世界を救うかもしれないメルヘン。
芥川賞の選評を読んだら「小説としての怖さがどこにもない」と石原慎太郎。「作品にリアルな怖さがない」「肝心な部分が書かれていない中途半端な小説」と村上龍。
だが、この小説はそもそも怖いモチーフを扱ったものなのだろうか?
普通に生きているのに、いつのまにか、ぎりぎりの場所を歩かされてしまっている。そういう主観と客観のずれを描いた小説だと思う。主人公は自分のことを正常と開き直っているわけでもなく、異常という劣等感にさいなまされているわけでもなく、特別な優越感を抱いているわけでもない。非常にまともな感覚をもっている印象だ。ナルシシズムとは無縁の知的なイノセンスは、それだけで読むに値する。次第に明らかになる主人公のプロフィールを、友達になっていく気分で読み進めることができるのだ。
実際、主人公の友だちは皆すばらしい。冷たくも温かくもなく、そのまんまだ。思ったことはズケズケ言うが、裁かない。感動的なことを言わないし、彼を本質的に助けたりもしない。普通に鈍感で、普通に信用できる。あんまり頼りにならないけど安心できる。これこそが友だちってものの理想的な距離感かも。こんな友達がいるだけで、主人公はきっと大丈夫なはずなのだ。
ロリコンという言葉は、主人公を説明するための後付けのタームにすぎない。この小説はとても親切な構造になっていて、主観的な描写のあとで、必ず客観的な説明がなされるのだ。カメラで世の中を趣味的に切り取っていた主人公は、ふとしたきっかけから脚本・演出によって世の中を動かし始めるのだが、そのことは、こんなふうに説明される。
「カメラを手にしなくなったわたしは、言葉のみを使いこなして現実に介入しなくてはならない難儀な場所へと辿り着いてしまった。果たしてわたしはこの難関を、乗り切ることが出来るのだろうか」
犯罪的行為の受け取られ方というのは、千差万別だと思う。世間は騒ぐかもしれないが、友達は聞き流すだけかもしれない。親友であれば同情するかもしれないし、後輩なら武勇伝ととらえるかもしれない。妻にしてみれば耐え難い苦痛かもしれないし、当事者である幼い娘は傷ついて死ぬかもしれない。
ロリコンとは子供を愛することの対極ではなく、延長なのだというのが、この小説の重要なメッセージだ。ロリコン的嗜好は子供を傷つけることもあるだろうが、子供を救う可能性もあるのだということ。世界のある部分とディープに関わってしまうマニアックな人がどう生きていけばいいかのヒントを与えてくれる。
以前、クライアントであるIT関連の会社社長が、一心不乱にパソコンに向かう社員の一部を指さして私にこう言った。「こいつらには社会性はないんだけどね。役に立つから飼ってるんだよ」。
パソコンマニアの一部がハッカーになり、印刷技術の進歩が偽札づくりを助長し、クローン技術の追求が生命のモラルをおびやかし、学校の先生が子供を愛することの延長にも犯罪がある。すべてのプロフェッショナリズムは、違法な行為につながる可能性を秘めているのかもしれない。
主人公は故郷に帰り、2人の少女と出会う。
「二人そろって頷いてみせた―その肯定の身振りの力強さが、わたしをますます脱力させて、仄かにときめかせた」
脱力し、仄かにときめく。なんと小さな手がかりだろう。世界とつながるための、あまりに弱々しすぎるモチベーション。でも、この繊細な手がかりが重要なのだ。このメルヘンこそが、世界を救うグランド・フィナーレの鍵になるかもしれないのだ。
強さのみを志向する人には、世の中を救えない時代になった。
2005-03-11