『ハバナへの旅』 レイナルド・アレナス(安藤哲行訳) / 現代企画室

クリスマスの正しい過ごし方。(その1)


クリスマスや年末年始という言葉には、まとわりつくような鬱陶しさがある。この時期は、愛とか家族とか自分はどこにいるべきなのかとか来年はどうすべきなのかとか、そういうことを突きつけられる決算期らしい。たとえ具体的に何も突きつけられなくても、じんわりと真綿で首をしめられるような保守的な気分が街に漂う。そんな季節はなるべく、歩いたり走ったり空を飛んだりしていたい。旅行者という無責任な肩書きを手に入れて、異国で過ごすのだ。

そう、本を読むだけでも旅には出れる。

表題作「ハバナへの旅」は、ニューヨークの大雪の描写から始まる。キューバ生まれでホモセクシュアルの主人公は、15年かけてようやく、異国の街で静かな生活を手に入れたのだ。彼はウエストサイドのぼろアパートから雪を眺め、警察に追われ続けたハバナでの恐怖と孤立の日々を回想する。そして今、自分の中にささやかな平和を見出したことを確認する。
「その平和は、ひとつの言葉のなかにおさまった。誰もがはねつけようとするが、誰をも救うその素晴らしいたったひとつの言葉、それは孤独。自分以外の誰にも屈伏しない、自分以外の者のためには生きようとしない、そしてなによりも、孤独を追い払わないようにするというよりは、むしろ逆に、孤独を求め、追いかけ、宝物のように守ること。なぜなら、肝腎なのは愛情を断つことではなく、愛情を棄てたものと見なし、愛する可能性のないことを理解し、そして、そんなふうに考えていることを楽しむことなのだから」

熱帯の作家による雪の描写はとても美しい。しかし彼は、かつて偽りの生活のために結婚した妻からの、うんざりするような手紙をきっかけに、クリスマスにハバナへ帰ることを決めてしまう。帰るまいという強固な決意を揺るがす、言い訳づくりのリアリティが秀逸。人は、何かを確かめるために、せっかく手に入れた孤独の喜びをあっさりと放り出し、懐古的な衝動に身をゆだねてしまうのだ。何年も我慢をかさねた分だけ、欲望(彼の場合は若い男への肉体的欲望ですね)に突き動かされる瞬間の開放感は、いっそう生彩を放つ。

愛情を注ぐことのできない妻と息子が待つ、あたたかく懐かしいハバナへ・・・
これは、年末年始につきものの帰省の物語だ。

「ハバナへの旅」の主人公は、実のところキューバにもニューヨークにも絶望している。ヴィム・ヴェンダースの映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(1999)が、キューバ音楽とともにニューヨークを礼讃しているのとは対照的だ。 アレナスは1943年にキューバに生まれ、反政府的な言動が原因で繰り返し問題を起こし、1980年に小舟に乗ってキューバを脱出。ニューヨークに居を構えたが、エイズに冒され、1990年12月7日、ニューヨークの自宅で自殺した。

本書には、「ハバナへの旅」(1987)のほか、編物(ファッション)をモチーフにした「エバ、怒って」(1971)と、モナリザ(アート)をモチーフにした「モナ」(1986)の2編が収録されている。ユニークなアイディアを緻密に寓話化した3楽章だ。

3つの作品に共通しているもの。それは、母親のように主人公を思い続け、陰で支える女の存在。どこにも居場所がない「放浪するホモセクシュアル」としてのアレナスにとって、女とは、母とは、決して旅に出ることのない「鬱陶しいけれど感謝すべき大地のような存在」なのかもしれない。
2001-12-22

『悪の恋愛術』 福田和也 / 講談社現代新書

清原くんから妻へのプレゼント。


「物事を単純に見るということは、同時に自分をも単純にしてしまうこと」と著者はいう。出会い系サイトで出会う男女にとって、互いは性と好奇心の対象でしかない。

「他者を徹底して性欲の対象として見るということは、自分もまた性欲の対象としてのみ存在しているということです。ドルバック云うところの『粘膜』でしかない、と自分を既定してしまうことにほかなりません。『粘膜』として生きることは、愉しいのでしょうか」

粘膜として生きるのも悪くないぜという極右派もいそうだが、結局のところ私たちは人間だ。不倫や浮気の類語として「割り切り」という言葉があるようだが、本来は割り切れない関係だからこそ逆説的な言葉が使われるのだろう。

「恋愛は厄介で愉しい贅沢品」と考える著者は、ワインを飲む際、「話し好きな人にはこのワイン、気難しい人はこれというふうに、だいたいのチャートをつくっていて、そのチャートをつくるのがまた愉しい」という。「ただし、どんなワインにも反応を示さない相手は、願い下げです」だってさ。これ、ちょっと神経質すぎない? 馬鹿のひとつ覚えみたいにドン・ペリを開ける粘膜男のほうが好感もてるかも。というのは冗談だが、ワイン通の男というのは、概して階級にナーバスで、うんちくを傾ける割にケチだったりする場合も多いので要注意である。「こういうワインを勧める男はこんなヤツ」という逆チャートをつくっておくと楽しいかも。

著者はなぜ階級にナーバスなのか? 自身の過去の告白は切なくて、女性なら「わかった。これからは自慢話でも何でも聞いてあげる」って思うんじゃないだろうか。慶応の付属に通いはじめ、遊び人たちとの階級差を意識せざるを得なかった高校時代。最初につきあった彼女が下町に住んでいることで、仲間に負い目を感じ、自分も下町の人間であることすら告白できず、自ら彼女との関係を断ち切ってしまったという。

その後、著者が結婚した女性は、生粋の良家のお嬢様。彼女は彼の書くものに興味をもったそうだが、失業中だった彼との結婚は、父親に大反対されたという。「現在でも認められているとは云いがたい」そうだが、著者はひとまず、知性(悪の恋愛術!)で階級を克服したのである。

ところで、悪の恋愛術のポイントは、相手に変化をもたらす「贈与」であり、ここが策略の見せどころなのだが、私は一昨日、「清原和博がFAを語る」という番組で、策略もお金もいらない贈与の例を見てしまった。

清原は、妻の誕生日に「ホームランを打ってやる」と出かけたが2打席とも三振。皮肉のひとつも言われるかと落ち込んでいたら、さよならのチャンスがまわってきて、完璧なホームランを決める。彼はそのとき、「自分の誕生日に夫にホームランを打たせてしまう彼女の運の強さを感じた」というのだ。彼女の手柄にしてしまう気前のよさ!「半分は僕の実力で、半分は彼女のおかげですね」などとケチなことは言わないのである。野球選手の妻として何点?という質問に対しては「500点」とさらっと言ってのけた。ケチな男は、こういうところで90点とか言って自分が優位に立とうとしたりするものだが、清原は違う。こんなプレゼントをもらった妻は、今後もさらなる強運を彼にもたらすだろう。

別のスポーツ選手が、以前、妻の料理をけなしていたことを思い出した。彼女はマスコミに激しくバッシングされている存在だったから、「お前が率先して彼女を悪く言ってどうする?」と私は耳を疑った。その後、芳しくない成績のまま彼が引退することになったのは、身内の力を借りることができなかったせいなのかも、と哀しくなった。
2001-12-16

『愛の風俗街道―果てしなき性の彷徨』 花村萬月(写真:荒木経惟) / 光文社 カッパブックス

嫌な思いをするために、女を買う。


鈴木くんが、水商売の女性とつきあい始めたという。 話をちゃんと聞いていなかった私(そもそも彼の話に登場する女の数が多すぎるのだ)は 、「鈴木くんが風俗の女性とつきあうなんて意外!」と軽口をたたいてしまうのだが、とたんに彼はむっとして、「風俗じゃないよ。水商売だってば」と怒り始めたのである。そこんとこだけは間違えてもらっちゃ困る、という感じで。 ああ、私は、なんてデリカシーのないことを言ってしまったんだろう。

世の中には、風俗が「好きな男」と「好きでない男」の2種類がいる。「好きだけど後ろめたいから滅多に行かない」「好きじゃないけど誘われれば行く」というような微妙なメンタリティの男性も多いのだろうが、大雑把にいえば「行く男」と「行かない男」に二分できるのではないかと思うのだ。

この違いは何なんだろう? ちなみに鈴木くんは、「風俗に行くほど女に不自由してるわけじゃないぜ」ってタイプである。じゃあ、一体どんな男が風俗に行くのか? 私の立てた仮説は、「欲望が強いのにモテず、男友達も少ない男は、1人で風俗に行く」「男同士でつるむのが好きな男は、モテるモテないに関わらず、連れ立って風俗に行く」の2つだ。つまり、風俗通いには、欲望を満たすという単純な動機のほか、おつきあい的な側面も見逃せないのではないだろうかという話。 本書は、主として2番目の仮説を具体的に検証してくれる。

「北海道」「東北・北陸」「関東」「京都」「関西」「四国・九州・沖縄」の6エリアにおける百戦錬磨な男の体験が、その土地の経済・文化的背景にまで踏み込みつつ語られる教育的な風俗ロード・ムービーだ。 「この中に紹介されている悪所場に独りで、あるいは悪友と出かけて、私の味わった愚かさと無常観と、そして幾ばくかの快感を味わってください」 「たくさん遊んでください。あるとき、あれほど煌いていたものが、ひどく縮んで、くすんで見えるときがきます。そうしたら、そろそろ卒業です」という具合。

著者は小学1年生のころから学校にほどんど行かず、五年生のときに紡績工場の若い女工さんたちに五百円で回され、中学の3年間に施設でトルエンを覚え、その後は女を知り尽くした悪ずれの十代を過ごし、バイト感覚で覚醒剤(結晶状態の純粋なもの!)を削るようになり、「薬を使って彼女にしてしまった彼女たちって二十人ほどかなあ」などとうそぶく。彼のキャリアに匹敵するワル(しかも更正したワル)は、なかなかいないだろう。

作家らしい含蓄あるお言葉も多い。

「お金では、美女は買えないのですよ。美女の心までモノにしなくては意味がないでしょう。金で買えるのは、看板のようなもの、だけなのです」
「街中だったら絶対に声をかけない、金を貰ったってやりたくないような女性でも、金を払うとやるしかない。で、『この人傷つけたらまじいな』とか、変なことまで思っちゃって。人類愛の世界です」
「こういう遊びは独りで行くよりも誰かと行った方が絶対に愉しいですね。一人で行ってですよ、なんか凄いお婆ちゃんと抱きあってしまったりすると、やたらと人生が暗く、重くなります」
「だいたい女性を金で買うという行為は、じつは嫌な思いをしに行くという側面が強いんでね(中略)このあたりがわからない者は、女性を買う資格がありません」

悪事の限界を知っている人だ。著者が「やめたほうがいい」ということは、たぶん、本当にやめたほうがいいことなのだろう。この本は、遊び方よりも何よりも、本当にヤバイことは何かってことを教えてくれる。
2001-12-16

『ノー フューチャー(A SEX PISTOLS FILM)』 ジュリアン・テンプル(監督) /

短命を恐れないかっこよさ。  

 
 
 

ロック史上もっともスキャンダラスで悪名高いバンド、セックス・ピストルズの未公開映像がたっぷり楽しめる映画。当時の英国のニュースフィルムやコマーシャル、コメディなどがコラージュされ、70年代という時代をシャワーのように浴び、興奮することができる。

「アナーキー ・イン・ザ・UK」のイントロが流れ、ジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)や死の直前のシド・ヴィシャスの表情を見るだけで鳥肌がたつ。大人を裏切る若者の胸のすくような過激さは、時代を経ても色褪せない。

にせものだけが生きのびる、というメッセージを残し、セックス・ピストルズはわずか26か月で解散。公式発表アルバムはたった1枚。これほど短命なバンドが、パンク以降のあらゆるカルチャーシーンに影響を与えたのだ。生きのびようとあがくことの醜悪さから、私たちは逃れることができるのだろうか?

「俺たちは俺たちでいたってこと。それが後から革命だとか言われたんだ」とジョニー・ロットンは語る。自分に忠実であることがすべてと言い切れる思想は、健全で鋭い。彼らの行動やファッションをまねすることは、パンクの真の意味から遠ざかることにしかならないだろう。

次のムーブメントは、いつどこで起きるのか? 不況で鬱屈する労働者階級からセックス・ピストルズが生まれたように、不自由であることに敏感なエリアから予想外の形で炸裂するはずだ。そう考えると、不安や不満がいつまでもなくならない世の中のしくみにも、希望がもてる。

*1999年イギリス映画/シネセゾン渋谷で上映中
2000-11-25