの意味を問い直す批評的視線は新しい。ビヨークの曲、歌詞、表情、動きは才気にあふれ、脇役としてのカトリーヌ・ドヌーブも、ただものではない演技を見せてくれる。

*ロードショー公開中(2000年 デンマーク映画)
2001-01-06