誰でもない瞬間。何処でもない地点。
原作とはかなり違っていた。キャスティングはばっちりで、原作でリアリティに欠けると感じられた部分がリアルに処理されていたし、原作で楽しみにしていたのに改変されてしまった部分ですら、面白い挑戦になっていた。
カメラマン志望の主人公(三浦春馬)を取り巻く女たちが魅力的だ。セクシーな義理の姉(小西真奈美)、ちゃきちゃきした幼なじみ(榮倉奈々)、一人娘を連れて公園を渡り歩く美しい人妻(井川遥)。男たちも秀逸で、主人公がバイトするバーのマスター(宇梶剛士)は画一的でないゲイっぷりを披露するし、人妻を尾行しろと主人公に依頼する歯科医(高橋洋)は、本来は素直でいい男なのに高度成長期以降の東京という汚染された狭い土地で育ってしまったため伸びやかさに欠けいまひとつ優柔不断でひねくれてしまったという典型的な<東京のお坊ちゃまキャラ>の愛らしさを見せつける。
東京という土地に徹底的にこだわった平和な話だ。『パイレーツ・オブ・カリビアン』のあとに見れば「え、何も事件が起きないの?」と思うかもしれない。登場人物一人ひとりが、誰かとゆっくり話をしたり、向き合ったりすることで小さな決着をつけ、少しだけ明るい表情になる。つまり、ジム・ジャームッシュの『パーマネント・バケーション』のような「そこ」から「ここ」、いや「ここ」から「ここ」への話。特別なことじゃない。
だけど、三浦春馬がミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』のように突然、小西真奈美を追い詰めて撮り始めるシーンや、その後の長いキスシーンを巡る天才的な小西真奈美の演技は忘れがたい。榮倉奈々が動物のように甘いものを食べ続けたり、色気のない長いセリフをあまりに自然なリズムで発したり、宇梶剛士が本当に酒を飲んでいるみたいな時間を過ごしていたり。それらは意味なんて抜きに、脳裏に刻まれる。
井川遥が公園を踏みしめて歩くブーツや空を見上げる優雅な帽子、高橋洋が酔っぱらって登ろうとする木の形。
この映画には、人が「何か」から「何か」になるまでの瞬間的な過渡期が描かれている。男でも女でもない、少年でも青年でもない、青年でも中年でもない、姉でも恋人でもない、仲間でも家族でもない、生きているのでも死んでいるのでもない、そんな奇跡的なはざまの瞬間を、公園という思考を剥奪させる天国のような場所で浮き上がらせる。それは「何か」と「何か」の間の新芽のような瞬間で、どんな人にも、どんな時にも、そういう嘘みたいな新芽の季節はふいに現れたりするんだ。と理解した瞬間にほとんど叫びたくなる。
これこそが「何か」と定義されるようなドラマの排除によってこの映画が獲得したいちばん大切なもの、美しいものといっていいかもしれない。多くの人がふだん見逃しているけれど、「何か」に決めつけないと社会生活が営めないと思い込んでいるけれど、実は、決して見逃してはいけない瞬間。これを見るために私たちは生きているのだし、人はそういう瞬間に恋におちるに決まってる。
いい映画は人生と同じだ。泣けるシーンなんてひとつもないのに、見ている間は涙なんて一滴も出ないのに、どのシーンを思い返しても泣けてくる。ジム・ジャームッシュは言った。「去ると、いた時より、そこが懐かしく思える。いうなれば僕は旅人だ。僕の旅は、終わりのない休暇(パーマネント・バケーション)だ」
青山真治監督は「これまでとは何か違うことをやりたいと思っていた」と言っていたが、『東京公園』には、これまでに見たことのない奇妙な感触が確かにあった。時間とともに余韻が増し、一生の記憶となりそうな。
2011-06-20