愛に悩む女。セックスに悩む男。
「どうでもいい男はどうでもいい。でも、大好きな男と体を重ね、そして帰ってしまった後は、寂しさで狂ってしまいそうになる。寂しさを埋めたくて、どうでもいい男をセックスするためだけに家に呼んだ。寝れば寝るほど、どうしようもなく私の中の空白が広がっていく。それを埋めたくて、また誰かと肌を合わせる」。
両親に反発し、夜遊び、万引き、シンナー、カツアゲ、家出をくり返し、セックスに明け暮れる中学時代。一見プライドをもってイキがっているように見えるが、おやじとだけは寝たくないという一線も、友達とはセックスできないという一線も、カメラの前で絡みなんてできないという一線も、お金の前ではあっけなく崩れ去る。好きな男とのセックスが切ない理由は、手軽なセックスをしすぎてしまったせいだ。愛に渇望する彼女は、最後まで、肉体的な一体感を求めて暴走し続けるしかないのである。
しかし、彼女の孤独感はどこか中途半端だ。ホステスからAV女優、そしてタレントとして成功し、両親とも和解できたからだろうか。恵まれた資質を活かし、女という武器を賢く、思いのままに利用してきた彼女に、致命的なダメージは見当たらない。要するに、彼女は一度も負けていないのである。このまま結婚したっていいし、もうしばらく遊び続けたっていい。
これと対照的なのが、元ABブラザーズの松野大介による自伝的小説「恋愛失格」だ。一人の女との恋愛に破れたときから彼の生活は破綻し、狂気すれすれの空しさと戦いながら53人の女とのセックス遍歴を記述する。「今までずっと抱いていた悲しみの理由がわかった気がした。男と、女が、偶然出会っただけでもうまくいくのは、結局は、セックスすれば、誰でも同じだからだ」。
この2册を、男女の性愛観の違いとして比較するのは面白い。愛のないセックスの空しさは同じだが、男にとっては「セックスの存在こそが厄介」であり、女にとっては「愛の存在こそが厄介」なのだ。「誰にも愛を与えることができない男の孤独」は、「愛に応えてもらえない女の孤独」に比べるとより深く、ある意味で突き抜けている。
この違いは、二人の立場の差によるものかもしれない。タレントを引退した松野大介は、覚悟を決めて文学と向き合っているが、飯島愛は今も現役タレントだ。「プラトニック・セックス」は、人気タレントのサクセスストーリーであり、読者に手軽な共感と希望を与えるポジティブな暴露本なのである。
2000-11-29