『あしたのジョー』 曽利文彦(監督)

身体改造の可能性。


男はどうすればかっこよくなれるのだろう。親に可愛がられるか、虐待されるか。矢吹丈の場合は捨てられた。「俺を捨てた親が悪い、社会が悪いってひねくれてた。力石と会ってボクシングをやる前はな。おっちゃん、ありがとな」

矢吹丈を演じた山下智久はどっちなのか?満足に食べられない中、毎日厳しいトレーニングを続けた彼は言う。「普段ほとんど怒ったりしないんですけど、あの頃は気性が荒くなっていていろんなことが抑えられなかった。喧嘩っぱやくなるというか、何にでも突っかかっていっちゃうんです。人間、追い込まれると隠れた闘争本能が出てくるのかな」

そして、力石徹を演じた伊勢谷友介の計量シーンの凄まじさ。「乳製品、炭水化物、揚げ物、甘いもの…一切食べませんでした。(中略)これと同じことをやれば日本国中が、すごいスタイルになると思う。ただ“食えない”“飲めない”ってことは、想像以上にしんどかった。生活を維持するためにまず必要なのが、エネルギーじゃないですか。これがなくなると人間ってこんなに殺伐として、攻撃的になるんだってことを知りましたね。(中略)人としゃべりたくなくなるし、黒~い負のオーラを出してしまう」
身体を変えることで目覚める野性。そのドキュメンタリーとして、この映画はおもしろい。出発点には、原作を損ねないようにという強い動機がある。『あしたのジョー』という作品は、それほどまでに男たちが表現し、近づきたい畏怖の世界なのだろう。

人間は、本を読んでも変わらない。自分に都合のいいものを読み、都合のいい部分に感激するだけだ。ある意味、身体をなぐられなければ人間は変わらない。身体を変え、感じることには限りない可能性があると思う。だけど、男の身体改造は暴走する。力石徹の計量シーンも「誰もあそこまでやれとは言わなかったし、実際撮影の当日、彼の体を見て“誰がここまでやらせたんですか!?”と監督に詰め寄るスタッフもいたほど」とボクシング&アクション指導をおこなった梅津正彦は言う。伊勢谷ファンの女子は悲鳴をあげた。えぐれたお腹を、かっこいい、美しい、と感動する人も。伊勢谷自身は「自分が演じたあの人は、映画の中にしかいないから。あの中にいる人はボクとは違う人だから」というようなことをインタビュー番組でクールに言っていた。俳優には女の感覚がわかっているかもしれない。些細な変身を日々強要されたり、自ら楽しんだりしている女の感覚が。

映画のあとで食事に行った店のシェフは、ボクサーのような人だった。ソリッドな空間で、異次元の料理を出す人。誰もやらないこと、どんなカテゴリーにも属さないことを、徹底的にそぎ落とすことで実現しようとしている人。有名になっても、ちやほやされてもハングリーな人。一度完成させたものを壊し、環境を変え、やるべきことや才能をしぼりこんでゆく人。彼はレストラン界の『あしたのジョー』なのか? 俳優じゃないから、戻って来れないくらい徹底的に突き進んでしまうのかもしれない。

私は、ジョーのハンチングとコートをまねし、ハングリーな人のつくった料理を食べる。ボクサーでも料理人でも俳優でも男でもないので、そのくらいのことしかできない。でも、それだけでソリッドな気分にはなれる。自分が命をかけてやるべきことを、やらなくては。身体が変わるくらいに、やってもいいんじゃないか。ダイエットとか、オシャレとか、レンアイとか、そういう他力本願で甘い香りのする言葉は使わずに、女も、本質的な変わり方をするべきなんじゃないか。そんなことを思ったりする。
2011-02-19