『サウダーヂ』富田克也(監督)

地方都市は、世界の最前線。



日本の地方都市には、まだ撮られていないもの、描かれていないことがいっぱいあるんだなと思った。東京にいると、いろいろあり過ぎて何だかよくわからないカオスだけど、地方都市はシンプルでナイーブな最前線。一人ひとりの行動が目立ち、それはそのまま隠しようのないドラマなのだ。

舞台は、監督の故郷である甲府。仕事がなくなっても「土方でもやればいいや」と思っていたという、その最後の砦としての土木作業の現場が、リーマンショック後の厳しい現状を映し出す。甲府のラッパーは、世の中への不満をそのまま言葉にのせ、過激な思想へ傾倒する。甲府でコミュニティをつくり生活しているタイ人やブラジル人の状況はさらに深刻だ。

39歳の監督は、映画専業ではなく、トラック運転手をやりながらこの作品を撮ったという。土方を演じたのは、監督の中学時代からの同級生。本物の土方(超かっこいい!)である彼は当初、監督にこう言った。「自分もふくめた現実の状況が余りにもキツすぎて、映画にするのはツライよ」。しかしその後、監督が現場に入り込み、改めて話し合った結果「やっぱりこれは撮らなきゃダメだろう」と口を開いたのも彼だった。監督は、仕事帰りの早朝の高速道路で、現場出勤前の彼と、携帯電話で熱い議論を交わしたそうだ。

ほかにも演技の素人を多数起用。つまりこの映画には、たくさんの本物が登場する。1年のリサーチ期間を経て(この間に撮影された映像は編集されドキュメンタリー映画になっている)寄付金を集め、週末しか時間がとれないため、撮影には2年かかった。かつての賑やかな商店街を再現したシーンは、現実のさびれた商店街で撮影されたが、かつての活気が戻ってきたと感激する人もいたらしい。いいシーンは本当にたくさんあるが、このシーンを見るだけでも価値がある。

お金がないとか、時間がないとか、無名の人しか使えないとか、そういう言い訳は、もう通用しない。やりたいことを、楽しみながらやり切ってしまったように見えるこの映画は、インディペンデントであることを、すべてアドバンテージに変換することに成功したのである。

2時間47分、スクリーンに釘付けにさせ、しかも笑いが尽きない。時間をかけた撮影から生まれたリアルが、リッチに注ぎ込まれているからだ。インディペンデントとは思えない波及の仕方で海外の映画祭にも招待され、共感を呼んでいる。ハンディは長所、ピンチはチャンス、アンチテーゼは自由への扉なのだと思う。
2011-11-02

『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ 』バンクシー(監督)

限りなくイタズラに近い映画

 
 
 
 
術館へ行くと、ミュージアムショップの広さと充実ぶりに驚くことがある。
「EXIT THROUGH THE GIFT SHOP(ギフトショップを通り抜けて出口へ)」というこの映画のタイトルは、商業的な美術マーケットを皮肉っているのだろう。ストリート・アートに関するドキュメンタリーだが、映画自体がストリート・アートのようでもあり痛快だ。

古着屋を営むティエリーは、趣味のビデオカメラでストリート・アーティストを追いかけ、撮影している。ストリート・アートは非合法の落書きのようなものだから警戒するアーティストも多いが、ティエリーは彼らと一緒に危険な場所にのぼってアシスタントをつとめたり、警察に捕まらないよう見張りまでするから、彼らも受け入れてしまうのだ。

覆面アーティストのバンクシーにもようやく会え、条件付きで撮影を許可される。バンクシーは、公衆電話を壊したり、イスラエルとパレスチナを隔てる壁に穴の絵を描いたり、美術館に自分の作品を勝手に展示したり(大英博物館はその後、彼の作品をコレクションに追加した)というゲリラ的なパフォーマンスで知られる人。映画では、2006年、ディズニーランドのビッグ・サンダー・マウンテンのコース脇に、キューバのグアンタナモ収容所の囚人を模した人形を置いた際の、取り調べの顛末が明らかにされている。グアンタナモ収容所は、テロとの戦いの象徴として拷問などが問題視された場所だ。

ティエリーは膨大な記録ビデオを編集するが、それを見たバンクシーは、彼には映画監督の才能はないと判断し、ストリート・アーティストになるようアドバイス。立場は逆転し、バンクシーがティエリーを撮り始めるのである。この映画は、絵も描けない素人が一日で有名になりデビューするにはどうしたらいいかという無謀なプロジェクトの記録だ。さすがバンクシー、ただものじゃない。壮大ないたずらをアート界に仕掛けたのである。自分に近づいてきたマニアからカメラをとりあげ、「お前のほうが俺より面白い」と自分は覆面のまま、身軽な映画に仕立ててしまった。実際、ティエリーはその気になり、かなり無茶をする。

ストリート・アーティストの反骨精神を骨抜きにするのは、取り締まりではなく、作品を絶賛し、高く買い上げることかもしれない。作品として扱われ、高い値段がつけられ、美術館に飾られたストリート・アートって一体何なの?と思う。落書き禁止の場所が増えた代わりに、指定の場所にどうぞ描いてくださいなんて言われたら、一体どうすれば?

最終的に暴かれるのは美術マーケットの滑稽さか、それともストリート・アートの暗澹たる未来か。

映画が終わってロビーに出ると、関連商品やグッズに人が群がっていたけれど、私は売店を通り抜けて、身軽に渋谷の街へ繰り出すことにした。
2011-07-26

『東京公園』青山真治(監督)・小路幸也(原作)

誰でもない瞬間。何処でもない地点。



原作とはかなり違っていた。キャスティングはばっちりで、原作でリアリティに欠けると感じられた部分がリアルに処理されていたし、原作で楽しみにしていたのに改変されてしまった部分ですら、面白い挑戦になっていた。

カメラマン志望の主人公(三浦春馬)を取り巻く女たちが魅力的だ。セクシーな義理の姉(小西真奈美)、ちゃきちゃきした幼なじみ(榮倉奈々)、一人娘を連れて公園を渡り歩く美しい人妻(井川遥)。男たちも秀逸で、主人公がバイトするバーのマスター(宇梶剛士)は画一的でないゲイっぷりを披露するし、人妻を尾行しろと主人公に依頼する歯科医(高橋洋)は、本来は素直でいい男なのに高度成長期以降の東京という汚染された狭い土地で育ってしまったため伸びやかさに欠けいまひとつ優柔不断でひねくれてしまったという典型的な<東京のお坊ちゃまキャラ>の愛らしさを見せつける。

東京という土地に徹底的にこだわった平和な話だ。『パイレーツ・オブ・カリビアン』のあとに見れば「え、何も事件が起きないの?」と思うかもしれない。登場人物一人ひとりが、誰かとゆっくり話をしたり、向き合ったりすることで小さな決着をつけ、少しだけ明るい表情になる。つまり、ジム・ジャームッシュの『パーマネント・バケーション』のような「そこ」から「ここ」、いや「ここ」から「ここ」への話。特別なことじゃない。

だけど、三浦春馬がミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』のように突然、小西真奈美を追い詰めて撮り始めるシーンや、その後の長いキスシーンを巡る天才的な小西真奈美の演技は忘れがたい。榮倉奈々が動物のように甘いものを食べ続けたり、色気のない長いセリフをあまりに自然なリズムで発したり、宇梶剛士が本当に酒を飲んでいるみたいな時間を過ごしていたり。それらは意味なんて抜きに、脳裏に刻まれる。

井川遥が公園を踏みしめて歩くブーツや空を見上げる優雅な帽子、高橋洋が酔っぱらって登ろうとする木の形。

この映画には、人が「何か」から「何か」になるまでの瞬間的な過渡期が描かれている。男でも女でもない、少年でも青年でもない、青年でも中年でもない、姉でも恋人でもない、仲間でも家族でもない、生きているのでも死んでいるのでもない、そんな奇跡的なはざまの瞬間を、公園という思考を剥奪させる天国のような場所で浮き上がらせる。それは「何か」と「何か」の間の新芽のような瞬間で、どんな人にも、どんな時にも、そういう嘘みたいな新芽の季節はふいに現れたりするんだ。と理解した瞬間にほとんど叫びたくなる。

これこそが「何か」と定義されるようなドラマの排除によってこの映画が獲得したいちばん大切なもの、美しいものといっていいかもしれない。多くの人がふだん見逃しているけれど、「何か」に決めつけないと社会生活が営めないと思い込んでいるけれど、実は、決して見逃してはいけない瞬間。これを見るために私たちは生きているのだし、人はそういう瞬間に恋におちるに決まってる。

いい映画は人生と同じだ。泣けるシーンなんてひとつもないのに、見ている間は涙なんて一滴も出ないのに、どのシーンを思い返しても泣けてくる。ジム・ジャームッシュは言った。「去ると、いた時より、そこが懐かしく思える。いうなれば僕は旅人だ。僕の旅は、終わりのない休暇(パーマネント・バケーション)だ」

青山真治監督は「これまでとは何か違うことをやりたいと思っていた」と言っていたが、『東京公園』には、これまでに見たことのない奇妙な感触が確かにあった。時間とともに余韻が増し、一生の記憶となりそうな。
2011-06-20