『ザ・メキシカン』 ゴア・ヴァービンスキー(監督) /

求む! 正しいB級映画。


伝説の拳銃をめぐり、ロス、ベガス、メキシコを駆け抜けるロードムービー・・・・・・
それだけの予備知識でこの映画を見に行ってしまったのは、同じくメキシコを舞台にしたサム・ペキンパーのB級ロードムービー「ガルシアの首」を思い出したからだった。リスペクトするロードムービーへの連想は、いったん走り出すととまらない。シンプルでシニカルで馬鹿みたいにかっこいいモンテ・ヘルマンの「断絶」をはじめ、ポップなパロディが嘘みたいに新しいJ.L.ゴダールの「勝手にしやがれ」や「はなればなれに」などを今すぐスクリーンで目撃し直したいという狂おしい欲求は、「ザ・メキシカン」を見て2日たった今も、高まるばかり。

早い話がこの映画、かなり物足りなかったのだ。製作者たちは当初、あまり有名でない俳優を起用し、地味な映画をつくるつもりだったらしい。だが、人気絶頂の二人(ブラッド・ピット&ジュリア・ロバーツ)がたまたま脚本を気に入り、出演が決まったことで製作状況は一変したという。

「二大スター夢の初共演」は、この映画にどんな効能をもたらしたのだろう。少なくとも公開初日のレイトショーの客席はがらがらだった。予算をそれほどかけられないのなら、単純軽快なB級映画に徹すればよかったのに、メジャー指向のキャスティングが裏目に出て、中途半端なA級ハリウッド映画になっちゃったのが残念だ。とりわけヒロインは、先の読めない無名の女優のほうがよかったな。恋人の言動にいちいちキレちゃう女の子という役柄をジュリアのようなトウのたったベテラン女優が演じると、なんというか「そのまんま」なのである。夢をかなえるために一人でベガスにいくという無謀さも、30すぎた大女優のジュリアでは、いまひとつリアリティに欠ける・・・。

全体のストーリーにもディティールにも、21世紀的な新しさは感じられなかった。だとすれば少なくとも、伝説のギター職人を探すロバート・フランクの「キャンディ・マウンテン」、あるいはロマン・ポランスキーの「水の中のナイフ」のような男の子の成長物語になっていてほしかったのだけど・・・・・ブラピも今年で38だしなあ。

とはいえ、メキシコの信号機はとってもリリカルだし、メキシカンなポンコツ車が狂犬をのせて走るシーンなどは、やっぱり楽しい。昔のロードムービーを見直してみたいという気持ちになれたのも思いがけない効能だ。ラブストーリーとしては、「愛しあっている二人がうまくいかなくなったとき、本当の別れはいつくるか?」という問いの答えがなかなか素敵。単純だけど希望がもてたぜ。

周囲に何人かいたアメリカ人のおかげで、ずいぶん楽しい気分になれた。彼らは、ちょっとした設定やジョークにも激しくウケまくるのである。しかも日本人とは笑いのポイントがちょっと違う。この映画、ビデオで見たとしたら、つまんなかっただろうなー。

*ロードショー上映中 / 2001年アメリカ映画
2001-04-23

『ラブ ゴーゴー』 室井佑月 / 文春ネスコ

可愛い女は、ゲームの途中。


室井佑月。ミスコン荒らしとして知られ、レースクイーン、売れないタレント、銀座ホステス等を経て、現在は小説家。高橋源一郎と不倫の末、彼の4番目の妻になった女。愛嬌のある美人で、胸には200ccくらいの生理食塩水が入っている・・・

作家である前に女であり、文才よりも前にキャラがきわだつノリノリエッセイ集。客を自分のファンにすべく奮闘したホステス時代の話や、陰毛で始まり陰毛に終わったというレースクイーン時代の話、二人目の子づくりのためにどんなふうにセックスしているのかという現在進行形の話まで、まさに、あけっぴろげのネタ人生。不倫からスタートし、「妻」となり「作家」となり「母」となった女の、絵に描いたような一発逆転劇だが、彼女はそれらの肩書きに安住していない。見栄や妥協を指向しない彼女にとって、人生は、いつまでもゲームの途中。女を売りにしているというよりは、天真爛漫な性格がむきだしになっているというニュアンスが強く、何を書いても嫌味がない。

たとえば男の浮気に対して、彼女はたいそう厳しい。「あたしとセックスしてそのことを『浮気』という言葉で片づける男がいたら、あたしはその男を殺す」とタンカを切り、「浮気を悟ったら、やっぱり別れる。女を磨いて出直す方が早いもの」と潔い。腹いせに別の男と遊んだりしてますますドツボにはまってしまうようなナイーブな女たちは、「室井流恋愛指南」を読んで元気を出すべきだろう。彼女は決して二股をかけたりしない。好きな男がいれば、そいつを完璧に振り向かせるために捨て身でがんばり、だめなら次へいく。実にシンプルで正しい。

コンプレックス抜きに、女の舞台裏をあっけらかんと語れる才能は、デフレの世の中に活力と希望をもたらすにちがいない(ほんとか?)。陰鬱な読み物が面白くないという意味では全くないけれど、現実の女として魅力的なのは、やっぱりこういうヤツなんだろうなーって、おやじみたいな感想をつぶやいてしまうわけです。

最後のエッセイ(「婦人公論」掲載)は、かなりマジ入ってる。出産した彼女は、田舎にいる母と行方不明だった父を自宅に呼び寄せ、笑いいっぱいの5人家族となる。赤ん坊のおかげで両親まで幸せになっちゃうのだ。しかし、この幸せは、不倫からはじまり、たくさんの人に迷惑をかけた結果であることを彼女は忘れない。だからこそ、馬鹿みたいに明るい家庭が必要なのだという。何人も子供をつくって、もっと笑いたいという。結婚前は、互いの寂しさを埋めるためのセックスだったのが、今は毎日をもっと楽しくするためのセックスなのだという。

ものすごく健全だ。いい話だ。よかったじゃないか。でも、そこまでにしておいて。結論は出さないで。お願い! 彼女には、いつまでも、ラブゴーゴーな可愛い女でいてほしいから。説教くさいおばさんにだけは、なってほしくないと思うから。
2001-04-20

『ゲルハルト・リヒター展「ATLAS」』 川村記念美術館

顔のないポートレート。


オープンカーの屋根を開け、千葉県佐倉の川村記念美術館へ行った。東京から2時間かけて、ドイツの代表的な現代美術に会いにいくなんて、わくわくするようなシチュエーションだ。散策路に続く水辺のレストランではドイツフェアを開催中。クルマとワインは何といってもイタリアだけど、現代美術とビールはドイツかも!

リヒターといえば「ベティ」を思い出す。彼の娘ベティ・リヒターのポートレートだが、後方を振り返る彼女の顔は見えず、おまけにちょっとピンボケ。その上、よく見ると写真ではなく絵画なのだ。まさに何重にも人をくったような作品である。後ろ姿でピンボケの写真絵画が、どんなポートレートにも負けない魅力をたたえているのはなぜだろう。

今回の展示のメインは、655枚のパネル上に構成された4500点もの写真やスケッチの集合体である「ATLAS」。リヒターの創作の原点(モトネタ)であると同時に、これ自体がライフワークというべき膨大な作品群だ。新聞の切り抜き、家族のスナップ、強制収容所の死体、ポルノ、風景、カラーチャート、ロウソクの炎、精密なスケッチ、絵の具のうねり…そのすべてに番号がふられ、几帳面に整理されている。

「ベティ」のもとになったスナップ写真を探すのは簡単なことだった。モトネタと作品はそっくりなのだから。だが、絵画のほうが明らかに普遍的な美しさを獲得している。「後ろ姿のスナップ写真」というだけでも十分に普遍的(没個性)だが、リヒターはそれをもう一度描き直し、さらにピンボケにすることによって、「ベティ」を比類ないポートレートに仕立てたのである。

「ATLAS」の中には、病気のベティを撮った写真などもあり、リヒターには、娘の元気な笑顔を正面からばっちりピンを合わせてとろうなどという凡庸な意志がないことがわかる。いや、「ピンのあった正面笑顔写真」こそが特殊なのだろう。リヒターの作品は、それほどまでに自然で、目立つことや意表をつくことを目的としていない。対象の個性を削ぎ落とし、普遍化させてゆくプロセスは、まるで自らの固定観念や虚栄を脱ぎ捨てる作業のようだ。彼は、人物の顔をちゃんと描かないことで、逆に、その人物の「純粋な印象や気配」を描くことに成功している。

会場には、「ATLAS」をもとにした10点の作品も展示されていた。「48の肖像」は、百科辞典に登場する偉人たちの写真を肖像画に仕立て、もう一度写真に撮ったもの。写真、絵画、写真というプロセスを経た48人分のポートレートは、最初の百科辞典の切り抜きと比べると、権威や時代性が排除され、全員が同じスタジオで均一に撮影されたように見える。

これらをまた絵画にし、写真に撮り…と繰り返していくと、どうなるのだろう。偉人であれ凡人であれ、皆、同じ顔になってしまうのか。最後には顔ですらなくなり、つるつるのグレーのボードになるのかな。「鏡(グレー)」というガラス板にグレーのシートを貼っただけの作品を見て、そう思った。この鏡には、すべてのものがうっすらと、灰色に映り込む。これこそが、リヒターの究極の美のイメージかもしれない。

「ATLAS」の中から、彼に選ばれた幸福な断片のみが、美しい抽象化への道を歩みはじめる。「数えきれないほどの風景を見るが、写真に撮るのは 10万分の1であり、作品として描くのは写真に撮られた風景の100分の1である。つまり、はっきり特定のものを探しているのである」とリヒターは言っている。「見るものすべての本当の姿は別なのではないか、と好奇心をもつからこそ、描くのです」

*川村記念美術館で5月27日まで開催中
2001-04-17

『ブラックボード ―背負う人―』 サミラ・マフマルバフ(監督) /

テアトル池袋は、飲食店になっちゃうのか?


黒板を背負い、イランの険しい山道を歩く教師たち。学校が爆撃されたため、彼らは生徒を求め、読み書きや算数を教えるべく教師のいない村を回っている―
宣教師のような男たちの姿が絵になりすぎており、当初はいささか鼻についた。 イランには実際にそんな教師がいるのだろうか? 生徒がたくさんいるわけでもないのに一人ずつが重い黒板を背負う必要があるだろうか? と。

教師の一人は、密輸物質を背負う「運び屋」の少年たちと出会うが(彼らの表情はとても魅力的だ)、「勉強なんて必要ない」「早く道をあけてくれ」と拒否される。一緒に歩くうちに「読み書きを教えてくれ」という少年が出てくるものの、自分の名を黒板に書けるようになった瞬間、少年は銃弾に倒れてしまう。

もう一人の教師は、イラクに帰る途中のクルド人の集団と出会う。子連れの未亡人に惹かれた教師は、路上で結婚式をあげてもらうが、彼女は勉強しようとせず、夫となった教師を無視するのである(この女性の不思議な雰囲気も妙に気になる)。国境で二人は離婚し、彼女は黒板を「物」として受け取って歩き出す。そこには、彼が伝えようとした愛のメッセージが書かれているが、彼女は永遠に読むことができないだろう。

どちらの結末も救いがない。黒板は生活の小道具、すなわち映画的な小道具として役立つばかりだ。だが、この映画は黒板という「絵になるシンボル」のあざとさによってフィクション性を強調しているのだと考えると、解釈は少し変わってくる。集団の状況を象徴するメッセージボードとしての黒板は、学ぼうとする者がいる時には意味のある文字が書かれ、そうでない時には文字は消され、非常事態には単なる板として役立つ―

読むことのできない愛のメッセージを背負う女のうしろ姿は、「学ぶことは拒否したが、気持ちは受け取った」ということなのだ。黒板を背負った時点で、彼女はその意味を背負い、多くの人がその文字を見るだろう。愛を意味する美しい文字は、そうやって広まっていく。意味がわからぬままメッセージは受け継がれていくのである。

同じことが、自分の名を書いた瞬間に死んでしまう少年にもいえる。少年の渾身の筆跡を、多くの別の少年たちが目にするだろう。

息子からの手紙を読んでくれと老人に頼まれ、教師が読んでやるシーンがある。何語かもわからないのに、教師は適当に意味を伝え、老人を安心させるのである。「ひどい」ともいえるし、「そんなもんだ」とも思えるが、老人が息子からの手紙を大事にもっているというだけで、手紙の役割は半分くらい果たされているといっていい。メッセージとは、「意味」よりも前に「気持ち」なのだと信じたい。別れも死もムダにならないほど、読み書きという行為は重要なのだ。

いい映画を見たんだな、と数日後にようやく思えた。この手の映画は、地味だけど長く記憶に残り、熟成し、数年後に必ずまた見たくなる。この映画はイランの20歳の女性が撮った作品だが、そのころ彼女はどんな映画を撮っているだろう。

アジア系の映画を中心に公開しているテアトル池袋での単館上映。カンヌ映画祭で審査員賞を受賞し、オフィス北野も出資している作品だが、客席はガラガラだった。西武系資本のテアトル池袋は、このままでは近日中に飲食店になってしまうという噂だ。いい映画館なのになあ。2年前には正面にセゾン美術館があったっけなあ・・・・・。

てっとり早く楽しめる映画や、てっとり早く稼げるビジネスばかりが生き残っていく状況は、ちょっとつらい。

*2000年 イラン映画/テアトル池袋で公開中
2001-04-10

『お笑い 男の星座』 浅草キッド / 文芸春秋

男の子は、笑いながら血を流す。


「ビートたけしに弟子入りし、この世界で漫才師として飯を食うようになって十余年が経った。(中略)この世界で言っていいことと悪いことの分別もつけ、無難に、安全に仕事を選び、上手くやりすごす処世も身につけてきた」という浅草キッド。
TVブロスから、この本のもとになる連載の話を持ちかけられたとき、彼らの中で「猪木イズム」が目をさます。猪木イズムとは、たとえ自分が天国にいたとしても、憎いやつが地獄にいたら、わざわざ地獄にぶん殴りに行くエネルギー。「いつ、なんどき、誰とでも戦う!」というフレーズに象徴される「燃える闘魂」である。

彼らは、戦いながら、戦いについて書いている。歴史に残るプロレスカードのほか、「和田アキ子vs.YOSHIKI」「たけしvs.洋七」「爆笑問題vs.浅草キッド」といった芸能界における豪華な対戦の顛末が実況・解説される。この本には、彼らがリスペクトしつつイジりくずしてきたキャラクターがたくさん登場するのだが、私が個人的に好きなのは「城南電機の宮路社長 vs. 大塚美容外科の石井院長」の「ロ-ルス・ロイス対決」と「水野晴朗vs.ガッツ石松」の「自作映画対決」。
子供っぽくて血の気の多い、どこかロマンチックな男たちが織り成す戦いは、かなり過激で馬鹿馬鹿しいが、そんな戦いに捨て身で絡んだり、落としたりする彼らの口調は、さらに過激で馬鹿馬鹿しい。笑いながら読んでいると、もはや、どこまでが茶化しなのか、どこまでがリスペクトなのか、どこまでが本当でどこからがホラ話なのかなんて、どうでもよくなってくる。男の世界とは、すべて壮大なホラ話なのではないだろうか。

芸人社会のキナ臭い陣取り合戦も、プロレス団体の確執も、まるで企業社会そのものだ。男って本質的に弱肉強食のサバイバルゲームが好きなんだなあと思うけど、この本は、過激でありながらも、そんな社会のルールをふまえている。尊重すべき人をちゃんと尊重しているように見えるし、笑いなき中傷はしないというマナーが意識されているように見える。
「どの道、そこに『笑い』があるなら、そこに『闘い』がある。他人を斬り付ければ、返り血浴びるのは、承知の上」と序章に書かれているように、過激さは、笑いの中にある。笑いというのは、真実に近づける切り札なのかもしれないな。彼らは、血を流しながらでもホラ話を書くだろう。少なくともその覚悟だけは読み取れる。

最後にビートたけしが言う。「バカ野郎! お前らは誰かを好きになり過ぎるんだよ」「この商売はなぁ、てめぇが星だと思ってりゃあいいんだよ!」「それが出来なきゃな、男の子じゃないよ」
そんな師匠へのリスペクトで幕を閉じるこの本は「未完」だという。浅草キッドが、これからどんな星になるのかが楽しみだ。キナ臭い陣取り合戦を降りて、一匹狼になるのだろうか。

この本は、まだまだ気を遣いすぎている、とも思えるのだ。

*浅草キッドHP「博士の悪童日記」に掲載されました。
http://www.asakusakid.com/diary/0105-ge.html
2001-04-02

『ダリアの帯』 大島弓子 / 白泉文庫

男のファンタジーに寄り添うということ。


1983年から85年にかけて発表された7つの作品。そのひとつひとつに打ちのめされるのは、「誰も言わない本当のこと」がつまっているからだと思う。

たとえば表題作の「ダリアの帯」は、他愛ない「僕」の浮気心から若い妻がこわれていく話。だけど、結論はちっとも他愛ない話なんかじゃない。通俗的なエピソードにここまで大きな答えを出し、しかも決して現実離れしていないのがすごすぎる。男ってこういうものだし、女ってそういうものだし、世の中の構造ってああいうものなんです。たぶんおそらく。

あるいは「快速帆船」は、自分が誰だかわからないまま街をさまよう「あたし」の話。すべてが明らかになったあとも、彼女はときどき自分がどこにでも帰れる子供のような気がすると、しゃらっと言い放つのである。女って、いくつになっても密かにそういうことを考えているものなんです。じつのところは。

生々しい恋愛は皆無。弱さと崇高さを併せ持つ不安定な少女の特性は、好奇心と固定観念からなる保守的な男の視線にまみれた瞬間に輝きを失ってしまうのだから・・・・・私は、それが少女マンガのセオリーだと思っていた。そして、私自身も、キミはこういう女だと類型化されたり、理想像を押しつけられたりすることを嫌っていた。目の前の私をちゃんと見てよ、と言いたくなってしまうのだ。

しかし、大島弓子は、たった16ページの掌編「サマタイム」で、男の妄執の美しさとどうしようもなさを描ききってしまった。信じたいものを信じることの喜び。妄想に執着することの本当の意味。そして「だがおれは帰らねばならない 帰りたい 帰るのだ」というつぶやきの痛み。誰もが自分のこだわりたい世界に帰る自由があり、その自由は誰にも犯すことはできないんだと思った。そういう心の理想郷をもっている人って素晴らしいじゃないかと思えた。

「おれ」のファンタジーは崇高さにつながっているか? いや、つながってなんかいない。ちょっと触れればこわれてしまう儚いおもちゃのようなものにすぎない。だけど、だからこそ、それは限りなく誠実で純粋。それがどこにつながっているかなんて「おれ」は考えない。「おれ」にできることは、ただ目の前にあるものをひたすら信じ、守っていくこと。

私の考えは少し変わった。ある種の幻想や固定観念をもつ人の目に、自分はどう映るのだろう。その人の目に映る自分を、どうして否定できるだろう。人の心に土足で踏み込んで固有のファンタジーを破壊することなんて、できるはずがないし意味がない。

私には帰る場所があるだろうか。私は誰かの帰る場所になれるだろうか。「サマタイム」を思い出すと涙がとまらない。誰の心の中にもそんな理想郷があるのだと想像できれば、自分はもっとやさしくなれるだろう。大きな視点をもてれば、他人の心に寄り添い、すべてを受け入れることができるだろう。
2001-03-29

『アー・ユー・ハッピー?』 矢沢永吉 / 日経BP社

彼がハッピーになれない理由。


「矢沢はみんな教えてもらった、オレから盗もうとするヤツらから」。

身内に裏切られ、30億円の借金を抱えるはめになった裁判中のオーストラリア事件。矢沢永吉は言う。「オレは運命に愛されていると思う。だってそうじゃないか。運命がオレを見限っていたら、きっとオレを殺しただろう。精神を狂わせる。ステージに立てないようにする」「金は無くしても、物は無くしても、気持ちは失っていない。大事なのはそれだ」

彼は誰にも負けないのだ。ソロになったとき、責任もって面倒みるからという男が現れるが「いちど彼の下についたら、オレは死ぬまで下につかなきゃいけないんだな」と気付き、26才で会社を起こす。やがて製作・興行のすべてを自社で仕切り、キャラクターグッズや肖像権の管理まで手がけるようになるが、彼はビジネスが好きなわけでもないし金の亡者でもない。ハゲタカのような連中と戦ってきた彼には、誰かに依存すれば五分と五分の関係になれず、不安に脅かされ続けることがわかっているからだ。「何が目的かといえば、あいつらに『なめるなよ』とやってみせること。それを達成したら、もういい」

自立していれば何でも言えるし、堂々としていられる。そんな精神論を説いた本だ。彼が最も尊敬しているのは広島のおばあちゃん。彼女は極貧の中で矢沢を育て、70歳すぎても草刈りをして市役所から日当をもらい、子供たちの世話にもならず、自分の金で誰にも気兼ねすることなく酒を飲んでいたという。「オレは女に育てられた。広島の祖母に育てられ、最初の女房に育てられた」

その後、運命の女性マリアと出会い89年に離婚。マリアは彼に「あなたはもっともっと上に行く男だし、行かなきゃいけない」と暗示をかけ、「ジーンズも似合うけど、アルマーニも着こなせる、そういう男にならなきゃ」と金の使い方を教えた。すみ子(前妻)と子供に対する罪悪感は、今も彼の頭から離れないという。一緒に苦労してきた女を捨てざるを得なかった男の辛い心情が吐露されている。

切ない話である。だけどしょうがないじゃん、と私は思う。「自分に、いま、大事にしてる女がいる」と彼に言われ、わーっと泣いたすみ子。その後「本当に終わってしまうんだったら、なぜもっと早く別れてくれなかったの…。私ももう四十歳…」と言ったすみ子。これらを真に受けるなら、捨てられて当然だ。彼の理想の女は、最後まで誰にも依存しなかった広島のおばあちゃんなのだから。

「彼女と、なぜ、六十、七十になるまで一緒にいられなかったんだろう。死ぬまでなぜ一緒にいられなかったんだろう。彼女に、なにかはっきりとオレにわかる欠点があったら、どんなに楽だろう。もちろん、これは男の勝手だ」とあるが、私はこの手のナルシシズムが好きではない。不要になったから捨てたんだとはっきり告げるべきだと思う。女に恨みを言われたら、自分の恨みもぶつけなくちゃフェアじゃない。女を傷つけたら、傷つけた理由を説明しなくちゃ納得できない。男が一方的にあやまり、罪悪感に酔い続ける限り、女は前へ進めない。だって、結局のところ、彼女は捨てられたのだから。

黙っていていいのか、すみ子? 「アイ・アム・ハッピー!」というタイトルの本でも書いたらどうだろう。彼がすべての権利を管理しているから出版は難しいかもしれないけど。この本を読んでいると、余計なお世話だが、マリアと子供たちとのハッピーな生活に一抹の影を落とす彼の良心の呵責を軽減してあげたいと思ってしまうのだ。すみ子、今こそリベンジのチャンスだ!
2001-03-26

『風花』 相米慎二(監督) /

湿度の高い、おとなのロードムービー。


日本製のロードムービーが2本、同時に公開されている。青山真治監督の「ユリイカ」と、相米慎二監督の「風花」である。

「ユリイカ」が「バスで4人が九州を走るモノクロな象徴ドラマ」だとすれば、「風花」は「レンタカーで2人が北海道を走るカラーな人間ドラマ」。しかも、このカラーは、桜、ビール、ピンサロ、川、温泉、残雪、雪解け水などのリリカルなアイテムに象徴される湿度の高いカラーであり、ピンサロ嬢(小泉今日子)の頬は、いつも艶やかに光っている。彼女のウエットな魅力を引き出しただけでも価値ある映画だ。そして、謹慎中の文部省エリート官僚(浅野忠信)の性格と酒癖の悪さといったら!

二人が演じる雪の中のシーンがいい。最低な男が、ある事実を前にして最低でなくなっていくプロセスには、誰もが釘づけになってしまうだろう。情けなさと真摯さと意外性という「自覚しにくい男の魅力3点セット」を浅野の演技はきっちり満たしているのだ。動揺しながらも、女に自分の服を着せ、抱きしめ、さすり、おぶり、ふらふらになって歩く男。実のところ、男というのは相当弱い存在で、ここまでして、ようやく女からの愛を獲得できるのかもなー、なんて思ったりした。このシーンの浅野は、ほんとうに愛しい。自分の弱さを絶望的に自覚し、プライドを脱ぎ捨てたとき、「最低な男」は「裸の男」になるのである。そして、女は、男が何と言おうと「裸の男」が好きなのだ。浅野は、雪の中の過酷な撮影の際、体力がどんどん消耗したと述懐している。「もう、本当に自分が情けなくて、情けなくて、そのまま演じたら、ああなってしまいました」。

先日、最終回を迎えた野島伸司のTVドラマ「SOS(ストロベリー・オンザ・ショートケーキ)」にも同様のシチュエーションがあり、タッキーがフカキョンに対して「裸の男」になったりしていた。ただ、ドラマの二人が青春まっさかりの高校生カップルであるのに対し、この映画の二人は、謹慎中に解雇通告される酒びたりでインポテンツのエリート官僚と、夫に先立たれ自分の子供に会うことすら許されないピンサロ嬢という、かなり絶望の色が濃いカップルなのである。したがって、これは死んだふりごっこなどではなく、死の影が本気でちらつく大人の映画だ。疲れた大人どうしが出会い、雪の中でああいうことになったら、もう結ばれるしかないだろうという有無をいわせぬ感動があった。子供の扱い方も自然で、私は、彼女の生き方に最初から最後まで素直に感情移入できてしまった。

それにしても、最近の邦画パワーはちょっとしたものだ。音楽もファッションもそうだけど、メイドインジャパンの文化レベルが着実に上がっている。若い監督もベテラン監督も、競うようにいいものを撮っている状況が、とりわけ嬉しい。

*ロードショー上映中
2001-03-23

『ニュース★バトル(iモード新サイト)』 /

天声人語は、おやじのエッセイだ。


3月19日から、朝日新聞社と日本経済新聞社のiモード共同サイトがスタートした。朝刊の主要記事各3本と両社の人気コラムが読め、さらに朝刊記事を素材にしたニュースクイズが楽しめる。

ニュースクイズは「ニュース総合」「エンタテインメント」「トレンド・流行」「スポーツ」などの分野から毎日5問ずつ出題される。初日の「ニュース総合」では、大川功氏が会長・社長を兼任していたゲーム機メーカーの名やイスラム原理主義勢力が支配する国を選ばせ、「エンタテインメント」では、モーニング娘。を脱退した中澤裕子のソロデビュー曲「○○○の女房」を穴埋めさせていた。毎日15時半に前回の正答率、成績、ランキング、ポイント数が表示され、プレゼントや表彰もあるという。

私が注目したのは、両社が自ら「人気コラム」とアピールしてはばからない「天声人語」(朝日)と「春秋」(日経)が併載されている点。「天声人語」は大学入試問題への出題率の高さで知られるが、初日はこんな書き出しで始まる18日付けのコラムだった。「『肉なんか、ずっと食べていないよ。野菜と魚だね。その魚も用心しないと危なくてね』。パリに長年住んでいる日本人の友人夫妻の話だ。」

テーマは欧州で問題となっている口蹄疫と狂牛病。どちらも動物性飼料が感染源とみられ、「すでに何十万という家畜が、各国で殺されている」という。パリのレストランからは肉料理が減り、トリ肉や養殖の魚にも疑惑が集まり、英国、ドイツ、米国など「影響は拡大の一途をたどる」と続き、最後はこう結ばれる。「動物性飼料は、家畜を早く安く、大きくするために使われた。効率を上げようと多数の家畜を狭い畜舎に押し込め飼育する。そんな中で、微妙なバランスが一つ崩れると、伝染病が急速に広がり、パニックを引き起こす。人間の利益中心のやり方への、強烈なしっぺ返し。欧州の人びとはいま、それを実感している。」

うーん、なんだか説得力に欠けるのだ。もともと「天声人語」は友人から聞いた話を情報ソースにしている場合が多いが、今回は「魚の料理に慣れていないから、まずいの何の」という「友人の愚痴」にまで貴重な字数が割かれていた。主観と客観が曖昧なのも「天声人語」の特長だが、今回の例でいえば、最後の「実感している」がウッソー!である。欧州の人びとがしっぺ返しを実感しているなんて、どうして断言できるのだろう。せめて「実感しているにちがいない」とか「課題としてつきつけられている」などと書くべきではないだろうか。

翌日は、「春秋」が口蹄疫について書いていた。「狂牛病に続いて家畜の伝染病である口蹄(こうてい)疫の感染も広がり、欧州は大騒ぎだ」という一文から始まり、欧州各国の対策、続いて「欧州の食文化の"異変"は文明論的なテーマかもしれない」と仏文学者の鹿島茂さんの著作を引きながらフランスの肉食文化の由来に言及。最後はこう結ばれる。「肉食文化の浸透は産業革命や国際貿易進展と一体だった。域内の物流の国境が消えたはずの欧州連合(EU)諸国でいま、口蹄疫ウイルス流入を恐れる農民が国境に集まり、トラックの列に目を光らせる。市場一体化の時代に、予想もしなかった反動が生じている。」

欧州全体の現状が具体的につかめ、興味をそそられる内容だ。おやじのエッセイといった風情の「天声人語」と比べ、客観的な情報として違和感なく取り込める。これからは、新聞をとらなくても、携帯電話で「天声人語」と「春秋」を比較できちゃうのである。入試問題は「春秋」から出すべきなんじゃないのー?と思う学生がふえるかもしれない。
(「天声人語」の筆者は4/1より変わります)
2001-03-20

『プラナリア』 山本文緒 / 文芸春秋

終わらない日常。変わらない自分。


私たちの日常は、まるで山本文緒の小説みたいだ。
他人との違和感をテーマにした、5つの短編変奏曲。

1「少しくらい違和感があってもこの人はいい人で、私の憧れの人であることは変わらない。まったく違和感を感じない他人などこの世に存在するわけがないのだから」(プラナリア)
ー乳がんを切除し、今も治療中の主人公は、露悪的に自分の病気の話をし、他人を困らせてしまう。彼女の傷は、誰にも私の気持ちなんかわからないだろう、という投げやりなアイデンティティなのである。

2「私は自分がやがて立ち直って、また社会に出て働きはじめるであろうことは分かっていた。疑問を持ちつつもまた前へ前へと進んでいくのだ。それが何故だか分からないがとても悔しかったのだ」(ネイキッド)
ーこの短編の主人公は、夫と仕事を同時に失った女。なかなか立ち直ろうとせず、周囲を心配させるのだが、彼女の傷もまた、露悪的な凶器となって他人との溝を深める。

3「心から怒ってないじゃん。子供の頃はうちのママは優しいんだな、なんて思ってたけど、実はあんまり関心ないんだって大人になって分かったよ」(どこかではないここ)
ー淡々と仕事をこなす母親が、子供たちから「リストラ」されてしまう話。日常のぼんやりした違和感は、大きく爆発することがないゆえに、歪んだ形で子供たちに伝わってしまう。

4「私は恋愛感情のない男の人とだったら気楽にセックスすることができた。どこかねじ曲がってはいても自分にも性欲があることにびっくりした。そして朝丘君も実は同じような問題を抱えているのかもしれないと思うようになった」(囚われ人のジレンマ)
ーセックスレスの恋人である朝丘君と私は、心理学を媒介にして気持ちを探り合う。いちばん近い存在なのに、不信感が深まるばかりでプロポーズに応えられない私。

5「マジオさんはさー、どうして自分の思う通りにいかないと、いちいち怒るわけ?」(あいあるあした)
ー妻に捨てられた後、素性も知らないまま同棲した女に、こんなことを言われてしまう男。彼が苛立つ理由は、自分の心を誰にも開くことができず、したがって、誰かを問い詰めることもできないからだ。

いずれの短編も、他人が信じられず、素直になれない人たちを扱っている。プライドが高くて、傷ついていて、動揺していて、疲れている人たち。何が間違っているのか、どうすればいいのか、明快な答えが出ないところが説教くさくなくていい。だから、どの短編にも終わりがない印象。人の性格は簡単に変わらないし、問題は簡単に解決しないけれど、そのままでいいんじゃないかと肯定されているような穏やかな気持ちになる。

自分の受けた傷や違和感と、時間をかけてきちんと向き合っていくことは大切だ。立ち直れとか、まともに働けとか、素直になれとか、他人にとやかく言われる筋合いはないし、世の中の常識的なテンポにあわせる必要なんてないのだと思う。私たちには、ささやかなプライドを守りながら、ゆっくりと不器用に生きる自由がある。
2001-03-16

『愛のコリーダ2000』 大島渚(監督) /

他人をまきこむ、猥褻な美意識。


日本初のハードコア作品のノーカット版(日本での上映ではボカシあり)。1976年のカンヌ映画祭を皮切りに、世界に反響を巻き起こした。

阿部定事件の映画化なのだから、実話を超える説得力ある描写を期待した。だが、2001年に私が見た「愛のコリーダ2000」には、そこまでのパワーが感じられなかった。愛する男を殺して大切な部分を切り取ってしまうという狂気に至る凄まじさが「実話以下」といった感じなのだ。当時、ハードコア撮影を敢行したのは、確かに大変なことだったと思うが、それは「1976年におけるラディカルな形式」に過ぎない。パゾリーニは1975年に「ソドムの市」を撮った後、スキャンダラスな死をとげたが、あの映画のもつ本質的なラディカルさと比べると、「愛のコリーダ2000」は、時代を超える生彩を欠いているような気がする。

女は男によって狂い、欲望をエスカレートさせる怖い存在....この映画における定は、そんな古典的観念の枠内にとどまっている。定を演じた松田英子のセリフまわしや演技からは、物語を逸脱する魅力の広がりが感じられないのだ。一方、吉蔵(藤竜也)の演技には現代に通じる普遍性があり、彼の魅力なくしてはこの映画は語れない。女のわがままのすべてを受け入れる包容力、生き血を吸われながら痩せていく愚かさと紙一重の美学.....優しさと鈍感さを併せ持つ申し分のない「罪な男」だからこそ、女の欲望は歯止めがきかなくなったのだなと納得できる。

面白いのは、第三者が二人のセックスを見ているシーンが多いこと。襖を開けた芸者と二人がのんきに会話をかわしたり、「変態」と女中にいわれた定が全裸のまま彼女につかみかかったりもする。実際、撮影現場にはスタッフがいるわけで、二人は密室でセックスしているわけではないのだが、その辺のリアリティがうまく処理されていると思う。定と吉蔵は、目の前に人がいても平然とセックスできる「オープンな変態」なのである! 第三者の視点やセリフが、密室的な表現の嘘っぽさと気恥ずかしさを救い、大らかな笑いを生み出す。私たちは、二人の行為を安心してのぞくことができるのである。

印象的なシーンがある。二人が絡んでいる部屋を訪れる六十代の人の良さそうな芸者が「旦那、お盛んですね」などと言うのだが、吉蔵は定にけしかけられ、母親のようなその芸者とセックスする。何が何だかわかんないけど「やるしかない」っていう状況。そこにはセックスの意味なんてない。神聖とすらいえる。失禁して動かなくなった芸者を観察する二人.....こんな猥褻なシーンを奇跡的な美意識でばっちり撮っちゃうとこが、大島渚のすごさだと思う。

*1976年フランス映画
2001-03-10

『聖邪の行進―幻想戯曲「解放軍」より四季のある楽園』 窪塚洋介 / ぴあ

恋愛は、自分のために。


「絵のない絵本」と帯に書かれている。ブルーの文字と白い紙。それだけの色しか使われていない静かな本だ。静かだから、本屋で目立っていた。ぜんぶ立ち読みしてしまおうという誘惑にかられたが、帯にもうひと言、「どうか ゆっくりと読んでください 窪塚洋介」とあった。クボヅカくんに、そう言われちゃあ仕方ねえ。私はこの本を購入し、リゾートっぽいカフェで読むことにした。帯のコピーというのは、第三者があおるより、本人が静かに書いたほうが効果的なのかもしれない。気になる俳優が書いた本、という予備知識だけでは、おそらく買わなかっただろう。

島にすむ「僕」は、一人で海を見て、煙草を吸い、白いレンガの家で本をよみ、風呂に入り、眠り、朝食を食べ、海にもぐり、夢を見て、ビールを飲み、テレビをつけ、町まで買い物に行くために飛行場へ行き、ポーターと話をし、飛行機に乗り、女と出会い、だけど一人で食事し、本を買い、ダンスホールへ行き….

その間、絶えず考えているのは「君」のことだ。白いレンガの家を出て行ってしまった「君」のこと。どんな事情があったのかわからないけれど、とにかく「僕」はまだ、「君」に執着している。だから、魅力的な女が近づいてきても、「僕」は何も感じない。

「人はどの瞬間にどうやって
人を愛するのだろうか
どんなに論理的な理由をくっつけてみても
メッキにしかならないのだということは
だいぶ前からわかっているつもりだ」

女に食事を誘われるが、今は一人でいるべきだと思った「僕」は断る。「君」の存在がなければ、間違いなく自分からアプローチしていたであろう女の誘いを。

「君と出会っていなかったら
僕は今
何を想い何を考えているのだろう
未来は奇跡なのだろうか
過去は運命なのだろうか」

恋愛の苦しさって、こういう、わけのわかんなさだ。どうして出会ってしまったんだろう? 出会ってよかったのか? 一体何のために? なぜこの人でなければダメなのか?・・・・・意味を求めようとすればするほど、足元をすくわれる。結局は、相手と向き合うしかないのだ。でも、相手が目の前にいない場合は、自分の気持ちと向き合わざるを得ない。そして、何か具体的な行動を起こし、気持ちに決着をつけるしかない。

自分の気持ちと向き合うのは、こわい。考える時間が山ほどあるのは、つらい。このままじゃいけないという気持ちを一時的にごまかすには、誰かに一緒にいてもらえばいい。そうすれば楽だけど、でも、やっぱり、それじゃあ何の解決にもならないんじゃないかって思う。

「僕」のように、一人でいるべきだと思ったときは、どんないい女(男)に誘われても断ること! 一人でいるべきだと思わなければ、どうでもいいんだけどね(笑)。要するに、それは、誰かを裏切らないということではなく、自分の気持ちを裏切らないってことだ。

こういうことが、ちゃんとできている人って強い。曖昧な気持ちのまま行動して、他人を傷つけたりすることもないだろう。そのとき、どんなに苦しかったとしても、幸せになれる人だと思う。
2002-03-09

『ぐるぐる日記』 田口ランディ / 筑摩書房

田口ランディは、生身がおいしい。


田口ランディの本の中では「ぐるぐる日記」がいちばん刺激的である。

長編小説はあまりに時流に乗っており、短編小説はあまりに巧く、エッセイや対談はあまりに教育的。要するに、できすぎているのだ。できすぎた設定や結論を読んでいると、自分ができの悪い男になったような気がしてくる。女の私でさえそう感じるのだから、本当にできの悪い男が田口ランディの本を読んだりしたら、かなり教育されちゃうことは間違いない。「オヤジに説教させたら右に出るものなしと言われたあたし」と本人も書いている。

私は享楽的に生きている女なので、完璧に構築された世界よりも、どちらかといえばもう少し不完全な世界、未完成な作品が好きである。その点「ぐるぐる日記」には、彼女の生命力とともに不安定な弱さや矛盾の片鱗が見られ、乱れた息づかいが感じられる。体調不良な日があり、馬鹿おもしれえ日があり、泣きたくなる日がある。夫を罵倒する日があり、ほめちぎる日があり、失礼な原稿依頼やメールにタンカを切る日がある。生身の田口ランディに最も近づけるのがこの本なのだ。オヤジには刺激が強すぎるかもしれないが。

「この日記は九十九%真実です」というあとがきを読み、つい1%のウソ探しをしてしまった。まず「あたしから書くことを取ったら何もない。無能なバカ女である」というのはウソだ。テレビ出演の際、初対面のテリー伊藤に「あんたおもしろいねえ!」「ゲストでしゃべりが面白い人ってめずらしいよ」と絶賛されちゃうほどタレント性のある彼女が「ただの田舎のオバサンの私」であるはずはない。「人前であがることもないし恥ずかしいと思うこともない」というし、銀座のホステスという輝かしい経歴もある。たとえ書かなくても、しゃべったり歌ったり踊ったりして人々を救う人物であるにちがいない。

「育児と家事に追われて、たまに原稿を書いている酒好きのオバサン」というのも大ウソである。ある日などは、午前中に30枚小説を書き、もう20枚書き続け、その後ビデオを1本見て、もう1本は夜中に見ようという。超人的だ。速読もできるそうだが、追われているのは「育児と家事」だけではない。しょっちゅう旅に出たり、東京に出たり、飲んだくれたり、自由と孤独を味わったりしているから忙しいのである。これって筋金入りの物書きじゃん! 安定した生活の場と夫と子供が、彼女をのたれ死にから救っているともいえるが、彼女自身はひょっとしたら家族に看取られるよりも、のたれ死にを選ぶのでは?と思わせるところが、すごくいい。

「私は、過去にも今も、有名になりたいという向上心を持った事がない」という一文には唸った。うーん、これは真実だと思う。彼女は長い間、身内およびネット上の限定的なカリスマであり続けたらしい。きっと、有名になること、金を稼ぐことが第一の目的ではなかったのだ。そのかわり、個人の責任で発信するメールマガジンに好奇心とジャーナリズム精神をたっぷりつぎこんできた。価値ある内容だ。無報酬だからといって手を抜いたりしない。好きなことを自由に書き、読者の反応によって学習し、世界を自在に広げてきた。彼女のやっていることはビジネスでも趣味でもなく、純粋な動機に基づいたプロの仕事だと思う。

1年間の日記とともに、メールマガジンを一部収録し関連づけている点が面白い。彼女が日々の生活からどんなふうにテーマを選択し、コラムを書いているのかがわかる。生身の田口ランディが感じられるだけでなく、ちゃんと勉強にもなっちゃうのだ。そういう意味では、この本も、できすぎている!

*「感読 田口ランディ」に収録されました。
2001-02-28

『深緑』 AJICO /

ゆるくてタイトな日本のロック2


ラッピングペーパーのような歌詞カードが好き。外側はピンクのイラストで、内側は深緑の文字。

1曲目の「深緑」、3曲目の「美しいこと」、11曲目の「波動」もすばらしいが、ずば抜けて良いのが、2曲目の「すてきなあたしの夢」。UAと浅井健一、二人の才能が共振し、音楽が生まれる瞬間のシンプルな幸福が立ちのぼってくる。歌詞はUAで曲は浅井健一だが、ギターが言葉で、ボーカルが楽器のようにも感じられる。

人と人との出会いによって、新しい表現が生まれる。一人ではできなかったことができる。この二人は、文字通り、そんなすてきな夢を見せてくれるのだ。UAとのコラボレーションでは、浅井健一の表情もどこかリラックスしており、余裕が感じられるではないか・・・・(男はリスペクトする女性がそばにいるとそうなのか?ナナコとソリマチの結婚記者会見を見てそう思った。キムタクも2ショット会見をすればよかったのに)。

「すてきなあたしの夢」というタイトルは、「すてきな夢」でもあり「すてきなあたし」でもあるのだろう。テクニックに裏付けられたナルシシズムは、とてつもなく美しい。「すてきなあたしの夢を明日の午後にかなえよう」という言葉のゆるさに癒される。
2001-02-23

『TEAM ROCK』 くるり /

ゆるくてタイトな日本のロック1


くるりの「ばらの花」という曲をきくたびに、これは何だろうって思ってた。ジャンルがよくわからなかった。分類できないものは、妙に気になってしまう。ここ1か月というものJ-waveでばんばん流れているし、HMVにいけば、いつだって、私の短い滞在時間の間に1回はかかる。

この曲のイントロが始まると、なぜだか調子が狂う。おもちゃの時計みたいなリズムに、さりげなく、つかまれてしまう。雨とか朝とかジンジャエールとかバスとか、脱力系の言葉の世界が、サビの部分で1度だけエモーショナルに盛り上がるはずだから、それを聴きのがすまいっていう気持ちになる。

アルバムを聴いてみて、端正なリズムとテクニカルなサウンド、そして力の抜けたボーカルのマッチングが面白いんだなと思った。歌いたいことを等身大の日本語で歌い、やりたい音楽をタイトに実現してる。音楽性の高さにつられて、日本語の価値が上がるみたいな気がして嬉しい。

日本語と英語を絶妙に溶け込ませたラブ サイケデリコは、「日本語もこんなにかっこよく歌えるんだ」と感動させてくれるけど、くるりは、「ゆるーい日本語もこんなにかっこいいじゃん」って応援したくなる。
2001-02-23

『ユリイカ (EUREKA)』 青山真治(監督) /

静かだから、伝わるもの。


現代を描いた映画なのに、どうしてモノクロなんだろう? 「ユリイカ」を見た後、ゴダールとジガ・ヴェルトフ集団による映画「東風」(1969年、カラー)をたまたま見て、答えに近づけたような気がした。

傷つけられた画面、肝心な部分で途切れる会話、ペンキを血に見立てた革命のパロディー・・・・・まるで教育ビデオのような「東風」という作品は、「映画らしい映画」に対する挑戦であり、資本化・技術化がもたらす結果としての「美しさ」や「本物っぽさ」や「物語」へのアンチテーゼだと思う。映画の中で流れる血は、すべて、ペンキやケチャップで十分なのかもしれない。スクリーンに映し出されるのは、本当の死じゃないし、本物の血であるはずがないのだから・・・・・

人間がどんなふうに死ぬのか、私は映画によって知っているような気がするし、戦争がどのようなものかさえ、わかっているような気がするけれど、それって怖い。 本物っぽくつくりこまれた映像や、意図的に切り取られた表現に慣れきっているせいで、私たちは、真実を理解しようとする意欲まで奪われているかもしれないのだ。

「ユリイカ」の中では、死や狂気や暴力が、ちっとも本物っぽく見えない(そのことを最初は不満に感じたほどだ)。モノクロであるために、血のようなものが出ても冷静に正視できるし、センセーショナルに感情を煽られることもない。この映画では、大切なものや、より際立たせたい部分を集中的に伝えるために、あえて情報量を抑えたモノクロという表現形式が選ばれたのだという気がする(最後にカラー画面が効果的に使われるが、その必要さえなかったと思う)。

新聞をにぎわすような大事件が起こるのに、画面は一貫して静かだ。事件の渦中にあっても、当事者の日常というものは、それほど騒がしいものではないのだろう。そのことが淡々と描かれていく。

主要人物は、バスジャック事件で「生き残ってしまった人々」。自分のバスで被害者を出してしまった運転手と、事件の二次被害によって家族を壊されてしまった兄と妹。悪人でもなく、ヒーローでもなく、直接的な被害者ですらない中途半端な3人だ。この映画は、そんな地味で中途半端な人生に光をあてた。その視点が、限りなくやさしい。ドラマチックでありえない3人は、淡々とむしばまれ、だからこそ淡々と回復していくしかない。

この映画で唯一リアルなのは、九州の風景と言葉だ。これらに圧倒的な敬意が払われており、物語は二次的なものとすらいえる。自然に対する謙虚さから、説得力が生まれ、その結果、3時間37分という必然的な長さが生まれた。ロードムービーの王道だと思う。

*カンヌ国際批評家連盟賞受賞/ロードショー上映中
2001-02-19

『溺れる魚』 堤幸彦(監督) /

クボヅカくんの、時代。


窪塚洋介が、キムタク以来といっていいほどのブームになっている。野島伸司脚本のドラマ「ストロベリー・オンザ・ショートケーキ」(金曜夜10時からTBSで放映中)の彼は、とりわけすごい。何がすごいのか? 窪塚くんがセリフを言うと、それは実在の言葉となる。窪塚くんが誰かを見つめると、それは実在の恋愛になる。

彼の魅力って一体なんだろう? セクシーにして清純、野島的デカダンスの最高の体現者であることは確かだと思うけど・・・・・ドラマの初回から、彼のことが気になって気になって気になって仕方なかった。

あまりにも気になったので、映画「溺れる魚」を見た。窪塚ブームの走りとなったドラマ「池袋ウエストゲートパーク」の堤幸彦監督による映画である。浅田彰氏は、2月13日付の「i-critique」(iモードサイト内のコラム)の中でこの映画の窪塚くんをこう評している。「ここまでヘナヘナな人間というのは世界的に見て新しいのではないかとすら思わせる、これはやはり監督の腕の差だろう」。

窪塚くんは、確かにヘナヘナだった。女装趣味でマゾの巡査という役柄であるからして、「ストロベリー・オンザ・ショートケーキ」のような正統派の恋愛シーンはない。要するにまったく違うキャラクター。だけど、スクリーンの中の窪塚くんは、やっぱり実在の人間なのだった。

「・・・・・この映画が繰り広げる、徹底して深みを欠いた混沌は、これこそ現代の日本そのものなのかもしれないと思わせる」と浅田彰氏は書いているが、窪塚くんの存在こそ、現代の日本なのだと思った。今っぽい気分を象徴する無数のアイテムや、超いい加減なセリフに満ちたはちゃめちゃな映画。その中心に窪塚くんがヘナヘナと立っている。ヘナヘナとは、言い換えれば、男女を超え、主義を超え、現実とフィクションを超え、その場の役になり切るしなやかさ。現代を生き抜くために必須の武器だろう。

ずっとこのままでいるのは、さすがにマズイのかもしれないけど、少なくとも今はこれしかないだろうっていう、そんな感じ。とりあえず、窪塚くんの時代なのだ。

*ロードショー上映中
2002-02-14

『バトル・ロワイアル』 高見広春 / 大田出版

誰かを愛することは、別の誰かを愛さないってこと。


先週、私が分身のように可愛がっていたマッキントッシュ パワーブックが盗まれた。大打撃なんてもんじゃない。日本の安全神話は崩れている―そんな言い古されたような言葉が、初めて実感を伴った。悔しいし、悲しいし、恐ろしいし、仕事になんないし、だけど、そんな状況に負けたくない…という気持ちが入り混じっている。「バトル・ロワイアル」にふさわしい戦闘的な気分である、といえるかもしれない。ほとんど投げやりですが。

(というわけで、インターネット書評コンテストでいただいたピカピカのWindowsが、いきなりメインマシンになった。使いやすくて快適! 不幸中の大幸い! なんてありがたいんだろう)

映画が「描写」なら、この原作は「解説」だ。殺し合いゲームに参加させられる生徒一人ひとりの足取りと葛藤、生まれ落ちた環境や家族、恋愛といった背景を詳細にたどってくれる。人物の内面に自在に入り込み、死ぬ間際の心境まで説明してくれたりもする。視点がばらばらという意味では散漫だし、かなりの長さでもあるが、「書きたいことを制約なく書いた」という作者の満足感のようなものが伝わってきて爽快だ。

たとえば、徹底的な特殊教育により、世界中のありとあらゆることを知っている桐山という生徒がいるのだが、そんな彼も、自分の奇妙な感覚の原因だけは知らなかったと説明される。母親の胎内にいたときの事故により、微細な神経細胞が破壊されたのだ。そういうこの世の「誰も知らない事実」が神の視点から語られる。

「ピーナッツのように左右半分ずつが上下にずれた顔。そしてその死体は、ほんのすぐそこに転がっている。ごらんください、世にも不思議なピーナッツ男です―」
「美少女二人が見つめ合ってるわけだ。アクセサリに、目をつぶされた男の死体。あらまあ、なんて美しいの」
「頭の右上から、何か、細長くデフォルメしたカエデの葉のような形の、赤いしぶきが、伸びていた」
「うわあ、それ、すごくいい方法じゃん!俺、これがパソコンゲームか何かだったら、絶対そうしちゃうな」

作者は明らかに、ふざけている。だが、このデフォルメしたゲーム感覚のノリこそが、現代のリアルなんだと思う。真剣勝負の時に限って、くだらないジョークを思いついてしまったり、悲劇的な状況の中ですら、それをネタにして友達を笑わせようと考えていたり…これが私たちの、どうしようもない日常であり、傷つかずに生きるためのしたたかな処方箋なのだから。

生徒の一人は「誰かを愛するっていうのは、別の誰かを愛さないっていうことだ」なんてセリフを吐く。この小説のテーマはここに尽きるだろう。私たちは、何かを選びとらなければならないのだ。まったく、勉強になるぜ。

私自身、嫌な事件があったおかげで、自分にとって大切なものは何か、最後に選びとるべきものは何か、ということが以前よりもクリアになってきた。少なくとも、モノやお金じゃないってことは確かだ。
2001-02-04

『結婚。』 ナガオカケンメイ / 新潮OH!文庫

愛人にすすめたい、結婚の真実。


2年目の結婚記念日に、夫が妻へ贈った絵本(というか手紙だ)。あんなに愛し合っていた彼女なのに、結婚して子供が生まれると、いつのまにか気持ちが醒めてしまう........危機に陥った夫婦が関係を修復させるまでの物語だが、実話であることがポイント高い。あっという間に読めてしまうので、何度か読んでみたが、何度読んでも涙が出る。悔しいほどに。

後半部の妻のセリフには、見習うべきものがある。男も女も、危機のときにはこういうセリフを言わなければならないんだな。それができた夫婦は、きっと乗り越えられるのだ。相手の痛い部分を責めたり、泣きごとを言ったりするのではなく、ふっと空を見上げて美しいため息をつくような、そんなひとことだ。

<結婚とは「大好きな人と一緒にいること」ではないと思う。結婚とは「どんなことも受け入れること」ではないかと思う。> と筆者はあとがきで述べているが、それはどうかな、とアマノジャクな私は思う。そんな妥協的な生き方はしたくない。一生、大好きな人と大好きなまま一緒にいるべきじゃないの?って思う。だけど、この本のエピソードがもつ普遍性には、やっぱり泣かされてしまうのだ。

夫婦の危機は、どっちかのせいじゃないってこと。ちょっと擦れ違うと、どんどん擦れ違っちゃうけれど、その代わり、ちょっと歩み寄れば、驚くほどすんなり歩み寄れたりするんだ。

素直でない私は、この本に出てくる智子(愛人!?)が可哀想、などと不謹慎なことを考える。そうそう、この本は、愛人をやっている女性におすすめしたい。彼がなぜ離婚しないのか、その理由がわかるから。
2001-01-19

『英国式占星術』 ジョナサン・ケイナー / 説話社

2000万人が注目する言葉とは?


人間を12星座に分類するなんて馬鹿らしい、って気持ちがどっかにある。だから私は雑誌の星占いなんて読まないのだけど、ハーパース・バザー誌に連載されているジョナサン・ケイナーのページだけは例外だ。彼はイギリスで最も権威ある占星術師だそうで、世界中に2000万人の読者を有し、ウェブサイトには毎日6万人がアクセスするという。

だまされたと思って、単行本まで読んでみた。太陽の位置で占う定番の12星座占いに加え、月、火星、金星の位置関係により、自分自身や知人たちの表の顔、裏の顔が明らかになり、14の相性診断テストがディープに展開されていく。構成もよく考えられており、自分が主役のミステリーをひもとくような楽しさがある。

そして.....どうひいきめに読んでも当たっている! だが、彼の占いの本質は、当たることですらない。魅力の秘密は文体にあり、一度読めばシビれてしまうか笑ってしまうかのどちらかだ。他の占星術師との違いは、想像力の豊かさだと思う。具体的な記述は普遍的な事象につながっており、抽象的な記述は具体的な人生に還元されていく。読んでいるだけで宇宙との一体感が得られ、限りない希望がわいてくる。

たとえば、生まれた時、月が獅子座にあった私という人間に対してはこんな感じ。「あなたは態度が大仰ですし、利口ぶるところがありますし、あらゆる場面で主役になりたがります」........きっつーい!! だけどその後にこう続く。「しかし、同時に稀に見るほど親切で、温かくて、寛大で、純粋でもあります。それだけで千の罪を許されるほどです」........こう言われると、悪い気がしないではないか(笑)。

「(中略)批判を恐れるあまり、善意のよきアドバイスを無視します。うっかりそのアドバイスに従って、バカのように見えるのを避けんがためです」の後にはこう続く。「誤解しないでください。あなたが始終こうだと言うつもりはまったくありません。月の周期があなたに不利に働くときにこんな状態になりうる、というだけの話です。私が無情にも以上のようなことを指摘したのは、不安を建設的に処理する能力があなたの中に備わっているからにほかなりません」.........要するに、とっても教育的なのだ。

この本が教えてくれるのは、パーソナル・コミュニケーションの方法論なのかもしれない。占いや言葉は、他人を嫌な気持ちにさせるためのツールではないということ。説教なんて、誰も聞きたくないのだから。

他者への思いやりと本質への洞察力。そんな彼の資質にこそ、学ぶべきものはある。だから、うまく気持ちが伝わらないアイツのことを、この本でこっそり調べたりした場合なども、自分を前向きに反省しながら、素直に相手を尊重しようって気になってくる。意外な視点を発見して、ふっと楽になれる。どうして当たってるんだろう? どうして面白いんだろう?って考えるだけでも快楽。

日本版のウェブサイトでは、12星座の「週間予報」のほか「2001年の恋愛予報」が本日アップされた。
http://www.cainer.com/japan
2001-01-12

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』 ラース・フォン・トリアー(監督) /

逃避としてのミュージカル映画。


「説得力のあるミュージカル映画」である。ドキュメンタリー的なシーンと、つくりこんだミュージカルシーンの対比が印象的。ビヨーク演じる主人公は、ちょっとした物音に反応し、それは空想の中で音楽となり、やがて皆が踊り出す.......ミュージカルは、つらい状況にある彼女にとって「もうひとつの現実への逃避」なのである。そこでは皆がいい人になり、悲惨なシーンを補うような形で互いに許し合う。ミュージカルとは、絶望的な現実の中での自在な想像力なのだ、とこの映画は教えてくれる。

手持ちカメラによる日常シーンにはわくわくするし、いくつかのミュージカルシーンにもぞくぞくする。機械の音、風の音、列車の音がリズムを刻みはじめ、音楽になっていくプロセスは最もシンパシーを感じる部分だ。しかし、物語は次第にドラマチックになり、説明的な過剰表現へとエスカレートしていく。

60年代アメリカの片田舎。そこに移民してきた東欧の女(ビヨーク)は、失明寸前にもかかわらず、女手ひとつで息子を育て、危険な工場での昼勤と夜勤に加えて内職までこなし、トレーラーハウスに住む。眼の病が遺伝することがわかっていながら息子を産んでしまった彼女としては、彼の失明だけはなんとしても食い止めなければならない。だが、息子の手術のために貯めたお金は、秘密を共有した男友達に盗まれ、彼女は男友達を殺す「はめ」になる。裁判では息子のため(今、息子に眼のことを知らせると精神的ダメージにより手術は成功しないのだそうだ!!)、そして男友達との約束のため(彼女は息子思いなだけでなく、根本的にけなげなのだ!!)、真実を語らない.......。

これって、美しい話だろうか? 都合よくつくりすぎな感じは、まさにおとぎ話だ。「失明の部分は、別の作品に影響され、あとから加えた」というような監督のインタビューを読み、ますますそう思った。不治の病というのは、そんなふうにあとから軽々しくつけ加えるべきテーマではないのでは?と私は思う。

裁判における類型的な図式もすごい。移民である彼女は、エリートである男友達との対比において圧倒的に不利であり、観客は「弱くて正しい者の悲劇」に涙せざるを得ない....。ところが、飛行機恐怖症の監督は、裁判の国でありミュージカル発祥の国でもあるアメリカに一度も行ったことがないそうで、ロケはすべてヨーロッパでおこなわれた....。要は、この映画のすべてがセンチメンタルな幻想なのだという気がした。彼女がミュージカルに逃避するのと同様に、映画自体もまた、幻想の世界に逃げている。

好意的に解釈するなら、20世紀を総括する映画としてふさわしい懐かしさと力強さに満ちている。よくも悪くも「大作」なのだ。さまざまな名作のオマージュ的なシーンが楽しめるし、ミュージカルの意味を問い直す批評的視線は新しい。ビヨークの曲、歌詞、表情、動きは才気にあふれ、脇役としてのカトリーヌ・ドヌーブも、ただものではない演技を見せてくれる。

*ロードショー公開中(2000年 デンマーク映画)
2001-01-06