『カラビニエ』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

チープでリアルな殺戮と笑い。


戯曲「兵士たち」の映画化にあたり、ロッセリーニがシナリオ案をテープ録音し、ゴダールが監督した1963年の映画。冒頭に引用されるのはボルヘスの言葉だ。「進展すればするほど私は単純さに向かう・・・」

映画館へ向かう途中、iモードで上映時間を確認すると、「ミリタリーファッションの人は200円引き」とあった。たまたま「ちょっとだけミリタリーっぽい服」を着ていた私は、入り口で「この服、ミリタリー色なんですけど」と言ってみたい衝動にかられ、実際、拍子抜けするほどすんなりと200円引きで「カラビニエ」を見ることができたのだった。

この手の割引制度って、一体何なんだろう?「ノー・フューチャー」では、ギター持参なら200円引きだったし、「バッファロー'66」は赤い靴と銀の靴のカップル割引があった。「オール・アバウト・マイ・マザー」は母子割引、7月14日よりロードショーの「白夜の時を越えて」にいたっては、双子なら1人500円で見れるという。

単なるお遊びなんだろうけど、今回の「ミリタリー企画」は、アバウトさが映画の内容に妙にハマっていた。だって、監督のコメントによると、カラビニエ(カービン銃の兵士)の軍服は「帝政ロシア将校の軍帽」「イタリアの鉄道の車掌の上衣」「ユーゴのパルチザンの長靴」などの混ぜ合わせ。この作品は、現実の戦闘シーンのフィルムを引用しながらも、メインはどっかその辺の広場で撮ったという印象の、キッチュな「戦争ごっこ映画」なのだ。

「愉しみはTVの彼方に」(中央公論社)の中で、金井美恵子は言う。「『カラビニエ』を見たら、自分たちにでも映画が撮れそうだと信じる人々があらわれることに、何の不思議もない、ということがわかるだろう。カメラマンと何人かの出演者(もちろん素人でいい)と、なにより"ゴダールがいれば"、無謀にも、映画は撮れるのだ」。
「カラビニエ」と「パール・ハーバー」(見てないけど)の違いは、まるで「iモードゲーム」と「プレステ」(やったことないけど)の違いのよう。「リアリズムとは、真の事物がいかにあるかではなく、事物が真にいかにあるかということである」というゴダールの言葉は、冒頭のボルヘス的な世界観につながっている。お金をかければリアルな体裁の映画は撮れるだろうが、リアルな中身が宿るとは限らない。

徴兵される兄弟の弟が、初めて映画を見るシーンの初々しい描写はロッセリーニっぽい。彼は走ってくる機関車の映像にのけぞり、入浴する美女のバスタブを覗こうと立ち上がる。挙句の果てにバスタブに飛び込もうとしてスクリーンを引き裂いてしまうのだが、それが単なるコントで終わらない理由は、剥き出しになった壁面に映画が映り続ける様子が、リアルな驚きを含んでいるからだろう。3人の兵士が氷った川をつるつるすべりながら下るシーンにも、ばっかじゃないの!と思わず笑ってしまう。

戦争における非情な暴力をミニマルな視点で描きつつ、兵士という存在の馬鹿らしさ、情けなさ、人間らしさに迫った傑作だ。とりわけ、兄弟がセクシーな母と妹に、キッチュな「戦利品」を次々に披露するクライマックスは、そのシーン自体のキッチュさとともに忘れがたい。

ゴダールの映画らしく、当時のファッションやクルマ、2人の女優(プログレッシブ・ロックの頂点をきわめたカトリーヌ・リベイロ&2年後にエマニュエル・ベアールを産むことになるジュヌヴィエーヴ・ガレア)の魅力も楽しめる。女は意外とちゃっかりしており、男は意外と情けないという図式は、いつの時代も変わらないのか?

*渋谷シネ・アミューズでレイトショー上映中
2001-07-10

『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』 福田和也 / PHP

心が躍る哲学。


タイトルのセンスがいい。「ひと月百冊読み、三百枚書くための方法」だったら読まなかっただろう。本書はそっけない実用書ではなく、エピキュリアン的哲学の本なのだ。最低でも6時間は眠り、内外を飛び回り、大学で講義し、ゼミの指導をし、レポートを採点し、学生と飲み、友人との溜まり場に週3回は顔を出し、何回に一度かはへべれけになるという福田和也の、筆記具やノートの中身の写真まで付いている。

書く上での困難に何度も直面したあげく、著者はある決意をするのだが、そのときのエピソードに関連して、親友である人気シェフの話が出てくる。汗まみれで厨房に立つ忙しい日々に少し飽き、しんどいと愚痴ったとき、シェフの母上はこう言ったという。「世間には、志を得ないで、その力を発揮できない人がたくさんいるのに、恵まれて存分に働ける機会を得ていながら、しんどいとは何事か。男と生まれて、その限界まで働かずに、何の甲斐があるのか」。 ブラボー! 強い父親がいないから子供が犯罪に走る、というようなことが最近よく言われているが、賢い母親がいればオッケーなんじゃないだろうか。母上の言葉は、息子の親友の本の読者である女の私にまで届き、襟を正させるのだ。私もがんばります、お母さん。

エピキュリアンの基本は、アナログ指向である。著者はインターネットを利用するものの、本は書店で買うのがいいと言い、古本屋街の楽しさを語る。翻訳物を読むときには気に入った箇所だけでも原文にあたることを薦め、資料だけではなく現地に行くことの重要性を説く。要は、体を使うことを忘れちゃいけないってことなんだろうな。楽な方法が、必ずしも楽しさにつながっているわけではないのだ。しかし、だからといって、私がインターネットで買う本の数が減る気配はないのだが…。本書でも紹介されている古書の検索エンジン「スーパー源氏」は本当に便利。先日、私はある本を探していて、原宿のブックオフに行ったものの当然なく、神保町まで足を伸ばす気力もなく、これで検索したら、青森の「林語堂」にあるとわかり、4日後には手にすることができた。これってすごい。
http://www.murasakishikibu.co.jp/oldbook/index.html
青森に行く機会があったら、ぜひ「林語堂」に寄ってみようと思う。

著者にとって、テレビは情報価値がゼロであるばかりでなく、書くことの邪魔であり時間の無駄でしかないという。「テレビというメディアの性質の中に、基本的な問題として、視聴者を受身にすること、受身にした上での、ある種の反射的な反応をつくるという性質があるからです。(中略)『情報』を得るというのは、けして受動的な行為ではないのです。むしろ、高度の自発性、能動性が要求される行為である。あるいは、その能動性こそが、情報獲得の効率を確保するのです」。まったく同感! だからといって、私がテレビを見なくなるわけではないのだが…。また、著者は「ヘラルド・トリビューン」を読む愉しみについてこう語る。「中東和平の決裂、といった事件があると、高名な記者たちの、それぞれ観点や解釈にこだわる解説、論説が、見開き両面にずらっと並ぶ壮観さは、なかなかのものであり、それを見るだけで、私のような文字に生きる者は、心が躍ります」。

物を書く人が「心が躍ること」について書いた文を読むことほど、心躍ることはない。著者の批評や思想に関しては「うっそー!」とびっくりすることもしばしばだが、どんな場合にも、読んでいて心が躍る。生きることを心から楽しんでいる人だからだと思う。
2001-07-06

『恋するために生まれた』 江國香織・辻仁成 / 幻冬舎

もりあがらない二人。


「私ね、ずいぶん長いこと、男の人と寝るたびに、どうしたらいいか分からなかった。初めてではないにもかかわらず、恋が違うということは、初めてと同じで、学習しようがないでしょう」(江國香織)

「いつか、ふっとどこかへ行ってしまいそうな危なっかしさを持っていながら、わざと束縛されるのを喜ぶフリをしてみせるような狡猾な女性がいい。なんと贅沢な要望でしょう。こんな男、僕が女性なら、願い下げです」
(辻仁成)

初々しい語り口で大胆なことを言う江國と、ナルシシズム炸裂の辻。本書は、まるでメールのやりとりのようなゆるい文章で綴られた二人の往復書簡だ。辻は江國を「僕にとっては非常に珍しい真実の友の一人」「本当に稀なくらい素晴らしい間柄」と表現するが、江國はもう少し現実的。「端的に言えば、辻さんは女好きで、私は男好きなの。たぶん。で、本を書くことにしちゃったんだな」。

テーマは終始恋愛についてだが、二人の接点は意外と少なく、しかし、だからといって喧嘩になるわけでもないという非常に中途半端なテキスト。辻は江國に対し、「君が何かを言うと、僕はただ、うんうん、と微笑みながら聞いてしまう」「可愛い。なかなか言えませんね。すごい!おそれいりました。つくづく君って、かっこいい」「だからあなたはいつまでもチャーミングなんだと思います。でも」というふうに、とりあえず「年上の男」的な余裕を見せながら言いたいことを言うスタイルを貫く。一方の江國も、「こんな言い方をするなんて、辻さんはやさしい人だなあ」「辻さんの底知れぬパワーというのは、すごい。私の場合は―」「その通り! 私は辻さんの、こういう文章力を敬愛します。ただ」など、ひととおりの尊敬のまなざしを注いだ上で反論する。

辻が江國に嫌われるのは、愛のないセックスについて語るとき。「いいセックスと悪いセックス?それは一体どういうの?辻さんはときどきわからないことを言う」「恋愛抜きでセックスをしたことがないので、私にはわからないのです」ときっぱり言い放つ江國だが、このテーマも、残念ながら、それ以上突き詰められることはない。

辻が、二人の初デートについて語るくだりがある。「僕はまだ結婚していた頃でしたから、二人にはそれぞれお互いにパートナーがいました。でも、知り合ってすぐにデートをしたのです。男とか女だとかに区切られない爽やかなデートでした」。これに対して江國は、「なぜ恋愛関係にならないのか?(中略)私は自分が守られたいほうだから、恋をしないんじゃないかなあ。それに、やっぱりVERY BESTになりたいから、相手にとって」と言っている。

「男好きな女」と「女好きな男」がデートして、互いに好きだったら普通、恋に落ちるんじゃないかなー。文脈から判断するに、辻は江國のハートに火をつけるほどの存在ではなかったようだ。それにしても「男とか女だとかに区切られない爽やかなデート」って一体何なのか? 作家なら、そこんとこを、きちんと突き詰めて表現してほしかった。
2001-07-03

『映画瓦版(ホームページ)』 服部弘一郎 /

「映画通の友だち」のようなサイト。


「映画瓦版」は、個人のホームページというものが、ここまできちんとした形になるという見本のようなサイトだ。服部弘一朗という映画批評家が一人で運営している。

http://www.eiga-kawaraban.com/

このホームページ自体が、彼の仕事のベースになっているらしく、執筆依頼などの多くがここを経由してくるという。映画批評のプロであることの本質は、映画への思い入れや鑑賞眼の鋭さ以上に、HP以外の執筆媒体をもち、試写状のとどく映画はほとんど見に行っているという実績にあるのだと思う。その数は年間500~600本。映画関係者の中では珍しくない数字かもしれないが、そのすべてをデータベース化し、公開しているというのがすごい。

公開されているのは、50音別、月別に整理された映画鑑賞メモ。メモといっても、趣味の領域ではないことは、作品にどんな印象をもった場合にも、その記述が一定の密度と客観性に貫かれていることでわかる。彼のデータベースは、いわばドイツの現代美術家ゲルハルト・リヒターの「アトラス」みたいなものだ。服部氏は自己紹介のページでこう書いている。

「試写室で映画を観ながらメモを取っている人も多いんですが、僕は帰宅してから資料を見ながらすぐに映画瓦版用の原稿を書いてしまいます。これが僕にとっての映画鑑賞メモがわり。映画の印象は時間が経つとどんどん変化して行くし、細かい部分は忘れてしまうので、こうして文章として残しておかないと後から思い出せなくなってしまいます。映画評の仕事が来た時点で映画瓦版を見直すと、『なるほど、こんな映画だったな』と書いていない部分まで鮮明に思い出すことができるのです」

メジャーな新作映画のほとんどを見ているようなので、近作ならだいたい検索できるし、公開前の映画も試写を見た順に続々アップされる。「日本最速の映画評ページを目指しています!」とトップに書かれているが、このスローガンに偽りはないと思う。

私は、映画を見る前後に「あの人の批評が読みたい」と思うような歯に衣着せぬ評論家が何人かいるが、私の好きな評論家がすべての映画についてどこかで書いているわけではないので、それは叶わぬ願い。また、無記名の映画紹介記事の場合は、一定の視点がなく、PRに終始している場合が多いので参考程度にしか使えない。というわけで、このサイトは「非常に使える」のである。

既に自分が見た映画をいくつか検索してみると、彼の見方と自分の見方の違いが次第にクリアになってきて、「映画通の友だち」が一人できたも同然という感じになってくる。大上段にかまえた批評ではなく、わかんないものはプロらしくちゃんと説明を試みながらも「僕にはよくわからなかった」などと書かれているあたりも友だちっぽい。「彼がこういうふうに誉めてる作品は、たぶん私は苦手だろうな」とか「彼は淡々と書いているけど、この映画はきっと私向きだ」というふうに、今ではだいぶ予測できるようになった。彼がたまたま見ていない映画があると、「えー、なんで見ないわけ?」と怒ってしまったりもするのである。
2001-06-29

『インターネットは儲からない!』 橘川幸夫 / 日経BP社

①儲かることは悪なのか。


「僕は自分のネタや企画を他人が使うことに無頓着である」
「自分の文章は読者に『使ってもらう言葉』という意識で書いてきた」
「現場で、いろんな人と企んだり交流できた方が儲からなくても楽しいと思う」

ネタや企画や文章は、もともと権利が発生しにくく、勝手に使われがちなものだ。儲かればそれに越したことはないが、無料で使われた場合には感謝され、感謝もされない場合にはネタ元であることを自慢したいというのが人情である。 人間関係を何よりも大切に考えているという著者は、こういうことに無頓着などではなく、むしろ意識的なのだろうと思う。

「個人として生きるとは、虚飾のスターになることでも、ふてくされた世捨て人になるのでもない。表と裏のギリギリのところで緊張感のバランスをとることなのだ」という人生哲学にはぐっとくるが、このような葛藤が、異なる人間への苛立ちにつながるようだ。著者は「過去の財産に食わせてもらおうとする根性」や「新しいものを創造するエネルギーを失ったミュージシャンやベンチャー経営者」を批判し、断筆宣言をした筒井康隆に対しては、なぜ自分で出版社をやらなかったのかと嘆く。脱サラ指向の人とは仲良くなりたくないといい、「近代産業社会の最前線にいた人は、その延長戦として、次の時代に向けてのパラダイムシフトを図って欲しい」と諭すのだ。キビしい!

これからの社会で必要なのは、即座に決断できる人材のみだという。「メールなどは、届いた時に返事をするのが理想」「時間をかけて書きしたため、時間をかけて配送し、時間をかけて読みなおす種類のものとは異質」とあるが、メールに時間をかけてしまう自分としては、ギクッ!である。私は文章を書くことが仕事なので、簡単に書けるふりをすることも多いけど、実際は馬鹿みたいにじっくり考えてしまうし、送るタイミングにも悩んでしまう。携帯メールだって同じだ。

著者はまた、広告代理店のマージンビジネスを批判し、制作料の高さが表現の熱意をすり替えることを危惧する。私は主に広告業界で仕事をしているが、制作費の余裕は熱意を奪うどころか、いいスタッフを集め、妥協しない仕事ができる点からも質の高さを生んでいる。むしろ、ギャラの低さがモラルを低下させることのほうが多いと感じる。

ネット上の表現の多くは、表現者が身銭を切ったものであり、原稿料なんて誰もアテにしていないと著者はいう。有名な作家がお金のために書いた原稿よりも、普通の高校生の日記に込められた想いこそがインターネット表現の本質であると。だが、インターネットだから純粋といえるだろうか。ネット上には、売名行為や他者誹謗や邪心も満ちている。有名な作家がお金のためでなく書いたり、普通の高校生がお金のために書いたりしているから面白い。

次世代ビジネスの鍵は、参加型社会のサポートであるというのが本書の主旨。代理店や大家的ビジネスとの違いは、動機が腐っていないということなのだろう。ちなみにレビュージャパンは「オンラインビジネスを行う企業のサポートシステム」であり、「書評から本の購読に結び付いたものはアフェリエイトで報酬をもらえるシステム」だそう。文学賞の選考方法については、一次選考通過作品をすべて出版するシステムを提案しているが、大衆に選考をゆだね「売れたものが良質」という判定をくだすことは、逆に、地味で良質な文学を駆逐することになるのではないだろうか。良質な文学を発掘し、なんとか売っていきたいというサポートの意味合いが残っているのが文学賞だと思う。

(つづく)
2001-06-25