『英国王のスピーチ』 トム・フーパー(監督)

くちべたの魅力。


英国の現女王エリザベス2世の父、ジョージ6世は、吃音に悩んでいた-。
ジョージ6世と彼をサポートする妻のエリザベス1世、そしてスピーチ矯正の専門家ライオネルをめぐるこの映画は、英国王室の実話にもとづいている。

ジョージ6世は1952年、56歳で亡くなったが、妻のエリザベス1世は2002年、101歳まで存命だった。1970年代、プロデューサーらに映画化の認可を問われたエリザベス1世は「とても嬉しいが、思い出すにはまだつらすぎるので、私が死ぬまで待ってください」とだけ要求したという。彼らは映画化まで28年待った。「思い出すにはまだつらすぎるので」という言葉は、映画の中のどのセリフよりもリアルだと私は思った。

喋るのが不得意な人は身につまされるだろう。スピーチの瞬間の恐怖やプレッシャーがまざまざとよみがえる。そんな状況の中で、ジョージ6世を見守るライオネルの存在のなんと心強いことか。頭の中が真っ白なのに、彼の表情だけがくっきりと見え、救いになる。

私自身、人前で喋るのが苦手なのに、かつてナレーションの仕事をしたり、テレビやラジオで喋ったりしたことがある。原稿を読むのが好きだったからだが、読む仕事だけが都合よく舞い込んでくるはずもなく、苦手なことを強いられることも多々あった。つらかったが、完全な自業自得だ。

私にとってのライオネルはいつも、ふいに現れた。苦手な仕事のとき、会議のとき、頭が真っ白になるあらゆるシーンで思いがけない援護やフォローをしてくれた人をどれだけ頼もしく思ったことか。今だって、そんなサポートに涙する日々だ。ひとりじゃ生きていけない。

映画の中でライオネルは、ジョージ6世の吃音が幼いころのトラウマと無関係ではないことを突き止める。苦手なことの水面下には、親との関係やショックなできごとなど、いろんな要素があるんだってことを。この映画は、身分を超えた友情をシンプルに描いた「いい話」だが、実際には、他人のふれられたくない部分にふれることには危険が伴うだろう。この映画は、その意味で少々ものたりない。ユダヤ人ピアニストとドイツ軍将校との禁断の交流を描いた『戦場のピアニスト』や、サリエリがモーツァルトに抱く凄まじい嫉妬に肉迫した『アマデウス』のように、男同士の友情の、先や奥や裏を匂わせてほしかった。

そもそも吃音というのは、矯正すべきなのだろうか。スピーチなんて、うまくできなくてもいいんじゃないだろうか。人の中にひそむ脆弱さはかけがえのない個性であって、安易に強化すべきではないんじゃないかという思いを、私は捨てきることができない。ジョージ6世はスピーチの後、弱点を指摘され「僕だというしるしを残しておかないとね」と開き直るが、このセリフは強い印象を残す。妻のエリザベス1世だって、こう言っている。「あなたの求婚を二度も断ったのは王族の暮らしがイヤだから。でも、素敵な吃音、幸せになれそうって思ったの」

もう亡くなってしまったが、私の身近にもスピーチが下手な社長がいた。彼は、やっていること自体がかっこよかったので、そのことはほとんど問題ではないように思われた。喋らなければならないシーンは多かったが、スタッフやファンがはらはらしながら見守っていたりするのも悪くなかった。それは愛に満ちた空気だった。

私の好きなミュージシャンも、ライブではいつも「ハロー」と「今日は来てくれてありがとう」と「またどっかで会おうぜ」の3語くらいしか言わない。でも、そこが限りない魅力。人は、言葉より前に、やるべきことをかっこよくやればいいのだ。
2011-03-10