『ブロークン・フラワーズ』 ジム・ジャームッシュ(監督) /

25年たっても変わらない男。


これは僕の物語の一部だ
僕のすべては説明できない
物語というものは点と点を結んで
最後に何かが現れる絵のようなもので
僕の物語もそれだ
僕という人間がひとつの点から別の点へ移る
だが何も大して変わるわけじゃない
(「パーマネント・バケーション」より)

ジム・ジャームッシュの最高傑作といったら、彼がニューヨーク大学大学院映画学科の卒業製作として撮った「パーマネント・バケーション」(1980)に決まってる。と私は思うのだが、最新作「ブロークン・フラワーズ」(2005)を見て確信した。ジャームッシュの映画は、いまだにどこへも行けない。25年前のパーマネントバケーションのままだ。

中年男が身に覚えのない息子探しの旅に出る物語、という意味ではヴィム・ヴェンダースの「アメリカ、家族のいる風景」(2005)とそっくりだが、アプローチは似て非なるもの。「アメリカ、家族のいる風景」が男の夢やロマンを全部説明し、全員の気持ちに決着をつけ、元の場所へ戻っていくのに対し「ブロークン・フラワーズ」は何も決着をつけず、元の場所へも戻れない。

ビル・マーレイ演じる「ブロークン・フラワーズ」の主人公ドン・ジョンストンは「パーマネントバケーション」の主人公アリー(16歳)の40年後の姿かもしれない。どちらの男も一人身で、一緒に暮らしている女とも別れ、ちょっとだけおかしな人たちと場当たり的な交流をもつ。まったく進歩していない。

・・・
他人は結局 他人だ
今僕が語ってる物語は―
「そこ」から「ここ」
いや「ここ」から「ここ」への話だ
(「パーマネント・バケーション」より)

「ブロークン・フラワーズ」に登場する、ちょっとだけおかしな人たち。それが「20年前につきあった女たち」であることが唯一、主人公の成熟をうかがわせるわけだが、ジャームッシュの描写する女たちの姿は本当にリアルに面白く、現代のアメリカの最前線の病を写し取っている。

昔の女を訪ね歩くというギャグのような設定でありながら、いかにも自然で、音楽や小物のセンスも、相変わらず弾けている。たとえばドン・ジョンストンがこんな馬鹿げた旅に出ることを決めた心理は、彼の表情とシャンパンと音楽だけで表現されるのだった。

20年も昔の男から突然の訪問を受けたとき、女たちはどんな反応を示すのか? 次の家はどんな家で、どんな女で、どんな生活をしており、どんな扱いを受けるのか? 楽しみでたまらない。そして、ありがちな息子探しの物語を強烈に皮肉り、どこにも着地しないエンディング。

こんなお洒落な映画をいつまでも撮っている男って、かっこ悪すぎる。
そんな男を好きだと思ってしまう自分もまた、かっこ悪すぎるのだが。

・・・
去ると いた時より そこが懐かしく思える
いうなれば僕は旅人だ
僕の旅は ― 終わりのない休暇(permanent vacation)だ
(「パーマネント・バケーション」より)


*2005年アメリカ映画
*カンヌ映画祭 グランプリ受賞
2006-05-12

『文盲―アゴタ・クリストフ自伝』 アゴタ・クリストフ(著)/堀茂樹(訳) / 白水社

書くことは、戦うことだった。


なぜ、こんなシンプルな文体に力が宿るのか? 不気味なほど冷徹な意志はどこからくるのか? ハンガリーの作家、アゴタ・クリストフを世界的に有名にした「悪童日記」三部作を貫く感覚は、自分の身近からはどう転んでも生まれてきそうもない種類のものだった。

そして今、彼女の自伝ともいえる「文盲」によって、長年の疑問がとけた。

言葉を知り尽くし、美辞麗句を並べたてることは、想像力のじゃまにしかならない。作家に必要な資質とは、形容詞をたくさん知っていることでもないし、高等教育を受けていることでもない。「知らないこと」と「強いられること」が、彼女の意志を強固にし、読み書きへの熱意を切実にした。母語からドイツ語、ドイツ語からロシア語、ロシア語からフランス語へと、何度も言葉を捨てざるを得なかった運命が、真理を志向させたのだろう。彼女は、決してマスターすることのない「敵語」の違和感を永久に引き受けることを自らに課し「文盲者の挑戦」を続けようと決めたのだ。

彼女の生きるモチベーションは、戦いだ。したがって「革命と逃走の日々の高揚」を失った亡命先のスイスでの労働生活は、砂漠でしかない。言葉が通じないことが砂漠だったわけじゃなく、変化や驚きのない、判で押したような時計工場での労働生活そのものが砂漠だったのだと思う。彼女のアイデンティティは、読み書き以前に「歴史を画することになるかもしれない何かに参加しているのだという、そんな印象を抱き得た日々」だった。

アゴタ・クリストフのこのようなメンタリティは、同じハンガリー出身の女性監督、フェケテ・イボヤの映画に見い出すことができる。社会主義崩壊後、民族と言語と情報が交差する都市の熱狂を描いた「カフェ・ブタペスト」。あるいは、切実に何かを探し、移動し、サバイバルを繰り返す男のアイデンティティ・クライシスをテーマにした「チコ」。仲間のいなくなったかつての戦場を訪れるラストシーンは、まさに砂漠だ。

だが、もともと砂漠のような環境で生まれ育ち、その平穏さを愛している私は、アゴタ・クリストフの「敵語」という感覚を共有できない。平和と順応がスタンダードである私たちの日々は、革命と逃走をスタンダードとするアグレッシブな日常からはもっとも遠いのだ。「敵語」で書かれ、日本語で届けられた彼女の文章は衝撃的だが、それらが共感といえるようなヤワな次元に至ることはない。

アゴタ・クリストフは、世界的な作家になったことで、砂漠から脱出できたのだろうか?現代のフランス語圏での生活は「革命と逃走の日々の高揚」をますます遠ざけんじゃないだろうか? 彼女は今もフランス語を「敵語」と意識しているだろうか?

「悪童日記」三部作を凌駕する作品が、その後、ひとつも発表されていないという事実が、戦いという最大のモチベーションを失いつつある彼女の現状を、物語っているような気がしてならない。
2006-04-25

『スモールトーク』 絲山秋子 / 二玄社

彼女がクルマや男と別れる理由。


「イッツ・オンリー・トーク」に登場するランチア・イプシロンにピンときた「NAVI」の編集部が著者の絲山秋子さんに連絡をとリ、毎回異なるクルマが登場するエンスーな短編小説の連載が始まった。それをまとめたのが本書である。

TVRタスカン、ジャガーXJ8、クライスラー クロスファイア、サーブ9-3カブリオレ、アストンマーチン ヴァンキッシュ、アルファロメオ アルファGTという6台のラインナップに加え、著者がどれほどクルマ好きかが手にとるようにわかる6本のエッセイ(最高!)、そして巻末には徳大寺有恒氏との対談(話がかみあってないよ)も収録されている。

短編といっても、ぜんぶがつながっていて、絵を描いている主人公ゆうこと、学生時代の元カレである音楽プロデューサーの物語だ。「沖で待つ」が「同期入社愛」なら、こちらは「腐れ縁愛」。もうぜんぜん愛なんて逆さに振ってもありえない馴れ合いだけのすさみきった関係にぬくもりや成果を見出すことの馬鹿らしさと笑えるニュアンスを、とてもうまく描いている。

それにしても、この男の魅力のなさはどうよ。魅力的なのは何といってもクルマのほうで、ゆうこはクルマの吸引力によってデートを重ねるのである。といってもミーハーなのではなくスーパーマニアック。真性のクルマ好きであるゆうこは、工業製品であるクルマを、不完全な生き物として欠点も含めて包容する。男との別れよりも、彼女自身が所有するアルファ145との別れのほうが、だんぜん切ない。

ふたりの共通の友人である肇がプリウスを買うエピソードも面白い。肇は、ゆうこにプリウスをけなしてほしくてたまらなくて「ゆうこちゃんはプリウス、絶対嫌いだろうな」なんて言う。

「肇はプリウスを買うことで、禿と偽善と家族サービスと洗車奴隷を一手に引き受けたというわけだ。偉くてありがたくて恐れ入る」

ある種のドイツ車やプリウスや冷蔵庫みたいなクルマがどうしてつまんないかっていうと、ある種のドイツ車みたいな男やプリウスみたいな男や冷蔵庫みたいなクルマみたいな男がつまんないからだ。ということが、この小説からはびしびし伝わってくる。駐車場に入れてスロットからキーを抜くと女の声で「お疲れさまでした」なんて言うプリウスと「ゆうこちゃんはプリウス、絶対嫌いだろうな」なんて言う男とはそっくりなわけだ。

ゴルククラブが収納できて、家族が収納できて、こわれなくて、安心できて、変な目でみられない身の丈サイズのクルマ。でもちょっとだけ見栄を張れる感じ。そういう妥協的観点から多くのクルマは選ばれており、現代の道路はいつも、あきらめに似た気分で渋滞している。昔の映画の中にしか、洗練はないのだろうか。世の中の進化が、妥協の積み重ねでしかないのだとしたら、コワイ。

「新しい車に次々搭載される機能はこの喪失感に何の救いも与えない。神経を逆なでするようなばかばかしい小細工はこれからも続くだろう」
2006-04-06

『ないものねだり』 中谷 美紀 / マガジンハウス

期間限定の、ホンキ。


中谷美紀に「シミ、本気で治したい。」と言わせたから、エスエス製薬のハイチオールCはヒット商品になったのだと思う。タレント広告というのは安直なニュアンスが生まれやすく、制作側の立場としては「なるべくやりたくないなあ」というのが本音でもあるけれど、彼女を起用した広告なら、私もぜひやってみたい。本気のコピーが書けそうだから。

「アンアン」の連載をまとめたこの本も、タレント本というカテゴリーを遥かに超え、プロのエッセイ集としての読み応えをそなえたものだった。

彼女は、女優らしく茶道や日本舞踊を習う一方、沖縄やタイやインドを旅し、春にはお弁当をつくって友人たちと花見に興じる。食事を何よりも大切に考え、ロケ弁に一喜一憂し、質の高さで定評のあるマガジンハウスの社員食堂にまで足を運ぶ。
フットワーク軽く、豊かに生活を楽しむ彼女の姿には、凡人のあくせく感がない。世に蔓延している「ステップアップ」の呪縛から解き放たれているのだ。それもそのはず、女優というのは、これ以上ステップアップしようのない雲の上の職業。彼女はその中でも仕事を厳選し、綺麗なイメージを保っている稀有な存在ではないだろうか。

何かを選ぶことは何かを捨てること。自分が捨ててきたものに思いをはせる時、それは「ないものねだり」になる。地上に根を下ろす人は空を見上げて「ないものねだり」をするが、彼女の場合は逆。「短ければ2週間、長くても3か月ほどで終わってしまう撮影現場を次から次へと渡り歩き、暇を持て余しては旅をする暮らし」を選んだ彼女にとっては、「地に足のついた暮らし」こそが欠けているのである。

彼女が繰り返し本気で書いているのは、「絶えずいろいろな役が自分のなかを通り過ぎては消えていく女優の孤独」について。それは、受身の美学でもある。受身とは消極性ではなく、大きな流れに身をゆだねること。他人の目を信頼し、プロフェッショナルでありながら柔軟であること。与えられた仕事に全力を尽くし、女優の仕事がなくなったらどうしようかと楽しげに思いをはせる彼女は、非常に職人的だ。

「共に過ごした時間の全てを彼への想いで満たし、一瞬たりとも離れたくないとさえ思えた。映画の撮影であることすら忘れかけていた頃に、例に漏れず別れの日はやって来た。いつもと同じように撮影を終え、いつもと同じように散り散りに部屋に戻った後の喪失感は、まるで自分の一部をもぎ取られたかのようだった」

これは「母親になった日々」と題された項の、痛すぎる一節。擬似的な世界に本気で入り込める資質こそが、プロの女優ということなのだろう。しかし、求められているのは「本物っぽいホンキ」であり「本物のホンキ」ではない。そんな微妙な調整、心の中でできるはずがない。スタッフや相手役以上に仕事にのめり込んでしまった時は、どうすればいいんだ?
彼女がやっているように、仕事と仕事の合間には、別の旅に出るしかないだろう。無理にでもそうしなければ、自分の一部をもぎとられた感覚のまま、ベッドにつっぷして動けなくなってしまうにちがいない。

それでも、懲りずにそんな繰り返しをする。
嘘だとわかっていても、終わりの日がわかっていても、本気になる。
仕事でも恋愛でも、本気で集中できる期間限定の日々は、美しい。
2006-03-22